勇者のお仕事10
バーンフォークを打倒した後。
太悟がフィンを伴い、ルドナに肩を貸していると、ファルケが駆け寄ってきた。
魔物の鳴き声が聞こえたか、海弓フォルフェクスを何時でも使えるよう準備しているようだ。
「太悟くん! 子供たちを避難させてたんだけど……大丈夫!? 魔物は!?」
「そっちはもう片付いたよ。あ、ポーション持ってる? ルドナさんが足怪我してるんだ」
軽い火傷だが、放置するのは良くない。
太悟たちが使っている回復ポーションなら、すぐに癒えるだろう。
ファルケがマントの裏から、薬液の入ったガラス瓶を取り出す。
飲むだけで切り傷から打撲、皮膚剥離や骨折にも効果がある代物だ。
地球に持ち込んだら製薬会社が群れで襲いかかってくるかもしれない。
ポーションを飲んだルドナは、すぐに動けるようになった。
火傷は残ることなく消え、痛みも引いたようで、表情が和らいでいる。
「すまないね、何から何まで世話になっちまった……火傷と言えば」
そう言って、ルドナが太悟の手を見る。
鎧は解除していたが、グローブはまだ嵌めている。
「さっき、魔物の燃える角を掴んでたけど、熱くなかったのかい?」
「鎧着てたし、グローブもしてたからそんなに―――」
と、太悟が言いかけたその時。
ファルケが血相を変えて、太悟の腕を掴んだ。
「おわっ。ど、どうしたのファルケ」
「手。手見せて」
「え、いや大丈夫……」
「いいから!」
有無を言わせない口調に圧され、太悟はグローブを慌てて外した。
多少掌が赤くなっていたが、狂刀リップマンの力ですぐに治る程度のものだ。
今まで受けて来た傷に比べれば、ダメージの内にも入らない。
しかしファルケはそれで納得するつもりは無いようで、口にポーションの飲み口を突っ込まれる。
「おぼぉっ。いやホントどうしたの!? 大丈夫だってこれくらい……むぐぅ!」
無理やり嚥下させられ、太悟が抗議の声を上げるが、少女は聞く耳を持たない。
瓶の中身全てを飲み干すと、ようやく解放された。
「……太悟くんは戦ってるから、ケガするのは仕方ないって、あたしもわかってる。でも……もっと、自分の体を大事にして」
赤みが消えた太悟の手に触れながら、ファルケが小さな声で言う。
少し離れている内に何かあったのか、どうも何時もと様子が違う。だが、心配してくれているのは確かなのだろう。
だから太悟は、素直に感謝することにした。
「うん。ありがとう、ファルケ」
「……ん」
急に気恥ずかしくなったらしい。ファルケは頬を染めたまま、そっぽを向いてしまった。
何が彼女を駆り立てたのか、と聞くのは野暮だろうか。聞いたところで答えてはくれなさそうだが。
太悟は、火傷の癒えた手を開閉させた。触れた少女の手のぬくもりが、まだ残っているような気がした。
それから畑を修繕し、改めて見回りをしていると、あっという間に日が暮れて来た。
赤く染まった空の下。太悟とファルケは、孤児院の外に出ていた。
帰りの時間だ。
「今日は、本当に世話になったねぇ。懲りずに、またいつでも来ておくれよ」
子供たちとともに見送りに来たルドナが言う。
「またあそんでね、勇者さま」
「今度は剣おしえてくれよー」
「ご武運をお祈りします」
子供らが口々に言って、手を振る。その笑顔が夕陽を受けて、眩しい。
そんな中、一人の少年が太悟の前に出て来た。彼は、フィンは、服の裾をぎゅっと握り、俯いていた。
昼間の出来事を見ていたファルケが、はらはらしながらそれを見守っている。
フィンは口をもごつかせていたが、やがて顔を上げると、
「あ、あのっ!」
太悟を見上げ、声を張る。
「ぼ、ぼくっ。ひどいこと、しました。泥をぶつけて、ひどいこと言って………ごめんなさい」
太悟は膝を折り、フィンの肩に手を置き、視線を合わせた。
小さな体が震える。
「君が謝らなきゃいけないことなんて、一つもないよ」
フィンの目から、涙が溢れた。
「で、でも……でも……!」
「いいんだよ、フィン。いいんだ」
泣きじゃくる幼い少年を、勇者は抱き締めた。
今回は間に合って、誰も命を失うことがなかった。それだけで十分だった。
「たすけてくれてありがとう、勇者さま。また……また来てね」
♯♯♯♯
今にも、星が降ってきそうな夜空だった。
曇りなく澄み切っているならば、自分の声も、天におわす女神に届くだろうか。
《慈雨の呼び手》ベアトリクス・レーゲンは、神殿の中庭で跪き、祈りを捧げていた。
日向光一のために。あるいは、自らのために。
「太陽の女神よ―――どうか、私に導きを。光一さんに、癒しを」
かつて、世界のために心から祈っていたことを考えれば、より凝縮され、純度が高められたと言えよう。
だが、女神がベアトリクスに応じることはなかった。
かつて、彼女が修行していた頃、その声は当たり前のようにそこにあったというのに。
何が原因なのか、皆目見当もつかない。
今まで、息をするかのように起こしていた奇跡が無くなってしまったことに、ベアトリクスは苛立ちを覚えていた。
たとえばこれが、女神の与えたもうた試練だとか、何か自身に問題があるのだという考えは、欠片も無かった。
思考を停止した闇雲なる祈り。元より集中とは程遠いそれを、背後からの声が搔き乱す。
「お取込み中、失礼させてもらう」
振り返らなくてもわかる。狩谷太悟、忌まわしき勇者代理。
嫌みを言うのも面倒になるほど虫の居所の悪いベアトリクスは、気付いていないふりをした。
溜息をつく、そんな音がした。
「届けものだ。あんたの友達と、妹や弟たちから。ここに置いとくから、これだけは絶対に読んでほしい。……みんなの気持ちが、詰まってるから」
ぱさ、と小さな乾いた音。次いで、遠ざかる足音。
太悟の気配が完全に消えるのを待って、ベアトリクスは振り返った。
そこには、二つ折りにされた紙が置かれていた。
材質はざらざらとしていて、見るからに安物だ。聖女として慣れ親しんだ高級紙の足元にも及ぶまい。
しかしそれでも、それは紛れもなく手紙であった。
差出人の名前は無い。ただ、『みんな』とだけ。
ベアトリクスは、それを拾い上げた。
友達、妹や弟たち。孤児院で皆に別れを告げ、神殿に向かった日のことが脳裏に浮かぶ。
目を瞑り、しばし思い出に浸った、その直後。
ベアトリクスは―――手紙を破り捨てた。
細かく千切られた紙片が、足元にはらはらと舞い落ちる。
「もう、光一さんだけのベアトなので」
もはや不動の優先順位が、彼女の中にあった。頂点以下は無意味となる、残酷なまでの。
祈りは中断され、夜闇が寒さを運んできている。ベアトリクスは屋内に入り、愛おしい勇者の眠る部屋に向かった。
無人になった中庭に、一陣の風が吹く。捨てられた紙屑が攫われ、四散する。
そこに込められていた想いは、誰にも届くことなく消えていった。




