閑話・《紅炎の魔法使い》フレアはチョロインである?
昼過ぎ。
《紅炎の魔法使い》フレアは、憂い顔で勇者・光一の眠る部屋から出た。
彼女にとって……いや、古参の勇士にとって、朝昼晩の光一の世話は、まったく苦ではない。
なんなら自分ひとりで全部やりたいくらいだ。
だが、語りかけても返ってくるものがないというのは、心が寂しくなる一方だった。
(はやく、また声を聞かせてよ……光一のバカ)
暗くなる気持ちをどうにかしようと、フレアは何時も通り、都合の良いサンドバッグを探した。
即ち、この神殿に居座る邪魔者。狩谷太悟だ。
邪魔といっても本当にいなくなられると困るのだが、目障りには違いない。
間違っても光一を押し退けてこの神殿の勇者になどならないように、立場をわからせておく必要がある。
(今日はまだ掃除してないみたいだし、その辺から責めてやろーっと)
実際のところ太悟に掃除の義務はなく、責めたところで言いがかりに過ぎないのだが。
自分が今、どんな顔をしているのか気にもせず、フレアは転送部屋の方に向かった。
魔物でもない誰かを傷つけようとしていることに、罪悪感も何も感じてはいない。
そもそも、太悟が同じ人間であるという発想すら、フレアからはほとんど失われていた。
かつての彼女は、長い歴史を誇る魔法学院でも有数の天才であり、戦場においてはいかなる魔物にも臆することなく炎を浴びせる気高き勇士だった。
今ではもう、得意の魔法は太悟を脅し、ちょっかいをかける以外には使われていない。
堕ちた自分を恥じる良心も、雲隠れして久しい。
ちょうど戦場から帰還したらしく、フレアは転送部屋から出てきた太悟を見つけることができた。
コロナスパルトイを身に纏い、狂剣リップマンを腰に佩き、旋斧カトリーナを担いだその姿は、まるで歴戦の勇士のようだ。
この神殿にやってきた当初の情けなさ、頼りなさは、もう欠片も感じられない。
一歩踏み出した足音は重く、自信に満ち溢れていた。
(ナマイキね。むかつくわ)
頼り甲斐など、太悟には求めていない。
フレアはふんと鼻を鳴らし、太悟の前に出た。
「あら、掃除もしないでどこほっつき歩いてたのかしら。いいご身分ねえ」
竜の頭骨を模した兜が展開し、太悟の顔が現れる。
黒髪、黒い瞳。構成する要素は光一と大して変わらないのに、フレアは太悟の顔を見ると無性に腹立たしくなるのだ。
「どこにって、戦場だよ。グリーンメイズ。バイコーンライダーとか、樹老怪とか……まあ、いつもの討伐だね」
バイコーンライダーは、その名の通りバイコーンに武装した人型の魔物が騎乗したもので、《豪熊公》ガラシが誇る精鋭だ。
樹老怪は、巨大な古木に手足が生えた魔物で、驚異的な怪力と堅い樹皮を持ち、痛覚を持たない。生半可な攻撃では動きも止められず、全滅に追い込まれる勇士も少なくない。
どちらか一体だけでも、この神殿の勇士団に一人で倒せる者はいない。
フレアは舌打ちした。
太悟の言うことが、嘘でもはったりでもないことがわかってしまうからだ。
身に纏う装備は、どれもが強力な魔物がドロップしたものであり、そういった武装は戦って得るしかない。マリカが持っている光鷹剣ラーもその一つだが、それを含めても、この神殿には片手で数えられる量しか置いていない。
鎧の下には身体能力を強化する魔法の道具を身につけていて、肉体そのものも様々なポーションや霊薬で補強しているようだ。
戦場に出ることを拒否して大分経つが、それでもフレアは勇士だ。
目の前の相手が強いか弱いかくらいは判断できる。
そして、太悟は前者だった。
(ゼリーボールにもボコボコにされる雑魚だったくせに、調子にのって……!)
フレアは奥歯を噛み締めた。
太悟が戦場に出るようになって間もない頃、傷ついた体を引きずって歩いているところを嘲笑うのがフレアの楽しみだったが、当分はできそうにない。
「……ああ、そうそう。報告書なんかは、ちゃーんと出してるんでしょうねえ? それくらいできなきゃ、魔物倒せたってただの野蛮なお猿さんよ?」
内心で悔しがりながらも、フレアは余裕の表情で、別の切り口から太悟に仕掛けた。
(光一はああいうの苦手だったし、こいつだったらぜんぜんやってないに決まってるわ)
さんざん詰って馬鹿にしてやろう。そう構えていたフレアだったが、
「毎回ちゃんとやってるって。あれ出さないと報酬もらえないし、僕の分だけだからすぐ終わるし。掃除は、報告書の後でするよ」
―――あー、俺あんまりそういうヤツ書いたことなくってさ。フレア、悪いけど代わりにやってくんない?
