デスオンザビーチ
背の低い木々が立ち並ぶ林を抜けると、まるで境界線でもあるかのように、いきなり下草がなくなった。
その先に続くのは、真っ白な砂浜だ。直上にある太陽の光を反射し、眩しさをも感じる。
そこは入り江になっていて、幅は極めて狭い。左右は見上げようとすると後ろにひっくり返りそうなくらい大きな岩山に囲まれていて、帆船でも入ってきたら、それでいっぱいになってしまうだろう。
ざあと打ち寄せる波は強く、砂浜に乗り上げては白い泡になって弾けていた。
太悟とファルケは、『ビーチ』に辿り着いていた。
「わああ……これが、海なんだ……!」
空の紺碧と、海の紺青が水平線で交わる幻想的な景色に、ファルケの声が弾んでいる。
太悟は海なんて何度も見たし、この『ビーチ』にも幾度か足を運んでいた。
だからといって、少女の感動に水を差すつもりもない。実際、何度見ても美しいものだ。
警戒しつつ浜辺まで寄り、砂の感触を足で確かめながら、太悟は後ろにいるファルケに声をかけた。
「海来たの初めて?」
「うん! あたし、森の奥にある村で生まれたから。小さい頃に行商の人から聞いて……あたし、海を見るのが夢だったんだ」
「よかったね」
交通機関もさほど発達していない、魔物が跋扈する世界である。
地球のように、海が見たければ自動車や電車で……というわけにはいかないのだ。
小さな夢のようにも思えるが、多くの人間が生まれ故郷でそのまま生きて死ぬであろうことを考えれば、ファルケの命がある内に叶ったのはちょっとした奇跡だろう。
そのこと自体は喜び、祝福すべきことだ。しかし太悟の立場としては、感動し終わったのなら告げねばならない事実がある。
「だけど、ここも戦場なんだ。出るんだよ、魔物が……」
「だよねー」
ファルケは悲しそうに目を伏せた。
コーラスコーストという戦場の中で、この『ビーチ』と呼ばれている―――昔は、別のかわいらしい名前があったそうだが―――場所は、人気が低い。
ここがとてつもなく危険だとか、交通の便が悪いとか、そういった理由ではなく、単純に稼ぎにくいからだった。
普段は片手の指の数しか魔物が出現しないし、今回のような大規模侵攻時でも雑魚が十数匹、適当に海から上がってくる程度だ。
倒し甲斐があり、見返りが大きい魔物は港の方に集中するため、こんなところで油を売りたがる勇士はいない。
だからといって放置するわけにもいかず、今回は太悟とファルケが配置に着いたというわけだ。
「こんだけ狭いと、大部隊じゃ逆に戦いにくし、大型の魔物も窮屈だからね。向こうもあんまりここ好きじゃないと思う」
「キレイなとこなのに……」
「あいつらの美的感覚なんて考えたこともないなあ。会話できる魔物はけっこういるけど、そんな話しないし」
太悟は旋斧カトリーナを肩に担ぎながら言った。
強力な魔物はだいたい知能が高いので、人間の言葉を喋れる者は数多く存在する。
会話による意思の疎通もできるが、終着点はいつも「お前を殺す」だ。お互いに、それが仕事だから仕方がない
今度、喋れる魔物と遭遇した時は、青い空と青い海をどう思うかについて聞いてみることにしよう。
馬鹿かコイツと思われるかもしれないが。
「あ、そうだ。太悟くん、これ」
「ん?」
ファルケが渡してきたのは、指輪だった。
金色のシンプルなデザインで、表面には女神の名前が彫られている。
どこかで同じような物を見かけた気がするが、思い出せない。
「加護の指輪だよ。それを君が、あたしがもう片方を指にはめるの。そうすれば、あたしの攻撃が魔物に効くようになるから」
ファルケがまったく同じ指輪を見せてくる。
「そうか、これが……」
太悟は目を細めた。
彼自身はそのままでも魔物を倒せるために、そして勇士たちが戦ってくれないので、これまで一切必要としなかった道具である。
他の勇士たちの指で輝くそれを、太悟は見るともなしに見ていたのだ。
「どこにあったんだ? うちの神殿じゃ見たことなかったぞ」
ファルケがにっこり笑う。
「マリカが隠してるの知ってたから、昨日こっそり借りてきたんだ」
「……なるほど」
そりゃ盗んだって言うのでは、と太悟は一瞬思った。
しかし、加護の指輪はマリカ個人の所有物ではないし、勇者の代理が本来の目的のために使うのだ。何一つ問題はない。
持っていたカトリーナを砂地に突き刺し、太悟は指輪を左手の人差し指にはめた。特に意図があるわけではなく、適当に。
きつくて入らなかったりしないかと心配していたが、何の苦労もなく付け根まで指輪がはまった。
かといってぶかぶかというわけでもないから、きっとそういうアイテムなのだろう。誰でも身に着けられるようになっているのだ。
「しっかし、勇者が寝てても加護は働くらしいのに、あの光一みたいに昏睡してたらダメってのがよくわかんないな、女神パワー」
