神殿今昔
一年前。魔物蔓延る深い森・グリーンメイズにて。
「フレア、ベアトリクス! 来るぞ!」
「は、焼き尽くしてやるわよ」
「神に背く闇の住人に、聖なる鉄槌を下しましょう……」
《流れの女剣士》マリカの号令に応じて、《紅炎の魔法使い》フレアは魔法の書を、《慈雨の呼び手》ベアトリクスは杖を構えた。
背の高い樹木と、複雑に絡み合った枝と枝の天蓋が織り成す薄闇から、魔物達が姿を現す。
四本の前肢にそれぞれ刃を備えた巨大蟷螂、エクスキューショナー。
常に瞼を閉じ、毒々しい紫の羽に覆われた魔眼梟。
枯れ木の細い体で、大きな蜂の巣の頭を支えるビーハイヴ。
勇者光一率いる勇士団は、魔王軍の幹部の一人・《豪熊公》ガラシが支配する森の攻略に挑んでいた。
近隣にある他の戦場と比べても敵は強力で、そのために古参で熟練した三人の勇士が派遣されることになったのだ。
マリカは腰から光鷹剣ラーを抜き放ち、刀身を正眼の位置に置いた。
太陽の力を持つ宝剣は、翼を広げた鷹の形をした鍔と金に輝く刀身を持つ。それは薄闇の中でも眩ゆく光り、魔物たちの注目を集めた。
最初に動いたのはエクスキューショナーだ。
細身の体を踊らせて飛翔。一対の鎌がマリカを狙う。
「止まって見えるぞ」
四筋の死の風を、輝く刃がいなし、反らす。
マリカの言葉は虚勢ではなく、鎌を防ぎつつも刺突を繰り出すほどの余裕があった。
エクスキューショナーの緑色をした体に穴が穿たれ、黒いどろりとした体液が流れ出した。
「その命、置いていけ!」
動きが鈍った魔物にとどめを刺すべく、マリカはラーを大上段に振り上げた。
が、その姿勢のまま、マリカの動きが止まる。全身の筋肉が石に置き換わったかのような感覚に、声を上げことさえできない。
彼女の傍に生えた木の枝に留まっている魔眼梟が、何時の間にか両目を見開いていた。
瞳の無い、黄色い目が見つめるのは、敵であるマリカだ。
ステイシス・ゲイズ。視線を向けた相手を硬直させる、魔眼梟の能力だ。
エクスキューショナーは傷ついてはいるが、身動きの取れないマリカをばらばらにするのは簡単だろう。
鎌を生やした四本の腕が、花弁のように広げられる。
「――――こちらをお忘れになられているのですか? 愚かですわね」
セイクリッドウォール。
闇を照らす白光の壁がマリカの前に展開され、僅かに遅れたエクスキューショナーの鎌は、ことごとくそれに阻まれた。
女神に仕える僧侶が使う、聖なる奇跡。
ベアトリクスは、優雅に眼鏡のブリッジを指で押し上げると、杖の先端を魔眼梟に向けた。
「女神の名において、その邪悪な目は塞いでしまいましょう……カースドシール」
途端に、黄色い両目から白煙が上がり、魔眼梟がけたたましく悲鳴を上げる。
その瞬間に、マリカは自由の身となった。
当初の予定だった大上段からの振り下ろしは、既に勢いを殺されていたため中止。
代わりに前蹴りを放ってエクスキューショナーを後退させた。
さらに、腰に差していた短剣を抜き、投擲。
最大の武器を封じられて混乱する魔眼梟は、何が起きたかもわからないまま貫かれ、地面に落ちた。
「すまん、助かった」
「お気になさらず」
言葉を交わすマリカとベアトリクス。と、突如として湧く、無数の虫の羽音。
ビーハイヴの頭上に、黒い雲のようなものが浮かんでいた。猛毒の針を尻に持つ、蜂の群れだ。
一度刺されれば激痛。二度刺されれば膝が折れ、三度目には息もできない。
そんな無数の死神が、勇士たちに向けて解き放たれた。
剣ですべてを切り払うのは難しく、聖なる奇跡も間に合わない。
「ほら、どいたどいた! あたしがド派手にブチかますんだから!」
その声を聞いて、マリカとベアトリクスは左右に飛び退いた。
声の主は、自信に満ちた微笑を浮かべるフレア・クリムゾン。左手は本を持ち、右手は前方に差し伸べられている。
