《精霊射手》ファルケ
穏やかな日差しが降り注ぐ草原、ファーストプレイン。
初めて戦場に出た狩谷太悟は、洗礼としてゼリーボールの突進をもろに腹に受けた。
「ぶげっ」
太悟は身体をくの字に曲げて蹲り、激しく嘔吐した。
殴り合いのケンカすら経験の無い日本人の少年の初陣は、非情なまでの痛みを伴っていた。
追撃を加えようと、ゼリーボールが周囲を飛び跳ねている。
(チート能力って、やっぱり必要だったんだな)
胃液まで吐き出しながら、太悟はそんなことを思っていた。
本来なら、勇者である太悟が戦場で戦う必要はない。
それは勇士団の仕事であり、戦闘の専門家である彼らなら、ゼリーボールのような最下級の魔物など敵ではない。
普通の勇者と勇士団ならば。
あらゆる体液に塗れ、必死の思いで逃げ帰った太悟を迎えたのは、《紅炎の魔法使い》フレア。
赤い髪の少女は、太悟を見るなり「はん」と鼻を鳴らした。
「ひっどい恰好ね。あ、近付かないでくれる? あんた臭いもの。うっかり焼き殺しちゃうかも」
立てた指先に小さな火球を喚起して、フレアは太悟を脅した。
わざわざ戦場に行って魔物に炎を浴びせるのは大儀だが、傷ついた勇者代理に向けるのは簡単で楽しいということだ。
「光一だったら、そんな目にあわないんだけどねえ。というか、あたしたちがあわせないしー」
彼女たちにとって守るべき勇者は、今なお眠り続ける日向光一だけであり、太悟は……ただの邪魔者に過ぎなかった。
「だからさ、出しゃばらないで大人しくしててよ。あんたはいるだけでいいんだから」
傷の治療を求めて、《慈雨の呼び手》ベアトリクスを頼れば、彼女は見惚れるような笑顔でこう返してきた。
「なぜ私がそんなことをしなければならないのです?」
勝手に戦場に行って、勝手に怪我をしてきた。
そんな奴のために、女神に奇跡を乞うなど時間の無駄だ。
それがベアトリクスの言い分で、一理が無いわけではない。
もっとも、勇士達が娯楽で資金を消費し、太悟以外に戦場に行くものがいない状況でなければ、だが。
「でも、怪我がもとで死んでしまわれるのはまずいですね。これを差し上げましょう」
そう言って、ベアトリクスは中に緑の液体が入ったガラスの小瓶を渡してきた。
埃でもこびり付いているのか、表面は妙にざらざらとしている。中の液体も、心なしか淀んでいるようだ。
「古いポーションが残っていてどうしようかと思っていましたが、良い処分方法がありましたね。私だったら蓋を開けるのも嫌ですが……まあ、大丈夫ですよ、たぶん」
じくじくと痛む傷。背に腹は代えられず、太悟は意を決してポーションを飲んだ。
口から胃の腑へ伝わっていく液体は、吐き気がするような味に、涙の塩味が混じっていた。
神殿の中庭。激しく鳩尾を突かれ、太悟は蹲る。
丸まった背中に、力任せに木刀が振り下ろされた。
「どうした。お前が剣を教えてくれと言ったんだろう? どうした、さっさと立て!」
《流れの女剣士》マリカが怒鳴り声をあげる。
太悟を蹴り倒して仰向けにさせ、無防備な腹に木刀の切っ先を突き立てた。
打たれた箇所は酷い青痣が刻まれ、口からは苦鳴さえ出てはこない。
戦場で戦う術を求め、またコミュニケーションを取ることによる相互理解を求めて、太悟はマリカに教えを乞うた。
その結果が、木刀による滅多打ちだ。太悟は無手で、防ぐこともできない。
動けなくなった太悟の顔に、唾が吐きかけられる。
「その程度で勇者のつもりか? 光一なら、きっと立ち上がっているぞ。情けない男だな」
光一少年も日本の平凡な学生で、痛みへの耐性は太悟とさして変わるまい。
そもそもマリカが光一を傷つけることなどありえないから、まったく意味のない仮定である。
実際にどうなのかは、マリカにとっては重要ではない。
顔の造形から所作、声がどうだの歩き方がどうだの、何が何でも光一と比較して、太悟をこき下ろしたいのだ。
