30.お茶会の前に
ユーミリアはその聞き慣れた声に、強ばった体を更に緊張させた。
こんな所で彼と会えるなど、ユーミリアは微塵も思っていなかったのだ。しかも、今、偶然とはいえ彼に後ろから抱き込まれている。
彼の温かい体温が布地越しに伝わり、ユーミリアは恥ずかしさから体温が急激に上がるのを感じた。
そんな彼女に再びクレメンスが優しく声をかける。
「私が誰か分かるか?」
と、彼は確認するかのように、ユーミリアに尋ねた。
コクン コクン ……ドンっ
彼の質問に、口元を覆われたままユーミリアは即座に頭を立てに振る。
だが勢いよく動いたことで、彼女の背中がクレメンスとぶつかってしまった。
(キャー。か……硬い。胸も二の腕に負けず劣らず……。)
ユーミリアは体をビクリとさせる。
「……本当か?」
彼女の態度に疑問を感じたのか、彼はまたしても質問を投げかけて来た。叫ばれては困ると考えているのだろう、彼はユーミリアの口元を覆う手も外してくれない。
コクン コクン コクン
ユーミリアは先程よりも力強く多めに頷く。
(分かってます! クレメンス様です!! だから、早く離れて下さい!!)
と、彼女は涙目になりながらに訴えたのだ。こんなにも身近に彼に居られては、胸がはちきれてしまいそうだと、ユーミリアは苦しい心の内を主張した。
そんな彼女の想いが伝わったのか、ようやく彼の手が彼女の口元から離れていく。
「そうか。では……そんなにも私の傍に居るのが嫌なのか。」
だが彼女の態度からか、彼への想いが間違って伝わってしまったようだ。クレメンスの落ち込んでいる様な低い声が、ユーミリアに届く。
「!?」
驚いたユーミリアは勢いよく後ろを振り返った。
彼の腕の中で、彼女はくるりと反転する。
「嫌ではありません!! 驚いただけです!!」
と、彼女は彼に訴えた。だが彼女は気付く。自分の腰にはまだ、彼の腕がぐるりと絡まったままなのだ。
そのまま彼女が振り向いてしまった事で、ユーミリアはクレメンスと抱擁しているような形をとってしまった。
ドクン
彼女の胸が高鳴る。
「……そう……か。」
だが彼の方はというと、理解を示したかのような言葉を述べ、顔を曇らせるだけであった。
(こんなにも私はクレメンス様の事で動揺をしているのに、貴方様の表情は暗いまま……。私と触れ合うことにも、特別な感情なんて抱かないのかしら。)
彼の変わりない態度に、ユーミリアは沈む。
「……クレメンス様……。」
彼女は彼の顔を見上げながらポツリと呟いた。
そんな彼女の様子に、彼は慌てて笑顔を取り繕う。と、そこで初めて二人の顔が近い事に気付いたのか、彼は急いで自分の腕から彼女を解放した。
「あ、いや、すまない。何でもない。」
と、彼はユーミリアとの距離をとるため、一歩後ろに下がる。
「……。」
そんな彼の拒絶するかのような態度に、彼女は更に傷ついてしまっていた。
「本当に、何でもないんだ。」
ユーミリアが自分の態度を不審がっていると感じたのだろうか、彼は安心させようと優しい笑顔を彼女に向けた。それは、あまり他人には見せない、以前はユーミリアだけに向けられていた彼の甘い微笑み。
そんな彼の笑顔を受け、ユーミリアは彼から目を反らす。普段なら一瞬にして顔を真っ赤にしていた彼女だが、今回はそうはならなかった。
拒絶された後の彼の笑顔は、ユーミリアにとっては誤魔化そうとしているのだと考える以外、何物でもなかったのだ。
「……はい。」
彼女は返事をするだけで精一杯だった。
「……。こんな所に急に呼び出してすまない。」
目線を下に向ける彼女に、クレメンスが声をかける。
「呼び出し? あの……クレメンス様、私、陛下に呼ばれたのです。そろそろ宜しいでしょうか? 急いで騎士の後を追いかけないと……。」
顔を上げたユーミリアはクレメンスと顔を合わせ、言葉を綴る。二人の視線が交わっていた。
(……どんなに避けられてもときめいてしまうのは仕方のないことよね。)
彼女は平静を装うと、彼の前から退去する許しを待つ。
だが彼からの返答は彼女の予想を遥に超えていた。
「それは大丈夫だ。陛下は君の事を呼んではいない。呼んだのは私なんだ。
先程の騎士もそれをちゃんとわきまえている。」
と、彼が悪びれもなく言ってのけたのだ。
「っ!?」
ユーミリアはそんな彼の告白に、思わず目を見開く。真面目なクレメンスがそんな不敬な行動をとった事が、全く信じられなかったのだ。彼女は不安げに彼を見上げた。
そんな彼女の表情に、クレメンスはつい口元を綻ばして言葉を綴る。
「心配はいらない。兄が上手いぐらいに計らってくれたみたいだ。
君にも僕にも、先程の騎士にも害は及ばない。」
と、彼は静かに彼女に伝えた。どうやら、どうしてその行動をとったかではなく、その行動による処遇をユーミリアが心配しているのだと勘違いしたようである。
「シリング様!?」
だが、ユーミリアの注意は他に逸れてしまっていた。彼の言葉を受た彼女は思わず叫んでしまう。
(あの人はどこまで首を突っ込んだら気が済むのかしら。……というか、あの人、何者!?)