《紅炎の魔法使い》の称号に違わず、彼女が精霊界から喚起したのは、赤く燃える炎。
それが恐ろしい大蛇となって、フレアを守るように蜷局を巻いてる。
「行きなさい、紅の蛇。餌の時間よ!」
召喚者の意思に従い、炎の精霊がくわ、と顎を開く。
最初にその餌食となったのは蜂の群れだ。矢のように飛んだ紅の蛇に一度で飲み込まれ、瞬時に灰と化した。
通常の火炎とは違い、目標以外に火が燃え移ることはない。
真紅の体をうねらせ、暗緑色の下草の上を這う紅の蛇は、今度はビーハイヴに襲いかかった。
枯れ木と蜂の巣で構成された魔物である。魔王の術により普通の人間には傷つけられないが、勇士が放つ炎の魔法には抵抗する術もない。
紅の蛇の腹の中で燃え尽きてゆくビーハイヴを眺めながら、フレアは満足そうに薄い胸を張った。
「んー……絶景ってヤツね。光一が言ってたカメラがあったら写真撮りたかったわ」
そして、マリカの剣が一閃。立ち上がりかけていたエクスキューショナーの首を断つ。
逆三角形をした蟷螂の頭が宙を舞い、草叢の中に沈んだ。
死んだ魔物達は血を流さず、やがて黒い魔力の煙となって消滅した。
「ここまで来ると、魔物の方たちも少しはやるようになってきますわね」
ふうと溜息をつくベアトリスは、端正な顔に、少なくない疲労がにじみ出ていた。
視界が悪く、常に敵に囲まれているようなこの森の中は、身体的にも精神的にも消耗させられる。
フレアが魔力回復のポーションを一息で飲み干して、顎を伝う滴を手の甲で拭う。
「ホント、燃やしがいがあってサイコーね!」
「そういう意味ではないのですけれど……耳に灰でも詰まってらっしゃる?」
「馬鹿、まだ気を抜くんじゃない」
「そうですわよフレアさん。油断してはいけませんわ」
「そうよマリカ。気を付けなさいよ」
「ぶっとばすぞお前ら」
気心が知れた仲の、軽口の応酬。敵地に居ながら、弛緩した空気が流れる。
だが、長くは続かなかった。
旅人の直感―――マリカが旅の中で培ってきた危機を感じ取る本能が、突如として警鐘を鳴らす。
仲間に警告する時間はない。そう判断すると同時にマリカは前に飛び出し、虚空に向けて斬撃を放った。
そして、そうしなければ誰がどうなっていたか。
樹間の影から砲弾のように射出された黒い塊は、光鷹剣ラーの刀身にぶつかり軌道を変えた。
「ぐっ!?」
構えが十分でなかったマリカも、その衝撃で背中から倒れ込んだが、大きな被害は受けていない。
黒い塊は何度か地面や樹の幹を蹴ってから着地し、その姿を勇士たちに晒した。
外見は、馬に似ていた。漆黒の体毛、大地を踏み締める蹄。灰色の鬣と、同じ色をした濁った瞳。
ただし、頭には鋭い二本の角があった。
バイコーン。
《豪熊公》ガラシの配下の中でも、一際強力とされている魔物だ。
マリカはすぐに立ち上がり、再度剣を構えた。
奇襲に反応しきれなかったフレアとベアトリクスも戦闘態勢に入る。
「祝福の風!」
最初にベアトリクスの奇跡。鬱蒼とした森の中を、爽やかな風が駆け抜けてゆく。
風が過ぎ去った後、三人の勇士たちを儚くも神々しい燐光が包み込んでいた。
この高位の奇跡がもたらすのは、物理・魔法の攻撃に対する耐性、身体能力の強化。
「出番よ朱蛍! 焼き尽くしなさい!」
フレアの周囲に、無数の小さな火球が出現。バイコーンに向かって殺到する。
だが、漆黒の魔獣は巨体に見合わぬ身軽さで跳び回り、容易く火の精霊をかわした。
小さな爆発とともに火球が消える。するとバイコーンは、フレアに向かって猛然と突撃した。
後衛の魔法使いが、対応できる速度ではない。
「フレアっ!」
そこへ割り込んだのはマリカだ。
攻めて敵の手を封じるタイプの前衛である彼女は、元々防御は得意ではない。