不意に、光一の声がフレアの脳裏に蘇る。
あれは何時だったか。この神殿が機能し始めてから、間も無い頃だ。
「ちょっと、光一! あんた報告書出してなかったの!? 教会から催促状が届いてるわよ!」
フレアは肩を怒らせながら、勇者の部屋に飛び込んだ。
勇士達から出撃の報告を聞き、それらを纏めて教会に提出するのは、数少ない勇者の仕事の一つだ。
内容としては、勇士達がどこの戦場でどんな魔物と戦ったのかなど。
マジックタブレットにも討伐の記録はされるが、それだけでは足りないのだ。
たとえば、幹部に近い強力な魔物と戦った場合。
最善は倒すことだが、それが叶わなくても攻撃方法や弱点などの情報を持ち帰れば、他の神殿に周知することができる。
地味で退屈だが、重要な仕事なのだ。
それを、どうやら光一はさぼっていたらしい。
すでに朝とは言えない時間になっているにも関わらず、光一はまだベッドの中にいた。
ついでに見目麗しい女の勇士が二人、一糸まとわぬ姿で光一に抱きついている。
フレアは別段、ふしだらとは思わなかった。彼ほどの男なら多くの女性を惹きつけて当然だし、彼女もまた、その中の一人だ。
むしろ逞しさに惚れ直すくらいで、何故自分を誘ってくれなかったのかと嫉妬していたが、報告書の件は別の話だ。
「ふわ……なんだよフレア~。俺、昨日の夜がんばり過ぎて、まだ眠たいんだよぉ……」
のんびりと目を擦る光一を、フレアは怒鳴りつけた。
「なんだよじゃないわよ! 報告書! ちゃんと出しなさいってあれほど言ったじゃない!」
報告書は、神殿が活動している証明にもなる。
魔物を退治し、そのことをきちんと報告していれば、サンルーチェ教会はあまり神殿に干渉してこない。
しかし、報告書の提出があまりにも滞れば、その神殿は健全に運営されていないとみなされ、最悪の場合解体もあり得るのだ。
そのことを、フレアは光一に再三忠告していた。
そもそも、勇士達が戦場で命懸けで持ち帰ってきた情報を無下にするなど許されない。
フレアは間違いなく光一を愛しているが、その上で見過ごせないこともある。
光一はぽりぽりと頭を掻き、ごろりと背中を向けると、
「あー、俺あんまりそういうヤツ書いたことなくってさ。フレア、悪いけど代わりにやってくんない?」
気怠そうな声で、そう言い放った。
「はあ!? そんなの……!」
「だってフレアって勉強すっげーできるんでしょ? そのホーコクショ?だってラクショーじゃん?」
「………」
フレアは口をつぐんだ。
怒りで、ではない。以前ちょっとした会話で、勉強が得意であると話したことを、光一が覚えていてくれたという感動によってだ。
「なあ、頼むよ~……フレアだけが頼りなんだって、マジで……」
「あたしだけが頼り……!」
すでに、フレアの頭からは先程までの怒りは消え失せていた。
あるのは、愛する光一が自分を頼ってくれている、その喜びだけだ。
顔はトマトよりも真っ赤に染まっていて、感情を隠そうともしない。
「そっ、そうよ、天才のあたしなら報告書なんて楽勝だもん! し、しかたないからやっといてあげるわ!」
フレアは弾む心そのままに、飛び跳ねるようにして勇者の部屋から出ていった。
すぐに、部屋の中で昨晩の続きが再開されたが、浮かれきった少女は気付かない。
それからは、書類仕事のほぼすべてが、フレアの仕事になった。
(……そんなこともあったわね。光一……)
思い出に胸が痛み、フレアは危うく泣きそうになった。
もちろん、あれが他の男だったら容赦なく魔法で炙っていただろう。
フレアを天才たらしめたのは、才能だけではなくその真面目さだ。
座学は予習復習を忘れず、課題は必ず期日通りに終わらせる。
当たり前に見えて、多くの人間がおろそかにしやすいそれらの大切さを、フレアは理解していた。
だから、勉強もせず遊び呆けてる生徒や、課題を仕上げられない生徒などは、常に侮蔑の対象だった。
教えてくれと頭を下げて来ないのであれば、助けてやる義務も義理も無い。
フレアは孤高に、自分の道を突き進むことができる人間だった。
逆に、自らの義務に忠実で、努力している者をフレアは好んだ。
能力に関係なく、それができる人間は敬意に値する。
同じ学年の女子がしていた惚れた腫れたの話には興味はなかったが、将来もし異性と付き合うことになったら、そんな人物が良いと思っていた。
………だけど。それなら、
(光一なら、いつだってなんだって助けてあげる。だってあたしは、光一のことが)
――――自分は、光一のどこを好きになったんだろう。
「……なあ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
太悟の声で、フレアは我に返った。
知らずの内に呼吸を止めていたようで、息が苦しい。
何か、触れてはいけない何かに触れてしまったような気がする。
こびり付くような恐怖を振り払うように、フレアは声を張り上げた。
「うるさいわね! あんたなんかに心配されるほど、あたしは落ちぶれてないわ!」
「ならいいけど……ああ、そうだ」
怒鳴り声を風と受け流し、太悟は腰のポーチを漁った。
取り出されたのは、陶器の小瓶だ。
「なによ、それ」
「グリーンメイズの近くにある村でもらったんだよ。いろんな病気に効く薬だってさ。勇者に使えるかと思ったけど、君が飲んだ方がいいかもな」
「……余計なお世話よ」
フレアがひったくるように小瓶を受け取ると、太悟は廊下の奥へと歩いていった。
フレアは、しばらくの間、そこを動けなかった。
「……光一、愛してる。大好きだから……ね?」
まるで自分に言い聞かせるかのように、フレアは呟いた。
どんな理由があっても自分の行いは消えない。