新しい朝が来た 4
「………話とは、なんだ」
正しく断腸の思いで、マリカはその言葉を吐き出した。
上には上がいる。修業時代の始まりから終わりまで、師からはそう教えられていた。
故に、精進を忘れてはならぬと。
それを久しぶりに思い出したのは、マリカの中で剣が二の次三の次になっていたからだ。
世界一の剣士になると夢を見て故郷を旅立ったが、勇士として選ばれてからは光一に尽くすことが人生の目的となった。
それからの時間は、剣に対して真摯であったとは言い難い。光一が病に倒れ、戦場を離れてからはなおさらだ。
腕が鈍り、技が腐り始めている自覚はあった。
だがそれすらも、光一への捧げ物と思えば苦ではなかった。
上には上がいる。鼓膜に刻み込まれた言葉。
だが、それを今日この時、狩谷太悟を相手にして思い知るなど、マリカは考えてもみなかった。
呼気を薄く吐きながら、太悟の目を見る。
先と変わらず落ち着いていた。喉元に突き付けられた切っ先はぴたりと停止していて、揺れがない。
暴力に慣れた人間の態度だ。彼がその気になれば、マリカは今すぐにでも首から血を噴いて崩れ落ちるだろう。
そうならないためには、ひとまず嫌悪感を殺して、話とやらを聞いてやるしかない。
三人の顔を見渡しながら、太悟が口を開いた。
「ファルケ……ファルケ・オクルスが僕と一緒に出撃したことは、たぶんもう知ってると思う。それで、これからも一緒に戦ってくれるらしいんだ」
明け方の一幕を思い出して、マリカの眉間に皺が寄る。
光一への忠誠心のない勇士は、魔物や太悟と同じくマリカの敵だ。
今回は仕方なく見逃したが、次からはそうはいかない。その弓を改めて光一に捧げさせてやる。
そう奥歯を噛み締めていたマリカだったが、
「彼女に、あんたたちが僕にしてきたような真似をするな。もし、今後僕に協力しようって勇士がいたら、その人にもだ」
太悟のその言葉に、思わず目を剥いた。
「裏切り者を許せと言うのか?」
「何をどう裏切ってるんだ? 僕らが戦ってるのは、この神殿を維持するためでもある。そういう意味で言えば、あんたたちの方がよっぽど裏切り者じゃないか」
「なんだと!?」
激昂したその勢いは、すぐ目の前にある死という現実に抑え込まれる。
気を緩める様子を見せぬまま、太悟が大仰に溜息をついた。
「なあ……実際、僕の何がそんなに不満なんだよ。そりゃ、最初ここに来た時はどうしようもない間抜けだったさ。認めるよ」
あんたの泣き落としに負けた時はな、と太悟がマリカを睨む。
必死だったのだ。
光一や、仲間たちと離れたくない一心で、まだ神殿の決まっていない勇者に縋りついた。
それがたまたま太悟だったというだけであって、誰でも良かったのだ。
その浅慮がこの状況を招いたと思うと、マリカはやり直したかった。太悟よりももっと、弱々しくて情けない人物を選ぶべきであったと。
「だけど、今はもう違う。あんたたちの代わりに出撃してるし、魔物もたくさん倒したよ」
「それは貴様が勝手にやっていることで……」
「戦果を挙げない神殿を、教会が存続させとくと思う? 上からどれだけせっつかれてるのか、あんたたちにも教えたじゃないか」
そう。その度に、マリカたちは「うまく言いくるめろ」とだけ返していたのだ。
慌てふためき、やがて肩を落として消沈する太悟はおもしろかった。
「あんたたちはよく『光一の神殿』って言うけどさ、神殿は教会の物だろ。魔物と戦うための基地で、間違ってもあんたたちの愛の巣じゃない。そこに戦いもしない連中がたむろしてたら、それは不当な占拠って言うんだよ。追い出されて当たり前。僕が戦わなかったら、今頃みーんなさよならバイバイだ」
太悟の声が、少しずつ、少しずつ、強さを増してゆく。
マリカは我知らず冷や汗を流していた。舌に滲む苦みは、どうやら胃液が込み上げてきたものらしい。
見下していた相手に説教されるのは、こんなにも辛いことだったのか。
「僕はこの神殿を守ってほしいと頼まれて、自分の意思で引き受けた。だから、精一杯やってきたつもりだよ。あんたたちが飲み食いしてる物に使うお金だって、僕が稼いで来てる。言っとくけど、僕が来る前にあった資金はとっくに底突いてるぞ。遊興費と食費に溶かされてね」