奇跡によるステータス上昇により、バイコーンの角を剣で無理やり受け止める。
マリカは腕が粉砕されそうな衝撃とともにふっ飛ばされ、その背後にいたフレアが巻き添えとなった。
「かはっ……くそ、馬鹿力め……!」
「ちょ、マリカはやくどいてよ! 重いんだっての! あと、助けてくれてありがとう!」
バイコーンは、倒れたマリカとその下敷きになったフレアに、再度角を向ける。
が、魔獣の双角は光の尾を引いて飛来した十字の刃を打ち落とすために使われた。
ベアトリクスが放った奇跡、ジャッジメントクロスだ。
「お二人とも、遊んでる内に死んでしまわれては、女神様に呆れられますわよ」
言葉ほどに声に嘲りはなく、ベアトリクスはバイコーンに視線を固定している。
マリカとフレアは立ち上がり、鼻息も荒く蹄で地面を掻く魔獣を見つめた。
「ベアトリクスの言う通りだ。遊びは終わりにしよう。フレア、でかいのを頼む」
「了解。……あーあ、まだ幹部クラスには届かないかあ。マリカ、三十秒稼いで」
フレアが両腕を翼のように広げる。
薄い胸の前に本が浮かび、開かれ、輝く魔法文字が帯となって魔法使いを取り巻いた。
上位の魔法を発動するには時間がかかり、途中でほんの僅かでも精神集中を乱せば、初めからやり直しだ。
戦闘中に使うためには誰かが守る必要があり、つまり前衛であるマリカが力を発揮しなければならない場面だった。
光鷹剣ラーを八双に構え、《流れの女剣士》が不敵に笑う。
「流れに流れて磨いた剣技。貴様に見切れるか?」
躍りかかってきたマリカを、バイコーンが自慢の角で迎え撃つ。
しかし角は剣にも肉にも当たらず、虚空を貫いた。同時に、魔物の右肩が浅く斬り裂かれる
すわ右かと首を振り向ければ、そこに敵はおらず、胸に刻まれる横一文字。
深い傷ではないが、一方的に斬られて困惑するバイコーンの正面に、再びマリカが立つ。
故郷の村で鍛えた技を下地に、各地を渡り歩いて拾い集めた技を混ぜ合わせ、型に嵌らぬ変幻自在。
加えて光鷹剣ラーの、使い手の動きを速くする効果。
それらが複合して、人であろうと獣であろうと魔物であろうと、マリカの剣舞を捉えることはできない。
こいつは、今まで串刺しにしてきた剣士とは違うようだ。
バイコーンはそう気を引き締めた。だが、マリカだけに気を取られている場合ではなかった。
「――――来たれ、灼熱の牙。猛く吠えよ……紅緋獅子王!!」
精霊界との交信を終えて、フレアの頭上には巨大な炎の塊が浮かんでいた。
それには爪があり牙があり、燃え盛る鬣があった。
それは、獅子の形をした炎だった。
炎の上位精霊である紅緋獅子王は、熱気を伴う咆哮を放つやいなや、契約に従いバイコーンに飛びかかった。
当然、魔物は避ける――――避けようとした。だが、朱蛍とは速度が違う。
炎の上位精霊は跳ねるバイコーンに爪をかけ、その喉に牙を突き立てた。
黒いバイコーンの体が紅い炎に包まれてゆく。耳を劈く絶叫が上がり、蹄が激しく足下の土を蹴る。
炎の精霊の呼び手、フレアの表情は険しかった。
紅緋獅子王は彼女の切り札だ。並大抵の魔物なら、瞬時に炭の塊と化す。
それが、バイコーンはダメージを受けながらも動き回っている。
火力が足りない。倒しきれない。
フレアが焦燥に歯噛みした、その時。マリカが颶風を纏って駆け出した。
剣を持つ右腕を大きく引いて、あからさまな刺突の構え。実際、これからマリカは突きを繰り出そうとしていた。
一見、真正面からでは当てる気があるのかさえ疑わしいその技は、しかし誰にも避けられたことはない。
「光一。私に力を……!」
クロスハート・ストライク。
勇者と深い絆で結ばれた勇士にのみ許される、奇跡の一撃のことをそう呼ぶ。
二人の肉体がどれだけ離れていようとも、心は常に繋がっていると。
そう信じるマリカの総身に、限界を超えた力が宿る。