言いたい事は、先の二人と何も変わらない。
「お前など、勇者とは認めない」だ。
女神の誘いに乗り、やってきた異世界は、太悟に苦痛ばかりを与えていた。
神殿で求められた役割は、勇士団を維持するための置物。あるいは、叩いて遊ぶサンドバッグか。
出しゃばるなと言っておいて、太悟が埃っぽい物置でじっとしていれば、勇士達は聞こえるように「無駄飯喰らい」と陰口を叩くのだ。
神殿を管理するサンルーチェ教会に相談しても、役に立つ答えは得られない。
時々、遠巻きに投げかけられる視線は無害だったが、助けにはならなかった。
中にも外にも味方はいない。
ならば、戦って倒してもいい敵を相手にする方が、ずっとましというものだ。
痛みに耐え、魔物への恐れを乗り越えて、太悟は戦場に出続けた。
戦って魔物を倒せば、勇士達も功績を認めてくれるのでは、という思いもあった。
ゼリーボールを倒すために、太悟は一週間をかけた。
次の週で、獰猛なウィードリザードを倒せるようになった。
さらにその次の週には、太悟はファーストプレインを我が家の庭のように歩けるようになっていた。
太悟は力を必要としていた。
この味方のいない世界で、生きていくための力を。
―――汚濁の沼地ロッテンボグ。
かつては生命溢れる湿地帯だったその戦場は、今や死臭に満ちている。
空は常に灰色に曇り、足場の泥には腐れた肉や脂が混じっていた。
まともな植物は芽さえ生えることはなく、蔓延るのは魔物ばかり。
太悟はイツトリとパズトリを両手に握り、泥を蹴立てて走っていた。
相対するは、蛇竜アレシヨス。黒い鱗に包まれた長い体から、丸太のような前足が一対生えている。
黄色に光る眼は、他の魔物と同じくすべての生命に対する憎しみに染まっていた。
強力な魔物である。
象にも勝る巨大な体、そこから生み出されるパワー、身を守る強靭な鱗、口から吐く毒息。
多くの勇士団が討伐を試みて、そして果たせなかった魔物だ。
そのアレシヨスに、太悟は単身立ち向かっていた。
「我が毒で腐れて死ぬがいい、ニンゲン!」
アレシヨスの口腔から、毒々しい緑の煙が噴射される。
ヴェノムブラスト。広範囲に毒息を撒き散らし、敵を一掃する技だ。
常人が吸い込めば、たちまち血反吐を吐いてのたうち回るだろう。
触れるだけでも有害で、たちまち皮膚が溶けて肉が腐る。
訓練や特異体質で多少毒に耐性があろうと、死ぬまでの時間が多少延びるに過ぎない。
それを、太悟は真正面から受けた。死の風が激しく少年に吹き付ける。
元より避けたつもりでも効果範囲から逃れるのが難しい攻撃だが、それ以前に直撃だ。
《孤独の勇者》が文字通り崩れ落ちる姿を想像し、アレシヨスは愉悦に目を光らせる。
だが、そうはならなかった。
緑の煙が晴れた後も、太悟は平然と走り続けていた。
「馬鹿な……」
アレシヨスは呻いた。こんな光景は、今まで一度としてなかったのだ。
魔法や奇跡による守護無しで、ヴェノムブラストを受けて生き延びられる生物など存在しない。
「毒がやばい魔物って聞いて、対策しないわけないだろ!」
そう言う太悟は、木製の仮面を被っていた。
赤や黄色の塗料で色付けされ、そのデザインは鳥を模しているとも蜥蜴に似せているともつかない。
聖霊のマスク。
以前、魔物の討伐で訪れた集落で、年老いたシャーマンから譲り受けた装備だ。
防具としての純粋な防御力は低いが、毒などの状態異常攻撃を無効化する力があった。
もちろん、だからといってアレシヨスは簡単に倒せる相手ではないのだが。
「毒が効かぬくらいで良い気になるなよ。叩き潰してくれる!」
そう、アレシヨスの武器はヴェノムブラストだけではない。
鉄杭のような爪の生えた右前肢が、竜の剛力を込めて繰り出された。
爆撃のような轟音とともに、爆ぜる地面。泥が、逆さの雨のように曇った空に舞い上がる。
だがその中に、人間の血肉は含まれていなかった。