なっ、とマリカは言葉を失った。
元より金勘定に疎い彼女は、神殿の資金がどれだけあるのかを知らないし、知ろうともしなかった。
それを担当している勇士はいたが、最近はその者が仕事をしている姿を見たことがない。
怠惰に過ごすためには金がいる。
そんな当たり前のことを、マリカは考えもしなかったのだ。
「……あんた一人で、どう稼いでるっていうのよ」
と、結局何もできず杖を弄っていたフレアが、ふてくされたように口を挟んでくる。
太悟は目も向けずに答えた。
「最近だと、タワーオブグリードに各国が懸けてた賞金が五〇〇万ソルで、教会からの特別手当が四〇〇万ソル。昨日倒した《魔海将軍》カピターンが、賞金額二〇〇〇万ソルだったかな。いやまあ、いつもこんなに稼いでるわけじゃないけど」
三人ともに、愕然とした。
それは、彼女達が一月の出撃で得られていた報酬とは、比べものにならない額に驚いたからではない。狩谷太悟が打ち滅ぼしたと、そう言って並べた魔物があまりにも高名だったからだ。
砂漠に潜む悪夢。
《深淵公》アビシアスの右腕。
マリカたちは、その姿を見るどころか噂にしか知らない。
何時か倒してみせるとは、酒の席の冗談にしかならない。
そんな、霞がかった伝説のような存在である。
「嘘だ」
と、マリカが乾いた舌を動かせば、太悟は呆れたように目を細めた。
「タブレットで討伐履歴を調べれば、すぐにわかることだ。そっちがサボってる間に、僕もいろいろやってたんだよ」
そこで太悟は、一度言葉を切った。黒い瞳が、改めて三人を見渡す。
「もう一度聞く。僕の何が不満だ? これ以上どう尽くせば、あんたたちは僕を認めてくれる?」
「………」
「だんまりかい。まあいいや、生理的に受け付けない相手っているしな。別に好きになってくれなくったっていいよ。それはもう諦めた」
「………」
「だけど、僕らがやってんのは子供のごっこ遊びじゃない。戦争してるんだよ。好き嫌いは置いといて、協力はしてくべきじゃないのか? 僕は今まで戦ってきた。今度はそっちの番だ」
「………」
「さっきも言ったけど、僕の協力者に手を出すなってだけだ。簡単だろ? それさえ嫌だってんなら、いい加減僕にも考えがあるぞ」
「………」
「この神殿を出て、二度と戻らない」
「それは………!」
流石に、マリカも押し黙ってはいられなかった。
どれだけ虐げていても、太悟の存在が神殿を維持していることは重々承知している。
であるからこそ、マリカは教会と太悟に必死で泣きついたのだ。
そして、つい忘れがちではあるが、そう簡単に代わりは補充されない。
「元々、ここに僕がいること自体が特例なんだ。それが逃げ出すような神殿に、教会がはいそうですかと新しい勇者をよこすかな? 次も女神が神託をくれるといいな」
マリカは歯噛みした。人の弱みに付け込む、卑劣な男め。
怒りと悔しさが混ぜこぜになって、腹の中でぐるぐると回る。
太悟の言葉は真実である。彼を失えば次はないと、マリカは司祭から警告されていた。
それを、教会の不干渉と太悟の辛抱強さに胡坐を掻き、虐待を重ねていたのだ。
太悟が十分な力を手に入れ、自らの価値を武器にすることを決心した今、その歪な関係は維持できない。
「じゃあ、答えを聞こうか。言っとくけど、NOを選ぶつもりなら覚悟しろよ」
それが神殿を飛び出すのか、あるいは喉を切り裂くつもりなのか、マリカにはわからなかった。だが、今の大悟にはどちらも可能だ。
「………わかった」
それでも、その僅かな言葉を吐き出すために、マリカは無数の感情を押さえ込まなければならなかった。
大悟は鮮やかな手付きで刀を鞘に納め、にこりともせずに言った。
「ありがとう、話は終わりだ。邪魔者はさっさと消えるよ」
くるりと背中を向け、立ち去るその後ろ姿にさえ、欠片も隙がない。今襲いかかったとして、返り討ちは目に見えている。
扉が開閉し、大悟がいなくなっても、三人は口を開けなかった。何を言えというのだ。
凍えるような沈黙の中、マリカの足元にぽたりと赤い雫が落ちて、赤い絨毯に染みた。
血だ。
強く、強く握り締めたマリカの拳から、血がしたたり落ちていた。