紅緋獅子王が精霊界に帰還。喰らいついていた炎が消え、バイコーンは大きな火傷を負っていたが、まだ生きていた。
焼け焦げた皮膚、全身から煙を吹きながらも闘争心は衰えず、突進の構えを取っている。
だが、双角の魔物に、チャンスはもう残されてはいなかった。
「――――ワイルドゲイル!!」
マリカの足が地面を蹴った。
一陣の風が吹き抜け………次の瞬間、バイコーンの首が宙を舞う。
何が起こったのか、認識は出来なかっただろう。魔物の目は、戦意に溢れたまま凍り付いていた。
半ばから断たれた首は、どさりと音を立てて地面に転がった。首を失った胴体の後方で、剣を鞘に納めるマリカの足元に。
間もなく、双角の魔獣の痕跡は黒い霧となって消えた。
「帰還するぞ」
呟くように発せられたマリカの声は重い。
格上の相手をも喰らうクロスハート・ストライク。自分の限界以上の力を引き出す以上、代償は大きい。
マリカの総身に圧し掛かる疲労感と、節々を襲う痛み。
剣すら握れないというほどではないにしろ、森の奥に進むにつれてさらに強くなる魔物と戦うには危険が大き過ぎる。
「幹部どころか、ザコに大魔法使わされちゃあね……」
フレアが自嘲気味に溜息をつく。
彼女たちの目標は、豪熊公の討伐だ。その部下にすら苦戦を強いられているのであれば、無理をしたところで本懐は遂げられない。
退くことは未来を守ることで、決して敗北ではないことを、フレアは戦いを通じて学んでいた。魔法学院では教えてもらえなかったことだ。
「そうですわ。光一さんも、我々が無事に帰ることを一番に願っているはずですもの」
奇跡で仲間の傷を癒しつつ、ベアトリクスが微笑む。
ひと昔前の彼女ならば、多少の被害を許容し、少しでも森の奥へと進もうとしていただろう。女神に与えられた正義を貫くために。
しかしそれだけではいけないことを、今のベアトリクスは知っている。
「それに……私という抱き枕がいなくなったら、光一さんは毎晩寒くて寂しい思いをしてしまいますわ。たとえ女神に逆らおうと、それだけは防がなくては」
フレアの目が見開かれる。
「は? 何フカシこいてんの? 光一のイチバンはあたしなんだけど?」
「妄想癖は治す奇跡も薬もないから大変でしょうね~。お気の毒様ですわ~」
額をぶつけ合う二人を尻目に、マリカは懐から小さな石板を取り出した。
黒曜石から削り出したかのような、漆黒の長方形の表面に魔法陣が刻まれている。
マジックタブレットと呼ばれるこのアイテムには、様々な機能があった。
「おい、聞こえるか? 神殿に転送してくれ」
石板に声をかけるマリカ。通話先は、転送部屋にある天使像だ。
女神の力により、天使象はマジックタブレットを持っている勇士の居場所を感知し、必要があれば神殿に帰還させることができる。
本格的に喧嘩を始めた魔法使いと僧侶、そして女剣士を神々しい光が包み込んでゆく。
薄暗い森に闇が戻った時、三人の勇士の姿は、影も形もなく消え去っていた。
世界各地に点在する、女神サンルーチェの神殿。
その第十三支部の廊下を、ベアトリクスとフレアは肩をぶつけ合いながら早歩きしていた。
廊下はよく掃除されていて、清潔で埃一つない。
「ちょっと歩きづらいからやめてよ。あたしの後ろ歩いて後ろ」
「女神が私にお告げをくださいました。『汝、いちばん最初に勇者にただいまを言うべし』と」
マリカは二人の後ろを、普段通りの歩調で歩いている。
「バイラン、倉庫の整理は済んだだろうな? ジュウベエ、あとで新人どもの訓練について話がある。タラリア……次またつまみ食いしたら尻を叩くからな」
他の勇士たちに仕事の指示を出すのは、別段そうと決まっているわけではないが、何時の間にかマリカの役目になっていた。
彼女が神殿の最古参であることは、大きな理由になっているだろう。
