(prologue)
まだ人と呼べる存在が希薄で、神々との境界線があやふやな時代。
類稀なる美貌の少年がいた。
彼の名はナルキッソス。
彼の姿を見た人々はもちろん、神々をも虜にしてしまうほどであった。
彼は周りの人間たちからだけでなく、神々からも寵愛を受けていた。全てにおいて公平であるべき立場の神々ですら、誰もが彼を己の欲しいままにしたいと思っていた。
ある日、森の中を散策していた彼は、初めて訪れた場所でとても美しい人と出会った。
その美しい人に、ナルキッソスは一瞬で心を奪われてしまった。
それが湖の水面にうつった自分の姿とも知らずに。
ナルキッソスはそこから一歩も動かなかった。
美しいその姿に見惚れていたのも理由の一つだが、自分がその場から離れると愛しい人が他の誰かに連れ去られてしまうような気がしたのだ。
実際、少しでも動くと湖面からその人は何処かへ遠ざかっていく(当然のことではあるのだが)。
ナルキッソスが愛を囁いても返事はない。ただ口元だけは彼と同じように動く。どんなに望んでも、愛しい人の声がナルキッソスに届く日は永遠に来ない……。
それから何日、何週間が過ぎただろうか。ナルキッソスは何も口にすることがなく、衰弱していった。しかしやつれてもなお、その美しさは衰えることを知らない。
見かねた神々が、代わる代わるナルキッソスに「せめて食事を摂るように」と助言をしに行ったのだが、自分の姿に恋をしてしまった彼が気の毒で、誰ひとり本当のことを教える者はいなかった。
彼は湖面に映る愛しい人がやせ細っていくことを心配し、優しく声を掛け続ける。
「そんなにやせてしまって……。どうしたの?大丈夫?」
それからさらに何日もの時間が過ぎ、それでも湖のほとりから離れないナルキッソスを見兼ねて、ある日ひとりの女神が、とうとう彼に本当のことを伝える決心をした。
「ナルキッソス、お前が愛しく思い慕う美しい人は……」
声をかけた女神は言葉を失った。
ナルキッソスはその場で息絶えていたのだ。湖面を覗き込み、愛しい人を心配し、心から愛しながら。
女神はナルキッソスを不憫に想い、彼のその頭をもたげた亡骸を花の形に変えた。
これがナルキッソス、水仙である。
その後、彼の魂は天に召され、浄化され再生した。
生まれ変わり、再び地に降り立ったのだが、あまりに強い恋心で愛しい人を求めたが故に、一つのはずのナルキッソスの魂は二つに分かれ、ひとりのものではなくなってしまっていた……。