20.契約と鹿
《おい。》
低い声がユーミリアの頭の中に響く。
ユーミリアはビクッと体を強張らせると、勢い良く目を見開いた。驚く彼女の眼前には、月明かりでほんのり明く照らせれた自室の天井が広がる。
(そうだわ。私、昨日の今日で早速実家に帰って来てしまっていたのよね。)
彼女は一息つくと、首から上だけを左右に動かして部屋の状況を確認した。辺りは何も変わった様子はなく、さきほど彼女に呼びかけたであろう声の持ち主が居そうな気配もなかった。
元凶は鹿ですかいと、ユーミリアは大きなため息を吐くと、ゆっくりと上半身をベッドの上で起こす。
時計の針は丑の刻をちょうど指していた。
(……不吉だわ。嫌がらせかしら。)
彼女は鹿を呪った。
《常識のない鹿ですこと。》
ユーミリアは精神の中で鹿に悪態を吐く。本来ならば、拙い彼女はまだ話相手が目で見える範囲に居るときしか精神魔術で話しかけられない。だが、鹿の声が自分の耳に届いたのだからと、彼女は試しにそのまま喋ってみたのだ。
《相変わらず口が悪いな。おい、起きたのなら庭に下りて来い。》
《あら、通じたのね、良かったですわ。でも、下におりるのは嫌よ。今、何時だと思って?》
ユーミリアは鹿の申し出を当然のごとく断った。
《……おい、わしを何だと思ってるのだ。》
そんな高圧的な態度をとる鹿に、彼女は眉をピクリと動かす。
《失礼ね。きちんと鹿だと思っていますわよ? それに、こうやって会わなくても会話が出来るのだから別に顔を合わさなくても良いでしょう?》
《そうだが、わしはお前に広大な土地をやろうとしている大恩人だぞ? 顔を見せて話すのは常識であろう。》
《……いえ、大迷惑を掛けられそうの間違いです。私の方が立場的には有利では?》
彼女はきちんと訂正を入れておいた。
《……。まあ細かい違いはどうでもよいでわないか。で、答えは決まったのか?》
適当にごまかす鹿は、彼女に尋ねる。ゲーム開始の入学式まですでに一カ月を切ってしまっていたのだ。
《あ、返事まだでしたっけ。私に良い考えがありますの。ですから、呪いを解除して頂いて結構ですよ?》
《……。》
そんなふうに彼女が快諾するも、それを切望していた張本人は絶句しているのだろうか。彼女の耳に鹿の喜ぶ返事が届かない。
《え? 私の考えを心配していますの? 大丈夫ですよ。必ず成功しますから。》
《……。》
なおも鹿は言葉を失っている。
《詳細は反対されそうなので言えないのですが、私を信じてください。絶対に大丈夫ですから!!》
《……だが。》
やっと鹿が何かを呟いた。だが、残念ながら声が小さすぎて彼女の耳にはすべては届かない。
《鹿さん!? 何を恐れているのですか?》
落ち込む鹿を元気づけようと、ユーミリアは励ますように声を掛けた。
《……掛けたのだが。》
《え?》
《呪いではなくて術を掛けたのだが!!》
今度は彼女の耳に鹿の声がしっかりと響く。
《……。そこ? 無言の原因はそこですの??》
ユーミリアは小さく舌打ちをした。
「まったく小物ですこと。」
と、彼女はついでに悪態もついておく。どうせ、家の二階と庭では距離がありすぎて声は届かないのだ。大丈夫だろうと彼女はたかをくくる。だが、鹿も地獄耳なのだろうか。
《なんか悪口が聞こえるような気がするのだが。》
と、鹿がのたまったのだ。
《……気のせいですわ。では“術”の解除お願いしときますね。私は明日も解除後の準備で忙しいので、もう寝かせてもらいます。》
そう言うと、ユーミリアは再びベッドに倒れ込んだ。
鹿が何やらまだ懸命に喋りかけてきたが、ユーミリアは心を閉じると、精神魔術を一切遮断する。鹿の煩わしさから逃れるため、自分にシールドのような術を掛けたのだ。
(嫌ね。中途半端な時間に起こされちゃったわ。また眠れるかしら。)
そんな杞憂をよそに、ものの数秒後に彼女は再び深い眠りについた。どうやらさほど疲れてはいなくても、彼女は寝付きが良いようだ。
彼女が眠ったことを感じると、鹿が人知れず盛大に舌打ちをしようとした。だが、思い虚しく空振りに終わってしまっていた。
怒りに任せて気づかなかったのであろう。鹿に舌打ちは出来ないことを。
もっと力が回復したら人型に変化してやる!っと鹿は心の中で悪態を吐いていた。