当初、元々一匹狼のマリカにはあまり馴染みのない行動だったが、今では自覚できるほどに板についてきた。
女神に選ばれた仲間たちは、それぞれ仕事をしたり、訓練をしたり、遊んでいたりする。
窓から暖かな陽光が差す中で、神殿は健全に運営されていた。
建造物の、ちょうど真ん中のあたりに配置されている勇者の部屋。
敵襲があった時に逃げやすいように、転送部屋からも近くなっている。
その厚い扉がばあんと叩き開かれ、中にフレアとベアトリクスが飛び込む。
つい数秒前まで険しい顔で睨み合っていたのが一転、初心な男なら見惚れるような笑顔で輝いている。
「光一! ただい……」
「光一さん! 今帰っ……」
そして、その笑顔が凍り付いた。
豪華で清潔な室内。勇者のために用意された、革製の高級ソファ。
そこに座る勇者・日向光一………と、対面する形でその膝の上に跨る、《魅惑の踊り子》ミアン。
褐色の肌と金色の瞳、砂色の長い髪を持つ美女の耳は尖っていて、臀部からは毛に覆われた尾がするりと伸びている。
露出の多い踊り子の衣装は、凹凸のはっきりした豊かな肉体をほとんど隠さない。
「ちょ、ちょっとミアン。くすぐったいってば……」
「みゃあん。歌や踊りに限らず、勇者様の心身を癒して差し上げるのが、ミアンの役目なので」
光一の頬に、額に、口元に、ざらついた舌を這わせるミアン。
苦笑しつつも光一は、どうやら満更でもないらしく、ミアンを引き離そうとはしない。
勇者と猫人の踊り子の、愛情にあふれたスキンシップを、フレアとベアトリクスは名状しがたい顔で見つめている。
入口で固まっている二人の間を抜けて、部屋に入ったマリカは、こほんとわざとらしく咳払いした。
「お二人とも、お楽しみ中にすまないが」
「え……あっ!? マ、マリカ。フレア、ベアト……」
「みぃ。皆さん、帰還しておられましたか」
慌てふためく光一から、ミアンがゆったりとした動きで離れる。
ぺろりと舌を出し、艶やかな声で、
「では、勇者様。続きはまた今夜に……にゃ?」
フレアとベアトリクスが、怪鳥のような声を上げてミアンに飛びかかった。
きゃーきゃーにゃーにゃーと大騒ぎする三人。
それを困ったような顔で見守っている光一の肩を、そっと忍び寄っていたマリカがつっつく。
驚いて振り返った勇者を迎えたのは、彼だけが見ることができる笑顔。
「ただいま、光一」
――――これが、この神殿の日常だった。
勇者光一と、彼を慕う者たちが集う穢れなき聖域。
それがマリカにとっての神殿だ。それ以外は欲しくない。
たとえ、光一が病に倒れて勇者の力を使えないとしても。
新しい勇者なんて、いらない。代理なんて、必要じゃない。
第十三支部の勇士団を率いるのは、光一でなければならない。
たとえ、何を犠牲にしようとも。たとえ、どんな方法を使おうとも。
現在。
サンルーチェ神殿第十三支部は、くすんでいた。
活気がないというだけでなく、かつて勇士達が当番制で隅々まで掃除していたのが、目に見えて雑になっていた。
廊下には大小のゴミが転がり、窓ガラスは汚れて不透明だ。
光一が昏睡状態となり、勇者代理として太悟がやってきてから、この神殿の勇士団はストライキを敢行している。
それは戦場への出撃だけでなく、掃除などの日常業務にも及び、代わりに太悟が暇を見つけては箒などの掃除用具を抱えて走り回っていた。
他は精々、良識のある勇士が、個人のできる範囲で、といったところだろう。
一人で掃除するには神殿は広い。その上、出撃や他の重要な業務で時間を取られれば、完璧に綺麗にすることなどできるはずがない。
その一方で、何十人という勇士達が暮らしている以上、神殿は汚れるしゴミは出る。
太悟に遠慮してできるだけ控える……という心遣いをする者がほとんどいない以上、神殿はじわじわと汚れていく一方だ。