太悟は、最小限の動きと距離で攻撃を回避。アレシヨスの右横に回り込んでいた。
大きく転げ回って避けるのは、体力を消費するし隙も大きい。
アニメや漫画のキャラクターがやっていたようなことを、太悟は何時の間にかできるようになっていた。
けれどもう、そんなことで感動するほど純真でもない。重要なのは、どう魔物を殺すかだ。
アレシヨスの横っ腹を、イツトリで斬り付ける。鋭い黒曜石の刃は、しかしその強靭な鱗を傷つけられなかった。
こちらを捉えようとする竜の動きに合わせて位置を変えつつ、太悟はさらにさらに刃を放った。
結果は、みんな同じだ。太悟は舌打ちした。
豹戦士の爪なら可能性はあるが、無駄撃ちは避けたい。
(毒はとりあえず大丈夫。胴体への攻撃が大して効かないのは情報通り。なら、後は……)
泥を蹴って跳躍し、太悟はアレシヨスの背中に乗った。硬い鱗に覆われた足場は、ロッテンボグの地面より遥かに動きやすい。
そのまま長い首を駆け上がる。ところどころ生えた棘のおかげで、足を滑らせることもない。
そうして辿り着いた竜の頭に向けて、太悟は両手の武器を振りかざした。
「ぐあっ!!」
上がった声は、アレシヨスが発したものではない。
突如背中に激しい衝撃を受けて、太悟は吹っ飛ばされて泥の上を転げ回った。
アレシヨスの太い尻尾の先端が、太悟を打ち払ったのだ。
軽トラックくらいなら粉々になるような一撃を受け、太悟は苦痛に呻きながら立ち上がる。
戦闘服の表面を、不潔な泥がもたもたと滑り落ちてゆく。
ゼリーボールの体当たりで戦闘不能になっていたのは、もう昔のことだった。
今はもう、この程度のダメージはいちいち回復する方が億劫だ。
「そのまま動くなよ。今、楽にしてやる!」
尻尾が当たったことで気を良くしたアレシヨスが、のしのしと近付いてくる。
太悟は聖霊のマスクを指で撫でた。壊れてはいないから、ヴェノムブラストは依然として脅威ではない。
残りの武器で殺されないためには、少し小細工が必要だ。
太悟はポーチに手を伸ばし、必要な道具を取り出した。薄く発光している、卵に似た大きさの石。
迫るアレシヨスに向けて、太悟は力いっぱい石を投げつけた。
強大な竜にとって、そんなものは攻撃にもならない。いちいち避けることなどせず、当たるに任せる。
首の付け根の辺りに触れた石は、跳ね返らず、その瞬間に――――砕けて光と衝撃を放った。
「むっ、何だ!?」
アレシヨスが目を白黒させる。
太陽石。女神サンルーチェの力が込められた聖なる石。
魔物が触れると、光と衝撃を伴って破裂する。
知能が低く弱い魔物なら、驚いて逃げ出すこともあるが、それが限界だ。
どう間違っても、竜に致命傷を与えられるような力はない。
その太陽石を、太悟はポーチから次々と取り出して投げまくった。
ぱん、ぱん、ぱん。
薄暗い沼地に、光の花が咲く。一瞬咲いては立ちどころに消える、儚い花が。
「こけおどしはもうたくさんだ。他に芸がないなら、諦めて死ぬがいい!」
「心配するなよ。これで終わりにするから……石はな」
そして、太悟はポーチから取り出したものを、アレシヨスに投げつけた。
直撃が脅威にならない投石にすっかり油断していた蛇竜は、いちいち回避などしない。
しかし、アレシヨスの鼻先に当たったのは太陽石ではなく、灰色の液体が入った小瓶だった。
小瓶はあっけなく割れる。中の液体は、外気に触れた瞬間大量の白煙と化して、アレシヨスの頭部を包み込んだ。
スモークポーション。
その名の通り、煙幕としての効果を持つポーション。
それ以外の効果はない。吸い込んでも無害で、煙は三十秒もすれば消えてしまう。
だが、太悟にはそれで十分だった。
アレシヨスは蛇竜だが、蛇のように熱を探知する能力はない。
耳や鼻は利くものの、もっとも頼りにしているのはやはり目だ。
白い闇に視力を奪われたアレシヨスは困惑し、暴れている。
尻尾を振り回し身を捩り、しかし動きは単調で大きく移動をしない。
