勇者代理がんばる 中
「頼む! 我々の神殿に来てくれ!」
運命が変わったその日、狩谷太悟はサンルーチェ教の総本山、アグナウルブにある教会のホールにいた。
これから神殿に行って、新たな勇者としてこの世界のため尽力するのだ。
日本の高校の平凡な学生服を着ていて、まだ戦いも何も知らなかった頃。
女神の姿を描いた美しいステンドグラスを眺めていた太悟に、金髪の女性が縋りついた。
腰に剣を佩き、軽量の鎧を着た、おそらく話に聞いていた勇士と呼ばれる人々の一人なのだろう。
しかし、自分が最初の勇士と出会うのは、勇者として神殿に着任してからではなかったか。
受けていた説明との食い違いと、必死も必死な形相の女性に、太悟はええとああとと戸惑うしかなかった。
しかも……彼女は美人だ。クラスメイトや担任の女教師は元より、テレビやパソコンの画面でもなかなかお目にかかれないレベルの。
ゲームのヒロインが実体となったかのような、という表現が的確だろうか。
男の理想の多くを詰め込んだ、でもいいかもしれない。
香水か何かつけているのか、柔らかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。
狩谷太悟は、平凡な少年だ。
運動が得意でもないし、勉学に秀でているわけでもない。
クラスの中心からは大分離れていて、楽しみといえば同じようなポジションの友人とゲームをしたりアニメの話をする程度。
たとえば、隣の席に学校一の美少女がいて、実は太悟に懸想している……というような展開とも無縁だ。
一年後二年後の自分の姿が容易に想像できる。それが太悟に与えられた人生だった。
にもかかわらず、たとえ世界が終わるまで生きようと話すどころか出会うはずがなかった美女に縋られている。
この状況で舞い上がらない男が、宇宙の何処に居ようか。
太悟は戸惑いながらも、心の片隅で嬉しさを感じていた。この世界に来てよかったと。
「勇者が……勇者がいなければ、我々の神殿が……!」
「え、えっと。僕には何がなんだか」
「―――――《流れの女剣士》マリカ。落ち着きなさい」
二人の間に差し込まれる声。首を向ければ、煌びやかな法衣を纏ったサンルーチェ教の司祭が立っていた。
太悟は、これから司祭による手ほどきを受けてから担当の神殿に向かう予定だった。
急用だと慌ててホールを出ていってしまったたため、太悟は戻ってくるまで暇を潰していたのだ。
金髪の女性……マリカは太悟から離れ、今にも噛みつきそうな顔を司祭に向けた。
「落ち着けだと? 光一が倒れ、我々の神殿が解散されようという時にか? 面白いジョークを聞かせてくれてありがとうよ!」
「気の毒には思うが、私が怒鳴られる謂われはないな。それより……君にとって良い知らせを持ってきたぞ」
そう言って、司祭は太悟に目を向けた。
どきり、とする。勇者になれるという期待感で胸が高鳴ったのではない。
話が厄介な方向に捻じれた、そんな嫌な予感がした。そして事実、その通りだった。
「先ほど、女神様からの啓示があった。狩谷太悟、君には勇者代理として、神殿の第十三支部に行ってもらう」
その言葉を耳から脳に入れると、自然に「えっ」と声が出た。
勇者代理。なんとなく意味はわかる。意味はわかるが、何故そんなことになったのかがわからない。
この世界にやってくる前、現れた女神は勇者になってほしいと頼んできた。
そこに、代理がどうのはくっついていなかったはずだが。
「ほ、本当なのか!? ああ、女神様……感謝いたします!」
「その通り。女神様のご慈悲で、あくまで特例であるということを忘れるな」
天を仰ぐマリカと、これで解決したという雰囲気の司祭。
訳が分からないのは太悟だけ。太悟を置き去りにしたまま、何かが進もうとしている。
ああ、そんなのはよくあることだ。学校の話し合いなんかでも、太悟の意見を聞いて尊重しようという者は誰もいなかった。
太悟自身も、そういう立場であることを気楽に感じていたのだ……これまでは。
(お前は何のためにこの世界に来たんだ、狩谷太悟)
そう、自分に問いかける。
これまでの人生を変えるため。新しい運命を切り開くためだ。
ただ流されるだけなら、何も変わらない。
太悟は小さな勇気を出して、勝手に進んでいく二人の会話に口を挟んだ。
「ちょ……ちょっと待って!! ……ください。だ、代理ってなんのことですか」
そして太悟は、マリカが必死で縋りついてきた理由を知った。
病に倒れた勇者光一。魔物を倒せなくなった勇士団。