衛生面が健康に関わる食堂を除けば、神殿内で清潔を保っている場所は一つしかない。
光一が眠る、勇者の部屋だ。
最古参のマリカだけでなく、彼を慕う勇士達が毎日こまめに掃除していた。窓際の花瓶には、どこから持ってきたともしれない花まで活けられている。
毎日誰かしらがやってきては、光一の瞼が開くのを期待し、そして肩を落として出ていく、ある意味での日課だ。
ふかふかの高級なベッドで眠る少年は、彼がそうなってから一日も欠かされることなく清拭されているため、寝顔に汚れの一つもない。
静かな部屋に、栄養摂取のための点滴が落ちる音が降り積もってゆく。
「それで、進展は?」
窓から曇った空が見える昼下がり。
ベッドの傍の椅子に腰かけながら、マリカはおもむろに二人の仲間、ベアトリクスとフレアに声を投げた。
「勇士の権限ってことで魔法学院の迷宮書庫に潜ったけどね。わかったのは何千年も前に、ずーっと眠り続ける病気があったってことくらい。むかつくわ」
眉間に皺寄せ奥歯を噛み、フレアは言葉通りに苛立ちを隠さない。
「教会を回って高名な司教達を尋ねましたが、事態を解決できるような奇跡は得られず……最近は、お祈りをしても女神様が応えてくれませんわ。どうしてしまったのでしょう……」
ベアトリクスが豊満な胸の前で手を組み、不安を吐き出す。
仲間たちの報告を聞いて、マリカは失望そのままに溜息をついた。
この数日、二人には神殿を出て、光一の病を治す方法を探してもらっていた。
マリカ自身も、昔の仲間達や他の神殿の勇士に知恵を借りに行ったことがある。
そうして得られたのは、呪いや魔術の類ではないだろうという呪医の見立て。
それでは病気だろうと薬や治療法を探し、今に至るまで何も進んではいない。
マリカは憂鬱な面持ちで、以前よりも痩せた光一の頬を撫でた。
行為の後のスキンシップで同じことをして、「くすぐったいよ」と微笑んだ少年との暖かな思い出が、針となってマリカの胸を刺す。
あの最高の日々を取り戻すためなら何だってする。その想いは嘘ではないが、何をすればいいのか手がかりすら見つからないのがもどかしい。
「こっちは何かあった? アレはまだ生きてる?」
「生きてなければ困りますわ。腹立たしいですけど、アレがいるからうちの勇士団が解散しなくて済んでるんですもの」
今度はベアトリクスが溜息をつく。
マリカは顔を顰めた。二人が言う「アレ」のことを考えるだけで、何とも不愉快な気分になる。
勇者代理・狩谷太悟。
この神殿に送り付けられてきた異物。
今日からこいつに従えと、王国からの使者に言われた時は殺してやろうかと思った。
激情に任せて勇者代理の首を刎ねていたら、マリカの投獄は無論のこと、勇士団の解体は免れなかっただろう。
光一が目覚めるまではと、千歩譲って神殿に住まわせてやっている。
そのことに感謝して、物陰で苔のように静かにしていればいいものを、やたらと出しゃばってくることがマリカをさらに不快にさせていた。
一丁前の勇者面をして「出撃してほしい」と頼んできた時は、剣を抜かないよう我慢するのが大変だった。
冗談で自分で行けと言ったら本当に出撃し、これにはさすがのマリカも驚いた。
すぐに半べそになって帰ってきたが。あまりの情けなさに腹を抱えて笑ったものだ。
今でもどうにか装備を集め、単身戦場に出ているのを見かける。
どうせ未だに最低難度のファーストプレインでもほっつき歩いているに違いないが。
「ホンット……キモイのよね、あいつ。この間、夜中に中庭で剣振ってたけど。何? がんばってるねって褒めてほしいの? ないわ」
「まあまあ、そんなこと言っては可哀想ですわよ。一応、アレがはした金を稼いでいるおかげで、私たちは光一さんの治療法探しに専念できるのですから。ま、事が済んだらお払い箱ですけど」