「グウウウッ! こんな煙などっ」
アレシヨスが吠える間にも、太悟は走り出していた。
二度も通用はしない手だ。ここで決めなければならない。
充分に接近したところで、太悟は跳躍。ほとんど同時に、スモークポーションの効果が切れる。
視界を取り戻したアレシヨスが、最初に見たもの。それは、黒い剣を逆手に持つ、勇者の姿だった。
イツトリの切っ先が、するりと竜の額に突き刺さる。
傷口から瘴気が吹き出し、アレシヨスの頭に乗っている太悟は目を細めた。
長い首の上にあり、毒の息を吹きかけてくる頭部は、なかなか攻撃しにくい箇所だろう。
立派な牙があるにも関わらず噛み付きを仕掛けてこないことや、嘘か本当か「頭に矢が刺さった」という噂から、太悟は頭部が弱点と踏んでいたのだ。
しかし、額に剣が刺さっても、アレシヨスは元気に首を振り回して太悟を落とそうとしていた。
竜の生命力とは驚異的なものだ。もっと決定的な破壊が無ければ、大人しくならないだろう。
「そう慌てるなって。今、殺してやるから」
太悟は、左手でイツトリの柄をしっかりと掴み直した。振り落とされたら、挽回は難しい。
焦らず慌てず。太悟は慎重に、右手で背中のパズトリを掴み、頭上に掲げた。
使い手の意思に呼応して、剣と斧の刃が紫光を帯びる。
その光は照らしはするが、何も温めはしない。敵対者を打ち滅ぼす、破壊の輝き。
「豹神の……牙!!」
真っ直ぐに振り下ろされるパズトリ。斧の刃が勢いよく、イツトリの柄頭を打つ。
パズトリの紫光が、剣に伝わる。紫光と紫光が、混ざり合って膨れる。
それは、撃鉄が下りた拳銃のように。イツトリを砲身として、力が炸裂した。
「グオオオオオオオオオオ!?」
紫光が爆ぜる。アレシヨスの上顎は消失し、それでも収まらぬ威力が衝撃波として沼地を襲った。
かろうじて残されていた痩せた木々は薙ぎ倒され、淀んだ空気が吹き飛ぶ。
アレシヨスの長い体が、ずしんと音を響かせながら崩れ落ちた。数々の勇士を葬ってきた威容は、今や泥に塗れ、力無く横たわっている。
直前に飛び下り、無事に着地していた太悟は、用心深く周囲を探った。大物を倒した後で雑魚に群がられるということもあり得るのだ。
ロッテンボグは静まり返っていた。
先程の魔法の余波に驚いて、弱い魔物は退散したようだ。
豹神の牙。イツトリとパズトリに宿った魔法の、言わば応用だ。
使える場面は限られているが、大抵の魔物は殺せる。
名前は太悟が考えた。命を賭けて戦っているのだから、この程度の遊び心は許されるべきだ。
「グウウ……我は滅びるのか……強壮を誇った、このアレシヨスが……」
下顎しかないにも関わらず、アレシヨスは割と普通に喋っている。魔物だから、普通の生物とは常識が違うらしい。
巨体は少しずつ瘴気に変換され、黒い煙となって噴き出ている。体を動かすことは、もうできない。
「だ、だが……悔いはない。貴様のような強者が、最後の敵だったのだから……《孤独の勇者》よ……」
「僕をそう呼ぶのはやめろ」
太悟は忌々しげに顔を歪めた。
最近では魔物達の中でも広く名前を知られているようで、妙な異名で呼ばれることが多々ある。
好きで単身戦場を走っているわけではないのだから、酷い侮辱だ。
「……餞別に、良い物をくれてやろう。せいぜい、長生きすることだ……」
その言葉を最後に、アレシヨスは完全に瘴気に還った。
通常、死んだ魔物は何も遺さない。しかし、アレシヨスが横たわっていた場所には、鋼色に輝く何かがあった。
兜だ。竜の頭骨を模した兜を、太悟は手に取った。
強い魔物は、死後に特殊な力を秘めた道具を落とすことがある。
太悟は聖霊のマスクを外し、兜―――コロナスパルトイを被った。
「……お前と戦えてよかったなんて、口が裂けても言えないけど」
太悟の全身を、骨の鎧が覆う。
各所に棘を生やし、威嚇的で、如何にも強そうだった。
太悟に仲間はいない。彼を守るのは、身に纏う鎧と武器だけだ。