と、シリングの姿を思い出し、ユーミリアは訝しげに眉を潜めた。
「……兄のことを知っているのかい?」
そんな彼女に、クレメンスは尋ねる。
「え……ええ。もちろん。学園の生徒会長ではないですか。」
「……。そう、だね。」
焦るユーミリアは、ついしどろもどろになってしまうが、クレメンスが深く追求してくることはなかった。彼なりに思惑があるのだろうか。そして、彼は言葉を続ける。
「今回のことは、兄が不穏な噂を聞きつけてな。それで心配になって、私は君の元に駆け付けたのだが、間に合ったみたいで良かった。」
「……。」
(不穏? 間に合った? 何のことかしら……。)
ユーミリアは首を傾げた。
「いや、君は気にしなくて大丈夫だ。ただの噂だ。間違いかもしれない。
それに……もし本当だとしても、彼女が行ったしね。」
「? 彼女? ……あ! アリーサ様!
クレメンス様、私、アリーサ様と来ましたの。不穏な動きがありますのよね。彼女、大丈夫でしょうか?」
ユーミリアは不安げに彼を見上げる。
だが、クレメンスは顔色一つ変えなかった。
「ああ、彼女なら大丈夫だよ。」
「え? 何故……。それに、私よりもアリーサ様を大切にしたほうが……。もしかして、私が居ると足手まといとか?」
ユーミリアがポツリと呟く。だが、最後の方は彼には聞こえなかったようだ。
「どうしてあの娘を大切にしなければならないのだ?」
と、クレメンスは始めの言葉に方に反論を返して来た。
「え……。彼女の事を想ってはいないのですか? ……あっ!」
ユーミリアは思わずそんな質問を彼にしてしまう。
(しまった……つい……。)
焦る彼女は手で口元を覆う。そうすることで発した言葉をなかった事にしたかったのだ。
だがそうは出来ない。
クレメンスの表情がみるみるうちに陰るのが、ユーミリアには手に取るように分かった。
「あの……その……。」
言い訳を考えるも、ユーミリアの口からは言葉が綴られてこない。
ハア――
クレメンスが大きなため息を一つ吐いた。彼は一呼吸置くと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「私には、もう何年も想っている相手がいる。」
ユーミリアは体を大きく一つ震わせる。そんな彼女を尻目に、彼は言葉を続けた。
「今までも、そしてこれからも、その想いが変わる事はない。」
彼は大きく宣言をした。
(……。相手……リリー様……。)
ユーミリアの体温が一気に下がる。
「……クレメンス様は、他の方に目を向けることはこの先、本当に絶対ありえないのでしょうか?」
彼女は虚ろな目で彼を見つめながら、ポツリと呟く。そんな彼女の言葉に、クレメンスは目を見開いた。
「……君は、私の想い人が誰なのか知っているのか?」
「……。」
ユーミリアは彼の質問に答えなかった。だがそれは、彼にとっては肯いている様なものである。
「……そうか、知っていたのか。……いつから? いやいい、答えなくて。……そうか。それで、私に他を想えと言っているのか?」
クレメンスの心の中をも見透かすような強い眼差しに、ユーミリアはたじろいだ。
「で……ですから、貴方を想ってる女性は他にもいっぱい居ります。かく言う私も……。」
ユーミリアは強く宣言するも、最後の方は口籠ってしまう。
「そうか、君の気持ちは分かった。」
「え!?」
驚いたユーミリアは顔を上げて彼を見つめた。そんな彼女の、嬉しそうな恥ずかしそうな表情を受け、クレメンスは額に皺を寄せた。
「……そんなに嬉しいのか。私が他を想う事が。」
「い……いえ……そのような事は……。」
彼の辛辣な表情を受け、ユーミリアは顔を真っ青にさせる。
「もうアリーサ嬢の所に戻ってもいいよ。急に呼び出して済まなかった。
先程、友達と別れた場所は覚えているか? そこに行けば、そこからはまた従者が案内する。」
「……はい。」
クレメンスの一方的な強い言葉に、彼女はただ頷くことしか出来なかった。彼はもう、自分に一瞥も与えようとしないのだ。沈むユーミリアは俯く。
「あと、これから行く先での遅れた理由は“陛下に顔を見たいと言われた。”と言い訳をしてくれ。
それで上手く事が運ぶようになっている。」
「……はい、分かりました。……では、失礼いたします。」
呆然としながら返事を返すユーミリアは、機械的に腰を曲げた。彼の態度に傷つき、彼女は頭を動かすことが出来なかったのだ。彼の言葉は、彼女の耳から耳へ通り抜ける。
頭を上げたユーミリアは、アリーサと別れた場所へと足早に向かった。