光一を勇者に据えたまま神殿を運営するために、光一が目覚めるまでの代理が必要となった。
女神は、太悟にその任務を与えたのだ。
期限付きの勇者。誰かの代わり。
そのことへの反感と同時に、既に人間関係が出来上がっているコミュニティに途中参加することへの不安。
別れを拒むほどに勇士達と光一とやらの間に強い絆があるのなら、一時的にとはいえ太悟が入る余地はあるのか。
そして太悟が必要で無くなった時、一体どういう扱いを受けるのか。
嫌な予感が泥のように頭にへばり付いてくる。首を横に振れと、本能が叫んでいた。
けれど。
「お願いだ。私たちには、君の力が必要なんだ!」
そう言って自分の手を握るマリカを、太悟は突き放すことができなかった。
本気で助けを求めている。
自分を必要としてくれている。
ついでに美人だ。
それぞれ太悟の弱点を的確に突いていて、だから「NO」を突き付けることができなかった。
心が揺らぎに揺らいで、思考が楽観的な方向に傾く。
嫌な予感は、単なる考え過ぎで終わるかもしれない。
きっと大変な仕事になるだろう。だが、その苦労は報われるはずだ。
後になって「あの時は大変だったね」と、みんなで笑い合えるような。
「が、がんばります……」
ぐびりと固唾を飲んでから、絞り出した答え。
そして太悟は、この時の決断を永遠に後悔し続けることになる。
「――――――か、は……っ!!」
太悟は喉を焼く熱に叩き起こされた。夢を見ていた気がするが、内容は思い出せない。
瞼を開いて、最初に認識したのは青い空。次いで込み上げてくる吐き気。
コロナスパルトイのマスク部を展開し、首を横に捻じれば、ごぼっと口から血反吐が流れ出た。
腹の中で内臓が液状化して、それを吐いてるかのような苦しさだった。
体中が痛くて、どこを負傷しているのかも判然としない。
どうやら気絶していたらしい。
意識を強制的にシャットダウンさせられたせいで、自分が何をしていたのかもわからなくなった。
鎧越しに背中に感じる砂の感触。砂の上で仰向けになっているのだと脳が認識し、それからすべてを思い出した。
砂岩兵に、ゴルフボールよろしくかっ飛ばされたのだ。運が良いのか悪いのか、どうやらまだ生きているらしい。
体を起こそうとすると、気が狂いそうな痛みに苛まれる。意味のある言葉が口から出てこない。
右腕は完璧に圧し折れ、装甲の破片が幾つも突き刺さっている。右足も、本来なら曲がらない筈の方向に曲がってた。
内臓も傷ついているらしく、血反吐が止まらない。灼熱の砂漠の中にあって、太悟は凍えるような寒さを感じていた。
微かに伝わる振動と、耳障りな風音。
どれだけ吹っ飛ばされたのか、砂岩兵とサンドデーモンがとどめを刺そうと近付いてきているらしい。
そろそろ、新たなカクタスハンドが出現する頃だろうか。
この世界にやってきてからというものの、太悟は死神に愛されているようで、彼だか彼女だかの鎌が頻繁に首に引っかかる。
それでも、太悟は生きていた。生き延びてきた。
呼吸すらままならずもがく太悟は、両手の武器の柄を、どうにか握り締めていた。
特に、狂剣リップマン。これを手放さなかった自分を褒めてやりたいと太悟は思った。
前に使っていたイツトリのような、強力な攻撃魔法を秘めているわけではない。
だが、それを補って余りある力があった。
みしり。
太悟は、体の奥でそんな音が鳴るのを聞いた。
「……ぐっ、ぎぃいいいいいいいいいいいッッッ」
そう叫んで、少しでも気を紛らわせなければ発狂していただろう。
全身の骨から無数の針が生えてきて、ゆっくり、じっくりと内側から肉を抉る。
今、太悟を襲っている痛みがそれだ。目は血走り、口端から泡が噴き出ていた。
同時に、砕けた骨、腫れた肉、千切れた血管が正常な状態へ戻ってゆく。
狂剣リップマンに込められた魔法の一つ、所持者が受けた傷の修復。
たとえ大きなダメージを受け、回復ポーションが飲めない状態になっても、リップマンが治してくれる。
情け容赦なく、拷問のような激痛を伴って。
右腕と右足の骨折や内臓の損傷が癒え、コロナスパルトイの能力により破壊されていた装甲が再生すると、太悟は立ち上がった。
痛みの余韻は各所にあるが、戦えないほどではない。リップマンを鞘に納め、カトリーナを両手で構える。
接近してきていた魔物達。最初に仕掛けてきたのは、遠距離攻撃を持つサンド―デーモンだった。
相も変わらず不気味な哄笑を上げ、砂嵐の体から砂の刃を発射してくる。