敵だったアレシヨスは、今は鎧兜として太悟の力になっている。
イツトリとパズトリもまた、同様に魔物から生まれた武器だ。
ならば敵である魔物こそ、彼にとっては最大の味方であると言えるかもしれない。
「お前を倒したことを、無駄にはしない」
太悟はマジックタブレットを操作し、神殿に帰還した。
新たな力を得て、新たな戦場で戦うために。背中を任せる友は無く、武器と鎧だけを伴にして。
狩谷太悟は、本人が決して認めなくとも、正しく《孤独の勇者》だった。
「………う」
何か夢を見ていたらしいが、思い出せない。
夢の残滓を振り払い、太悟は体を起こした。なんとなく顔に手をやり、そして兜を被っていないことに気付く。
それから体の確認をして、簡素な布の服以外に寸鉄すら帯びていないことに慌てた。
いくら強くなったとはいえ、武器の一つもないのでは各下の魔物にも苦戦するだろう。
「……あれ、ここって」
武器を探す過程で周囲を見回していた太悟は、ようやく自分の現在地に気付いた。
白を基調とした部屋に、ベッドがいくつも並んでいる。壁には木製の薬品棚。
神殿の医務室だ。
勇士達が戦場に出ないために最近ではほとんど使われず、太悟も掃除のために入ったことがあるくらいだが。
コロナスパルトイは、太悟が寝ていたベッドの傍にあるサイドラックの上に置かれていた。
カトリーナとリップマンも、近くの壁に立てかけてある。ベッドからでも、太悟が手を伸ばせば届くだろう。
(ドライランドから帰ってきて……そうか、そのまま寝ちゃったのか。またやっちまった)
自戒の意を込めて、太悟はぴしゃりと自分の額を叩いた。同時に疑問が湧いてくる。
誰が自分をここに寝かせてくれたのだろう、と。
マリカなわけがない。彼女なら、太悟が惰眠を貪ることなど許さず、文字通り叩き起こすはずだ。
他の勇士もそうするだろう。少なくとも、太悟に医務室を使わせるとは思えない。
太悟が考えを巡らせていた時、医務室のドアが開いた。部屋に入ってきたのが人間であるとわかると、竜をも殺す勇者は息を飲んだ。
「あ、起きたんだね。だいじょうぶ? どこか痛いところない?」
両手でお盆を持った少女は、そう言って太悟に微笑んだ。
小柄で引き締まった体をしていることは、身を包む服とレザーメイルの上からでもわかる。
短く刈った焦げ茶色の髪に白い肌が映え、金色の瞳が光る目は大きく、顔は小さく、早い話が美少女だ。
昔の太悟なら目にしただけで今日は運が良いと喜んだだろうが、残念ながらこの神殿にいる美男美女は彼のことを蛇蝎の如く嫌っている。
………その筈だが、少女の口から出てきたのは太悟を心配する言葉である。
わけがわからず、太悟はとりあえずの疑問を解決することにした。
「えっと。君は、誰だ?」
名簿によると、この神殿には三十人ほどの勇士が所属している。
太悟は名前こそ知ってはいたが、実際に会ったことがあるのは、マリカを筆頭に古参と言われる十数名だけだ。
あとのメンバーのことはよく知らない。そもそもまともに自己紹介をしてきた奴なんて一人もいなかったな、と太悟は思い出していた。
神殿は広く、太悟も日中はほとんど戦場にいるため、顔を合わせようと思わなければそういうこともできる。
「あたしはファルケ。ファルケ・オクルス。この神殿だと、けっこー新しい方かな」
少女―――ファルケがベッドに近付いてくる。
太悟は、彼女の名前だけは知っていた。《精霊射手》の異名で神殿に登録されている勇士だ。
今のところ、彼女の声や動きに不審なところはない。
もちろん太悟が死ぬなりすれば大問題になるから、勇士たちにできるのは小物じみた嫌がらせ程度だが、一応警戒はしていた。
慣れてきたとはいえ、やられて嬉しいことでもない。
「一晩眠って、お腹空いてるでしょ? スープ作ってきたけど、食べれそう?」
ファルケが差し出してきたお盆の上には、スープが盛られた陶器の器が乗っていた。