「神様の御業だからね。魔法とかと違って、あたしたちにはぜんぜん仕組みが理解できないよ……あ、光った」
「おおっ」
二つの指輪に刻まれた女神の名前が、仄かに輝き始める。
フレンドがオンラインになりましたって感じだな、と太悟は思った。
「よーし、あたしの勇士としての再スタート! はりきっていくぞー!」
ファルケが弓を振り上げながら叫ぶ。
神殿に籠ってる連中と比較すれば、少なくともやる気があるだけ百倍マシだ。
「はりきるのはいいけど、そろそろ……おっと」
絶え間なく揺れ動く海面に、視線を投げていた太悟。
金属製のドミノを一気に倒したかのような音とともに、彼の体は瞬時に鎧で覆われた。
鈍い銀色に光る、有機的な装甲。その隙間に張り巡らされる、丈夫なワイヤーのような蔦。
各所に備えられた鋭い棘は、敵対者を威圧するデザインだ。
竜の頭骨を模した兜の上顎部分を下すと、太悟は竜戦士とも言うべき姿に早変わりした。
「ファルケ。僕の後ろに来て」
さすがに勇士の端くれと言うべきか。
勇者が戦闘態勢に入ったのを見て、ファルケの緩んでいた表情が引き締まる。
太悟の言う通りにファルケが動くのと同時に、海面から水しぶきが上がった。
飛び出してきたのは、平凡なただの魚ではない。
筋骨隆々の男の体に、魚の頭部を持った半魚人だった。
全身は翡翠色の鱗で覆われていて、すべての指には獲物を引き裂くための鉤爪が備わっている。
見慣れたその姿に、太悟は無感情に呟いた。
「スケイルマンか。定番だな」
半魚人……スケイルマンは、空中で両腕を前に伸ばした。
対して、太悟は両腕を顔の前で交差させた。
それから次に事が起きるまで、一秒もかからなかった。
耳を劈く金属音。
まるで金タライ叩きマシーンという物があって、それが人間では不可能な速度で仕事をしたかのような。
砂浜に無数の小さな穴が穿たれる。
穴と同じ数だけ砂柱が立ち上がり、一瞬空が砂色に染まった。
魚鱗手裏剣。スケイルマンが腕に生えた鱗を機関銃の勢いで射出したのだ。
手裏剣とは名ばかりで、たとえ鉄の鎧を着ていても、刺さるどころか中の肉体ごと貫通する。
全弾直撃すれば、人間なんてあっという間に挽肉だ。
太悟はそれを、コロナスパルトイの防御力だけで受けていた。
装甲にほとんど傷はなく、たとえあったとしても瞬く間に修復してしまう。
当然衝撃もあるが、今の太悟にとって耐えられないほどのものではない。
砂浜を穿ったのは、鎧に弾かれた跳弾や流れ弾だ。
太悟のすぐ後ろにいたファルケも無事だったが、何が起きたのかわからず目をぱちぱちとさせている。
不意打ちの鱗手裏剣で、てっとりばやく邪魔者を片付けようと思ったのだろう。
その目論みが外れたスケイルマンは、右腕を振り上げて太悟に襲いかかった。
ただでさえ船底を容易にぶち抜く鉤爪が、落下運動の力を借りている。
並みの勇士が下手に受けようものなら、防御ごと叩き潰されておしまいだ。
もちろん、太悟はそうなるまで大人しく待ってやる間抜けではない。
砂浜に刺していたカトリーナの柄を右手で握る。主人の体温を待っていた殺戮兵器は、歓喜の叫びと共に旋刃を回転させた。
下から上に駆け上がる刃。空間に刻まれた線と、スケイルマンの体が重なる。
その名の通り、魔物の全身を覆う鱗は丈夫で、斬撃に打撃、魔法攻撃にも高い耐性を持つ。
だが、旋斧カトリーナの前では何もかもが無意味だ。
股から頭のてっぺんまで、綺麗に真っ二つになったスケイルマンは、砂浜に着地することなく瘴気になって消えた。
「ファルケ。林の方まで走れ」
太悟は振り向かずに命令した。
「うん!」
ファルケが素早く走り出す。
その間にも、海から飛び出してきた二体のスケイルマンが、太悟に組み付こうとしていた。
怪力をもって拘束してからの噛み付きもまた、半魚人の魔物が得意とする攻撃だ。
肉どころか、骨まで噛み千切る牙と顎。しかしそれも、頭と胴体が繋がってなければ意味がない。
目にもとまらぬ速度で、今度は横に走った旋刃が、スケイルマンに打ち首の刑を与えていた。
倒れ伏す体と、転がる首。
それら二つが消えるのを待つことなく、追加のスケイルマンが次々に浜辺から上がってくる。
これから始まる残酷なパーティーの参加者たちだ。
「太悟くん!」
後ろの方でファルケの声がした。あらかじめ決めていた配置に着いたようだ。
太悟はカトリーナを頭上で旋回させ、その勢いのまま、自分の背後に斬撃を放った。
ざあっと砂が舞い上がり、太悟の少し後ろに、砂浜を横断する線が刻まれる。
「打ち合わせ通り、その線を越えてくる奴がいたら足止めしてくれ」
街の方から、爆音が聞こえてくる。向こうでも始まったようだ。
寄せ手を無慈悲に切り刻みながら、太悟は友人たちの無事を祈った。




