草原での一幕 1
一陣の風が、さわやかな草木の香りを引き連れ吹き抜けてゆく。
疎らに生え伸びた木々がざわざわと騒ぎ、青々とした草原が海のように波立った。
青空の下、燦々とした陽光を受けるその戦場の名は―――ファーストプレイン。
ゼリーボールを初めとして、低級の魔物ばかりが現れる、新米勇士の練兵場。どの神殿の勇士も、一番最初に足を踏み入れるであろう戦場である。
「ぷくー」
そこで、ファルケ・オクルスは頬を膨らませていた。
「口でぷくーとか言うなよ……」
受けて、狩谷大悟は苦笑した。
ファルケの気持ちはわからなくもない。コーラルコーストでの激戦を生き抜いた後で、ファーストプレインでは落差が激しすぎる。
大学生に「幼稚園からやりなおせ」と言うようなものだ。
「だって、大悟くんの勇士になって、新しい弓までもらって、さあがんばるぞーってカンジだったのにー」
「新武器使うんなら、まずはテストしないと危ないでしょ。どんな癖があるかわからないんだから。僕だって、こいつを手に入れた後はファーストプレインに通ったんだぞ」
そう言って、大悟は旋斧カトリーナを掲げた。とある任務で今まで使っていたイツトリとパズトリを失い、新たに入手したカトリーナの扱いに慣れるまでは、大悟もそれなりに苦労したのだ。
ファルケの場合、物が弓である以上は誤って自分を傷つけるようなことはないだろうが、それでも試し撃ちもさせずに危険な戦場に連れていくのは、勇者としてあまりにも無責任である。
「そ、そこまで考えてくれてたなんて……あたしが間違ってた! ごめん太悟くん!!」
感極まったらしく、ファルケが目を潤ませて抱きついてくる。
何処に出しても恥ずかしくない美少女な顔と、花のようにふわりとした香りが急接近してきて、ピュアな少年の心臓が爆発四散しそうになった。
ファルケは何かと距離が近い上に、今朝の井戸でのやりとりからわかるように異性に対し無防備なところがある。もしも自分の魅力を理解しての行動ならば、相当な悪女である。
魔物を前にすれば地獄の使者と化す太悟だが、女性の相手はどうにも苦手だ。
もはや何十年の昔にも思える学生時代では、クラスの女子間において、そもそも需要と供給にまったく関与しない路傍の石のような存在だった。マリカたちは性別以前に魔物でないというだけの敵であるため、基本的にそのように対処している。
もちろん、太悟に好意的な女性が今までいなかったわけではない。友人である《渡り鳥》プリスタを筆頭に、戦いを通じて仲良くなった者も数多い。
といって毎日顔を合わせるということはないので、耐性はさほど育ってはいなかった。
そこへ、ファルケという無自覚爆弾が放り込まれたのだ。
去勢されていない健全なる青少年としては、心臓が星の数だけあっても足りそうにない。
わくわくドキドキのボーイミーツガールめいたやりとりをしたい気持ちを押さえて、太悟はファルケを引き剥がした。
ファーストプレインは戦場だ。弱い魔物ばかりが出現するが、それしかいないというわけではない。
呑気にいちゃついているのは危険だ。最近は、特に。
「と、とにかく、今日はそのフォルフェクスに慣れるのが目的で出て来たんだ。大御所を倒して資金には余裕があるから、しばらくは君のレベルアップに専念したい」
もちろん、この世界においてもゲームのような経験値やレベルが実際にあるわけではない。
しかし戦場に通い、戦いを重ねることで得られるものは確実に存在する。魔物から得られる武具もそこに含まれるだろう。
コーラルコーストへの出撃に連れて行ったのは、あくまで試し。信用できない者を振り落とすための篩。
ファルケの言葉と覚悟を信じ、仲間として傍に置くことに決めた今、可能な限り丁寧に彼女を育てるつもりだった。
「あのカピターンの武器だって思うとちょっと怖いけど……うん、がんばるよ!」
白い歯を見せて、にっこり笑うファルケ。
「マジ美少女」だなどと見惚れていた少年の耳に届く、異音。
太悟の意識から一切の甘さが失せ、戦士のそれに切り替わった。ファルケも即座に姿勢低く弓を構える。
びちゃ。びちゃ。びちゃ。
水を詰めた袋を地面に投げたら、こんな音がするだろうか。
その音が少しずつ、少しずつ、近付いてくる。
と、どことなくホラーめいているが、大悟もファルケも、その正体を概ね察していた。
やがて草むらを割って、「それ」が姿を現した。
目は無く鼻は無く口は無く。手も足も頭も無い。
薄い緑色をした、バレーボール大の水滴。
跳ねて近付いてくるので無ければ、知性どころか命さえ疑わしいその魔物こそ、ゼリーボールであった。
《常闇の魔王》オスクロルドが生み出した魔物の中で最も弱い魔物と目され、実際体当たりしか攻撃の手段はない。
だが、その体当たりは鎧を着た人間をよろけさせるし、防具無しなら大の男でも悶絶するくらいの威力がある。
大悟の戦いは、ゼリーボールに完封負けするところから始まったのだ。
どう聞こうが汚らしさしか感じない水音に、太悟は毅然とした足取りで接近した。
目や耳など無い癖に、何をどう察知したのか。太悟が射程距離に入った瞬間、ゼリーボールはより強く勢いをつけて跳躍―――つまり体当たりを仕掛けてきた。
太悟は、今でも簡単に思い出せる。
この水風船の化け物から受けた一撃は、平凡な男子高校生の心を折るために十分な威力があった。
「よっと」
そして《孤独の勇者》にとっては、ゼリーボールなどは拳で打っただけで弾け飛ぶ雑魚でしかない。
丈夫な革のグローブに包まれた槌により、ぱぁんと風船が割れるような音とともに魔物は四散。
破片は地面に落ちる前に瘴気と化して消えた。
徒手格闘は専門ではないが、今の太悟の拳は人を殺せる。
うっかり友達の背中などふざけて叩こうものなら十メートルはすっ飛んで、その日の内に絶交を宣告されるに違いない。相手が生きていればの話だが。
「……さすがにゼリーボールじゃ、試すにしても弱すぎるか。もっと別の奴を探しに行こう」
「はーい」
ちょうどいい魔物を求めて草原を歩き出そうとして、太悟はあっと声を上げた。
今のうちに、ファルケに伝えておかねばならないことがある。彼女も昔はファーストプレインで経験を積んだだろうが、当時と今では違うことがある。
「ファルケ。僕も気を付けておくけど……もし、馬の蹄の音が聞こえたら、すぐに教えてくれ」