琥珀色の汁の中に、角切りされた野菜が沈んでいる。
湯気と共に立ち昇る香りに、太悟はごくりと喉を鳴らした。
この世界に来てからというものの、太悟は料理と言えるものをほとんど口にしたことがない。
神殿では、酷い時には生ゴミを食べさせられそうになったし、物資補充のために街に出かけても、外食するほど財布に余裕はないのだ。
魔物討伐の報酬金は神殿の維持費や勇士達の遊興費で削られるし、ポーション類や消耗品も買わなければならない。
残る僅かな資金で買えるのは、石のように硬いパンや僅かな干し肉くらいだ。
厨房の使用も許可されていないから、太悟は冷たいそれらを腹に詰め込む毎日を送っていた。
助けた人々からのお礼で、ドライフルーツや謎の肉の串焼きをもらった時は、うれしくて泣きたくなるほどだ。
そんなわびしい食生活を送ってきた太悟だが、だからといって「じゃあ遠慮なく」とスープに手を出すほど浅慮ではない。
「何が入ってるんだ?」
まだ、神殿に来て間もない頃。《ジャングルの王女》タラリアから果物をもらったことがある。
太悟は愚かにも無警戒にそれを口にして、酷いとしか表現のしようのない味と吐き気にのたうち回るはめになった。
文化や味覚の違いでないことは、それを見ていたタラリアの嘲笑が証明している。
神殿で出されたものは食べない。それが太悟が身をもって学んだ教訓だ。
あれから太悟は強くなり、多くの魔物を倒した。
参戦できる戦場を増やし、変な異名までつけられた。
それでも勇士達の態度は変わらない。なら、やることも変わらないだろう。
何を聞かれているのかわからなかったのだろう。
えっ、と戸惑うファルケに、太悟は説明してやった。
「君たちが、僕のことを嫌いなのはもう十分わかってる。だけど、だからって僕が死んだらそっちも困るんだろ? 戦場に出ろとは言わないけど、食べ物系はやめてくれ。戦ってる途中で気持ち悪くなったりお腹痛くなったりしたら、シャレにならないぞ……」
そこまで言って、ファルケはようやく理解したらしい。
血相を変えて首を横に振りまくる。
「へ、変なものとか入ってないって! それに、あたしはあなたのこと嫌いじゃないよ!」
「……今度はそういう手で来たのか? なあ、心にもないことを言わせるのも心苦しいし、大物を倒した後で疲れてるんだ。ベッドに寝かせてくれたのは君か? ありがとう。よかったらこのままほっておいて、少し休ませてくれ」
「だから、違うってば! ……違わないか。あたしたちはずっと、あなたにひどいことをしてきたから」
太悟は、自分の発言に一切の皮肉も悪意も込めてはいない。
ただ、今までの経験と照らし合わせて、ファルケが自分にちょっかいをかけに来た勇士だと推定していた。
その上で、タワーオブグリードとの死闘で疲れ切った今くらいは嫌がらせはやめてほしいと、本心からそう訴えただけだ。
だから、ファルケが表情を曇らせるのを見て、本気で困惑していた。
少女はお盆をテーブルの上に置いてから、訥々と語り始めた。
「あなたが初めて神殿に来た時にね。マリカが私たち新参の勇士を集めて、『新しく来た勇者代理はどんな人間かわからない。しばらく私たちが様子を見るから、接触しないように』って言ったの。その時は、別に疑いもしなかった。前例の無いことだし、慎重になってるんだってね」
そもそも太悟がこの神殿に来たのは、女神による指示とマリカによる懇願に応じたからなのだが、そのあたりの話はされていないようだ。
実際、あの時のマリカは心から太悟を必要としていたのだろう。神殿がなくなれば、光一とも離れ離れだ。
そして神殿解体の危機から逃れると、今度は眠り続ける光一の地位を脅かす太悟が疎ましくなった。
馬鹿らしくて目眩がしてくる、と太悟は目頭を指で押さえた。
人を何だと思っているのだろう。