生半可な鎧なら、容易くスライスしてしまうその攻撃に対し、太悟は回避行動を取らなかった。
「嵐を纏うのは、お前だけの特権じゃないぞ」
そう言って、カトリーナを風車のように旋回させる。すぐさま激しい風が巻き起こり、太悟を包み込んだ。
荒れ狂う風の遮幕。サンドデーモンの放った、鋭いが軽い砂の刃が、ぶち当たっては散ってゆく。
先程は咄嗟のことで発動できなかったし、砂岩兵の怪力の前では紙の盾にしかならない技だが、飛び道具に対してはなかなか効果的だ。
警戒すべき砂岩兵は、砂地に大きな足跡をつけながら走ってくる。石の剣を有効に使える距離になるまで、まだ猶予があった。
仲間をサポートするためだろうか。
太悟の周囲を、新たに生えてきたカクタスハンド達が取り囲む。
前から横から後ろから掴みかかってくる手をかわしながら、太悟は精神を集中した。
旋斧カトリーナの硬い柄。回転する刃。
その奥に秘められた魔法に触れ、解放する。
「――――殺戮暴風圏!!」
太悟を取り巻くように出現する、無数の円刃。カトリーナに取り付けられたそれの、複製だ。
まず、すぐ近くにいたカクタスハンド達が餌食となった。
サボテンの魔物達は、風を巻き、唸りを上げる刃に触れた瞬間に粉々だ。
その程度の生贄では物足りないと見えて、円刃の群れがサンドデーモンに襲い掛かる。
サンドデーモンは砂の刃を飛ばして応戦したが、それで撃ち落とせるものではない。
砂嵐の奥にあるらしい本体をずたずたに切り裂かれ、魔物は悲鳴を上げながら瘴気に戻っていった。。
それでもなお円刃は止まらず、緩慢な動きで距離を詰めてきていた砂岩兵に食い込んで、ようやく消滅する。
「ちょ……っと仕留めきれなかった、か」
魔法を発動したことで心身に疲労を感じつつ、太悟は呟いた。
殺戮暴風圏は一度に広範囲の敵を攻撃できる魔法だが、硬い相手には効果が薄い時がある。
全身に切り傷を刻みながらも、砂岩兵は平気で動いていた。とはいえ、一体なら脅威ではない。
砂を蹴り、近付き、攻撃をかわし、斬る。太悟は何時も通りそれをやった。
真っ二つに割れた砂岩兵が消滅する。
周りには、もう魔物はいない。
それらを確認してから、太悟はその場で座り込んだ。
どっと汗が滲んできて、鎧の内側を濡らす。太陽に炙られないようにと日陰を探しても、そんなものはどこにもない。
太悟は疲れていた。慣れない戦場で死なないよう立ち回るのは、体も心も疲弊する。
砂を尻に敷いて、しばしぼんやりとする。
少しの間だけだ。五分も同じ場所にいたら、新しい魔物が出現し始めるだろう。
(………日向なら、こんな時は勇士達に励ましてもらえたのかな)
日向光一。太悟は顔と名前しか知らない同郷の人間で、神殿の勇士達に慕われる勇者。
本来の勇者の仕事を、太悟は知らない。
食料や嗜好品の発注などは、担当していた勇士から押し付けられる形で覚えたが、あとは手探りだ。
「光一だったら」と失敗を詰られ、殴られた回数は両手両足の指では数え切れない。
もちろん、光一に何も苦労がなかったなどとは思わない。
どんな立場の人間であっても、それぞれ辛いことはあるはずだ。
(でも、僕にはそれを分かち合う相手がいない)
太悟は孤独だった。
共に戦う者も、労わってくれる者もいない。
挫けてしまいそうな時、与えられるのは励ましではなく嘲弄だ。
お前など勇者ではないと。
必要だから呼んで、必要だから神殿にいるのに、誰もが太悟を傷つけようとする。
最低限生きて意識さえあればよくて、どんな怪我を負おうと、どんな魔物を倒そうと誰も興味がない。
「なあ……何をしたら、僕もあんたみたいに、皆から認められるようになるんだ……」
そんな風に呟いたところで、答えが返ってくるわけでもない。
見渡す限りの砂漠に人の姿はなく、蜃気楼すら見えない。
どこまでも無意味な独り言に過ぎなかった。
太悟はおもむろに立ち上がり、鎧に付着した砂を払った。休憩は終わりだ。
そろそろ、肉食のバルチャーどもが上空を旋回し始める頃だろう。
必要な資金を稼ぐには、そいつらをやっつけて、それからもう一回戦闘をこなす必要がある。
太悟が旋斧カトリーナを肩に担いだ、その時。
目測で……比較するものがないからわかりにくいが、太悟がいる場所から一キロ近く離れた遠方。
どおん、と大きな音とともに、巨大な砂柱が立った。
それはあたかも、天上の神に突き立てられようとしている、乾いた大地の牙であるかのようだった。
怪しいメールに返信したらろくなことにならないという教訓。