くすくすくす。嘲笑う声が部屋に満ちる。
マリカも口端を歪めながら言葉を紡いだ。
「……新参の連中の中に、光一が目覚めるまではあいつに従うべきだという奴が出て来た。すぐに、裏切者がどんな目に合うか思い知らせてやったが」
生死を共する仲間をぶちのめすなど、とんでもないことだ。
だが、光一を裏切る者は仲間ではない。
この神殿に必要なのは、光一と、彼を慕う者だけだ。
そんな思考を、フレアもベアトリクスも否定しない。むしろ、当然の報いだという風に頷いていた。
今日もまた解決の糸口は掴めず、ただ現状維持で一日が終わりそうだ。
それでも古い仲間と話をして、いくらか気が晴れたマリカは、思いつきで神殿内の見回りをしていた。
神殿内は、雑然としていた。
酒を浴びる者、札遊びに興じる者、惰眠を貪る者……勇士たちは、思い思いに戦いの無い日々を消費している。新参の連中で、姿の見えない者もいくらかいたが、いちいち気にはしない。
だらしのないと、マリカも感じないわけではないが、これまで光一の下で懸命に働いていたのだ。少しくらい緩んでも許されるだろう。
どうせ怠惰のための費用は、「アレ」が勝手に稼いでいる。雀の涙程度にだが。
転送部屋の近くを通りかかったマリカは、近くの壁に大きなゴミのようなものがもたれかかっているのを見て、眉をひそめた。
刃の欠けた斧を抱えて寝息を立てる、狩谷太悟。
戦場から帰ってきたばかりのようで、傍に転がっている兜をはじめとした装備は、泥や土の汚れに塗れている。
マリカは、まるで床を這う害虫を目撃した気分になった。
仮にも、光一と同じく勇者の力を持ってこの世界にやってきた人間だというのに、何故こうも違うのだろう。
光一はこんな風に汚れたことはないし、疲れ果てて廊下で居眠りをしたこともない。
いつも清潔で綺麗にしていて、いつも元気に笑っていた。
お前が光一の代わりに病に懸かればよかったのに。
マリカは、腹の底から燃えるような苛立ちが這い上がってくるのを感じた。
それを一切噛み殺すことなく、マリカはつかつかと太悟に歩み寄ると、彼の顔面に蹴りを入れた。
「ぶぐっ」
叩き起こされ、鼻血を流して慌てふためく汚物。
マリカの気が少しだけ晴れた。
「こんなところでお昼寝とは、良いご身分だな?」
「……ああ、寝てたのか。ごめん」
狩谷太悟が鼻血を拭いながら立ち上がる。
重傷にはならない程度にとはいえ、それなりに強く蹴ったつもりだった。
にも関わらず……きっと痩せ我慢をしているだけだろうが……彼は大して痛がってはいないように見えた。
生意気な奴、とマリカは小さく吐き捨てた。もちろん本気で蹴って、それで死なれても困るのだが。
最低限生きていて、視界に入りさえしなければ用の無い相手だ。というか、基本的に近付きたくもないし、会話もしたくない。
くるりと背を向けて立ち去ろうとすると、耳障りな声を投げかけられる。
「なあ。僕たちは、本当に……このままでいいのか?」
マリカは足を止めない。
「僕に従えなんて言わないし、嫌いでもいい。日向が起きたら、すぐに出ていくよ。だから、それまでは協力して戦って……」
何も聞こえない。聞くつもりもない。
小さくなっていく声。きっと振り向けば、肩を落とした狩谷太悟が見られるのだろう。
少なくとも前に同じような戯言を無視してやった時はそうだった。
いい気味だ。
すっかり気分をよくしながら、マリカは軽やかな足取りで、その場から離れた。
《クロスハート・ストライク》
勇者と勇士の絆レベルが10を越えるとアンロックされる必殺技。
一度の出撃で一回しか使えないが、通常の技を遥かに超える威力を秘めているぞ!
《マジックタブレット》
タブレット。
《勇者》
基本的に神殿にいるだけのお仕事です。