「それからずいぶん時間が経って、だけど接触するなの一点張りで。さすがにおかしいなって思ってマリカに食い下がってみたら……剣を抜いてきた。情けない話だけど、そこでようやく気づいたの。この神殿の中で、よくないことが起きてるって」
古参とは、つまりベテランだ。強く、経験があり、新参の勇士にとっては頼れる先輩なのだ。
それが出撃をさぼって勇者代理をいびっているなど、普通なら想像もしないだろう。
ファルケの話によれば、脅しを飛び越えて斬りかかられた者もいるようだ。殴られ、転がされた者も……
(あいつら、仲間にだけは優しいのかと思ってたけど、そういうわけでもないのか)
古参にとって本当に大事なのは光一で、彼を守るという目的で団結しているようだ。
そうでないものは、排除すべき敵らしい。
「今、戦場に出てるのはあなただけなんだってね。マリカやフレア、ベアトリクス達は光一を起こす方法を探してばっかりで、しかも、君に……あんな、嫌がらせなんて……本当に、ごめんなさい」
謝りながら、ファルケが目を伏せる。
あんな、とはどれのことだろう。心当たりが多すぎて、太悟にはわからない。
それほどまでに、この神殿の勇士達は太悟を傷つけることに熱心だった。
「……それで、君はどうしようってんだ。こうして僕と話してたらまずいんだろう」
懺悔するファルケに、太悟は大して心を動かされなかった。もう、そんな段階ではないのだ。
久しぶりにベッドで眠れたことには感謝している。
しかし、話が終わったのなら、マリカ達が騒ぎ出す前に一人にしてほしい。
「あたしも、一緒に戦う」
幻聴だ。
自分の耳がたしかにそうと捉えたにも関わらず、太悟は信じなかった。
それはずっと聞きたかった言葉であり、そして、今はもうほとんど諦めていた言葉だったからだ。
「戦場から帰ってきて、そのまま倒れちゃうなんて、もうさせない。これからは、あたしがあなたのことを守る。あなたのために戦うから」
そう、ずっと聞きたかった言葉だ。嬉しくないわけがない。
けれど、それ以上に。
「………今さらだ」
何色なのかもわからないほどぐちゃぐちゃになった感情を、抑えることができない。
太悟は、握り締めた自分の拳から血が滲んでいることにも気付かないまま、吐き出した。
「今さら、僕をどう助けようってんだ。僕はもう……一人で戦える。魔物なんて怖くない。痛いのも……爪も牙も、毒や炎も。剣も魔法もへっちゃらだ」
魔物達が口にする《孤独の勇者》の異名は、女神サンルーチェが勇士の証として戦士達に贈るものとはまるで違うのだ。
それは自分たちを殺す者への恐怖であり。
強き戦士への畏敬であり。
打ち倒すことのできない敵への怒りであり。
魔物達からそうした感情を集めるほどに、太悟は戦場を駆け続けてきた。
小隊程度なら軽く蹴散らし、竜とも互角に戦うことができる。
今さら、グリーンメイズ攻略で止まっている勇士達など、なんの助けにもならない。
「………」
ファルケはただ、太悟の言葉を受け止めていた。
きっと、罵倒されることは覚悟だったのだろう。心優しい少女のようだ。
そんな人間に言うべきではないとわかっていても、太悟はもう、止められなかった。
「僕がどんなにお願いしたって、誰も戦ってくれなかったから。だから、僕が強くなったんだ。なのに……なんだよ、今になって! なんで必要なくなってから、助けるなんて言うんだ! もう遅いんだよ! ちくしょうっ」
最後はほとんど叫ぶようにして。自分の強すぎる感情に振り回された太悟は、大きく疲弊していた。
もう何も考えたくない。
一人にしてくれ、と太悟が言葉を絞り出すと、ファルケは静かに退出した。少女の顔を、太悟は何故か見ることができなかった。
扉が閉まる音がして、太悟は彼が望んだとおり一人になった。
ふと見ると、テーブルの上に置かれたスープは冷めつつあって、湯気はもう消えていた。
太悟は仰向けになって、両手で自分の顔を覆う。
部屋には、うるさいほどの静寂だけが残されていた。