S-ai
2045年問題というのがある。
一言で言うなら、「人間以上に賢いコンピュータが出来る可能性がある年が、2045年頃」なのだという。
現在のコンピュータや機械という存在は、人が作り、人の仕事の一部を肩代わりしているに過ぎない。計算機は、計算は早いが、感情や常識に疎く、柔軟な対応ができない、ということだ。また、命令されたことはできても、それ以外のことはできない。
だが、世界各地で研究が進む「人工知能」というものは、命令されずとも自ら考え課題を解決できるそうだ。今はまだ「人間のように」「人間以上に」考えることはできないが、計算は早いコンピュータが、作り手を超えていく日は、遠くないかもしれない。
僕はしがないのプログラマだ。数年前に転職したベンチャー企業で「あるもの」の開発をしている。
アニメやゲームに登場する美少女キャラクターと擬似的な同棲を可能にする装置。世間ではそういったものを「バーチャル彼女」なんて言ったりするらしい。
オタク界隈では、好きなキャラクターを「俺の嫁」と呼んだりするが、まさしく嫁のようにコミュニケーションができるものを、最終的な目標にしている。
まだ表にしているのは、装置の概要と一人のオリジナルキャラクターの外見だけだが、ネット上ではまずまずの反響だった。
開発メンバーは全員オタクで、現実捨ててる感じで、嫁召喚器を作って理不尽な現実の恋愛から降りようと熱意を燃やしている。「理想の嫁」が完成すれば、実際の交際よりも恋愛を楽しめるものになるだろう、と。
僕もよりクオリティの高いものを作ろうと日夜開発を進めている。
だが僕は、メンバーに秘密にしていることがあった。
僕には、現実の彼女がいるのだ。
彼女との馴れ初めなどはこの際割愛するが、ともあれ転職前からの付き合いなので結構長い交際になっている。
僕の仕事が少し落ち着いたからと、久しぶりに食事をすることになって、個室の居酒屋でランチメニューをとりつつ、スマートフォンで告知用サイトを見せて説明する。
彼女は首をかしげ、珍しいものでも見たような顔でつぶやいた。
「これがホントの『俺の嫁』ってヤツですか」
「そうだね」
彼女は特別オタクでもなければ理系出身でもない。その上、件の嫁召喚器は、つい先日情報解禁したばかりで、ずっと内緒にしていた。
いったいどんな顔で話を聞いてくれるだろうか、と不安だったが、彼女はどう反応したものかといったような思案顔をして、こう聞いてきた。
「彼女の名前は?」
「仮の名前なら付いてる。S-ai。『強い人工知能』から付けた」
「何が強いの?」
彼女は腕相撲をするようなポーズしながら言うが、僕は手を顔の前で振って応える。
「人間のように幅広い物事を考えられる人工知能のことをそう表現したりするんだ。まだフィクションの中にしか存在しないけどね」
「あれ? じゃあS-aiは考えてないってこと?」
「どういう状態を『考えている』って言えるのかは難しいところだけど……。今のところ、こっちが書いた『あたかも考えているように見えるマニュアル』に沿って動いているだけだね」
「そっかー……。難しいね」
そうこうしているうちに、先にサラダだけ運ばれてきて、彼女の気はそちらに取られた。
僕は彼女がサラダを取り分けてくれた小皿を受け取りながら言う。
「それでも結構色々できるようになった。スマート家電と繋げて動かすことができるし、目覚まし機能とメッセージ送受信、SNSの投稿までは可能だ」
「おおすごい。便利っ」
彼女は手を叩いて微笑む。
しかし、サラダをフォークに突き刺し口に含んでから、ハッとしたような顔になった。
僕は、どうしたのだろうと様子を見る。彼女はサラダを咀嚼して飲み込んでから、ぼそりと呟いた。
「リアル嫁解雇のお知らせ…………?」
いや君はまだ嫁ではないのでは……、と言いかけたが、僕は黙って机に肘をつき手に顎を乗せるポーズをして彼女を見る。
彼女は漫画のようにブルブル震えだして言う。
「わ、私だって! いろいろできるしっ」
「えー。じゃあ、君は何ができるの?」
僕がそう聞くと、彼女は胸を張って応える。
「料理が出来るよ!」
「デリバリーでよくない?」
「私が焼いた肉の方が美味しい!」
「肉だけかよ。てかそれなら僕でもやる」
「魚も焼けるぞ!」
「焼くだけかい」
「煮物だって炒め物だってできるもん」
「はいはい」
ずっと続きそうだったので、適当に話題を変える。
「他には?」
「洗濯もできる」
「コインランドリー」
「掃除だってする」
「掃除機ロボ」
「あなた片付けできないでしょ!」
「雑に置いてあるんじゃなくて、ちゃんと使いやすいように置いてあるんだ」
「むむぅ……」
彼女は不満そうに口を尖らせる。それから、少し考えて呟いた。
「こ」
「こ?」
彼女は頬を染めて小さな声で言う。
「子作り……とか……」
「おぅ……」
さすがに、ここで「それ系の人形とか、子どもなら養子制度が」と言うと本気で怒りそうなので黙る。
「ほ、ほかには?」
「えぇー……」
さっきのが彼女の最終兵器だったらしい。彼女は腕を組んで首をかしげ、また考え込む。
彼女はふと窓の外を見た。僕もならって見る。晩秋の外は木枯らしが吹き、落ち葉が路面を転がっていく。
彼女はこちらを向いて言う。
「寒い時に一緒に寒いねって言ったり」
「それ、いる?」
僕の返事に、彼女は眉間にシワを寄せる。
それから、少ししたり顔になってこう言った。
「あと、一緒に年を取ってあげる」
「は……?」
なんだそれ?
そのあとは、料理が運ばれてきたりして、話題がほかのことにゆっくり切り替わっていった。
美味しかった料理の感想を言い合いながら、会計を済ませて外に出る。
「じゃ、戻る」
昼休みにこっそり抜けてきたわけで、こっそり戻らなければなるまい。
「はーい」
僕の言葉に彼女が返事を返す。
僕は軽く手を上げて背を向ける。
「いってらっしゃい」
背後にいる彼女が、小さくそう言ったのを聞いた。
職場に戻ると、入口のカメラがこちらを向き、S-aiが声をかけてくる。
「おかえりなさーい」
カメラの下に取り付けられた画面には、エプロンを着た若い女性キャラクターとしてのS-aiが首をかしげる動作をしながら微笑む。
「ただいま」
僕はS-aiにそう返したけれど、音声に違和感を感じていた。
すぐに、部屋の中にいたほかのメンバーが驚いて言う。
「うっわ。複数のスピーカーから同時におかえりって言ってんじゃん。こわっ」
「あー。直さなきゃ」
僕はぼやきながらPCに向かった。
現実とバーチャルとの壁は、まだ厚い。
話は変わるが、彼女の仕事場を離れたところから眺めるのが僕の秘密の趣味だったりする。
何事かと思うかもしれないがなんてことはなく、彼女は僕の職場近くのデパ地下の店員で、僕は他の客に紛れて彼女が売り子をしているのを遠くから見ているだけだ。僕がそうやって見ているのを彼女は知らない、たぶん。
多くの場合、退社後か、自分の昼休み中に昼食を外で食べるような顔をして職場を出て、彼女が働いているところを少し眺め、何食わぬ顔でその場を去る。
他の店員とお揃いのエプロンと帽子を付けて、昼時の混み合うデパ地下で惣菜を売る彼女。マニュアルに沿った接客と、作り物の笑顔。
僕は、人の――特に女性の――顔を覚えるのが苦手だから、注意していないと、彼女をすぐに見失ってしまうだろう。
彼女にS-aiの話をしてから、またしばらく会えない日が続いた。
メールや電話は時々していたが、互いの空き時間がなかなか合わなかったのだ。
彼女は土日祝日が関係ない仕事だし、僕の方も開発が佳境に入って忙しくしていた。
それでもその日は、彼女の仕事が午前だけだからと一緒に昼食をとる約束をしていた。
「今の気温は三度ー。外に出るときはコートを着ていきましょう、だって」
S-aiは、現在地の気象状況からそんな台詞を喋るようになっていた。喋りながら、少々大袈裟に自らの両肘をつかんで身震いをするポーズを取る。
僕は、時計を見ながら、そろそろ出ようと今やっている作業の区切りをつけようとしていた。
「ただいま帰りましたー」
お使いに行ってもらっていたバイト君が少々疲れた声を出しながら入ってきた。
「おかえり。遅かったな」
代表がバイト君に話しかける。
バイト君は、首をすくめて応える。
「いやぁひどい目にあいましたよ。駅前の交差点ですごい事故があったみたいで、めっちゃ遠回りしました」
「え?」
話を聞いているだけのつもりが、驚いて声が出る。
交差点近くの広場が、今日の待ち合わせ場所だった。
「どうした?」
僕の反応がおかしいことに気付いた代表が聞いてくる。
「いえ、その……」
うまく答えられずにどもってしまった。考えすぎだと思うのに、手が震える。
バイト君に事故の様子をそれとなく尋ねながら彼女にメールを送ったが、野次馬がすごくて近づいていないからよく分からないと言われ彼女からの返信はなかった。
外が騒がしくなってきた気がする。それ以上に、自分の鼓動の音がうるさくなってきた。
僕は周りの制止も聞かずに外に出る。
入口に立つS-aiが、
「いってらっしゃい」
と言うのを背中に聞いた。
外はすごく寒くて、慌てていてもコートを着てきてよかったと思える。
走りながら彼女に電話をかけるが応答がない。
待ち合わせ場所に急ぐ。以前彼女が言った言葉を思い出す。
『寒い時に一緒に寒いねって言ったり』
『あと、一緒に年を取ってあげるよ』
スマホを確認するが、やはり返事はない。
僕はコートの裾を握って歩みを進める。積もる心配を吐き出すように、彼女の名前を呟いた。
「彩……」
交差点近くは本当にすごい人だかりで、僕は必死に彼女の姿を探した。
人の間から、路面に飛び散る赤い筋が見えてゾッとする。
野次馬の足元から、何かが僕の前に転がってきた。
よく見てみると、それは――彼女の靴だった。綺麗な女物の靴には、踏まれたような跡と、赤黒い汚れ。
僕は膝から崩れ落ち、深く項垂れた。