水難
時子は昔から霊感が強かった。
古い建物の影に人ではない何かが佇んでいるのを見たり、夜道でふと視線を感じて振り返ると、電柱の影から何かがこちらの様子を窺っているのを見たりした。
そんな時、時子は走って逃げた。もし追いかけられたとしても、追いつかれるわけがない。彼女は飛ぶように足が速いのだ。
時子の所属する水泳部の部員達は、高校の全国大会が近いこともあって、毎日暗くなるまで練習に打ち込んでいた。その日も遅くまで泳いだ後、仲間の部員達と部室を出たのは、夜も7時を過ぎた頃だった。
皆でわいわい話をしながら駅まで歩き、そこで時子は財布を部室に忘れてきたことに気がついた。
「ごめん! 財布忘れてきちゃった。 面倒だけど取りに戻るね」
時子は、夜道を急いで戻り、プールの側に建つ部室に入った。
誰もいない部室は、物音一つしなかった。時子は部屋の中を見渡し、すぐに自分のロッカーの前に財布が落ちているのを見つけた。時子はほっとして用事を済ませると、急いで部室を後にした。ただ、部室を出るとき、中で水が落ちるようなピシャっという音を聞いた気がした。
水泳部の部室は、見かけよりも随分古い建物で、幽霊が出るという話が語り継がれていた。学校にはそんなスポットがたくさんある。しかし実際に幽霊を見たという人の話は聞いたことがない。
「気のせい、気のせい……」
時子は、自分を励ますようにつぶやくと、急いで家路についた。
まだ空にはうっすらと夕焼けの跡が残り、人通りも多い。
時子は、街灯で煌々と照らされた夜道を歩いているうちに、さっきの嫌な感じのことなどすっかりと忘れてしまっていた。
駅についてから家までは、歩いて15分ぐらいかかる。駅の周りの賑わいから離れると、夜道は急に静かに、そして薄暗くなっていく。通い慣れた道ではあったが、時子はさっきの嫌な感じをふと思い出し、自然と急ぎ足になっていた。
――ピシャ、ピシャ
家まであと数分。その道すがら、時子はすぐ後ろで水が落ちる音を聞いた。
時子は、ぞわっと総毛立つのを感じながら、後ろを振り返る余裕もなく、全速力で駆け出した。
――ピシャ、ピシャ、ピシャ
水音はだんだんと間隔を詰めながら、時子のすぐ後ろを付いてくる。
口から悲鳴が出そうになるのを必死にこらえ、時子は自宅の門の前までひたすら走り抜いた。鍵のかかっていない門に震える手をかけて中に入り、玄関の前に立ったとき、追いかけてきた気配はふっと消えた。
時子がおそるおそる振り返ると、門の外には小さな水たまりができていた。しかし、嫌な感じはさっぱりと消え、真夏の生暖かい風が狭い庭から吹き抜けてくるだけだった。
時子は、大きくため息をつくと、家の鍵を入れたポケットの中を探る。家族は今日は家にいない。
「今日は、寂しいの、やだなぁ」
さっきの怖かった出来事を誰かに話せれば、少しは気が紛れるのに。
時子は、そんなことを考えながら家の中に入った。
「ただいま……」
誰もいないことは分かっていたが、時子は挨拶を口にする。
「先にお風呂でも入ろうかな」
一人でも何かを話すと気が紛れる。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、時子は口に出して言ってみる。
「ぬるいお湯をたっぷり張って、ゆっくりつかろっと」
浴室は、玄関から入ってすぐ右側にある。時子は、浴室につながる洗面台の前に立った。そしてその横にある脱衣籠の中をちらっとのぞくと、自分の服を次々と脱ぎだした。そして最後に結んでいた髪を解いて、浴室の中に入った。
時子のほどけた黒髪は腰の近くまであり、真っ白な肌の色と美しいコントラストをなしている。水泳部での長髪には色々と問題がある。しかし、時子には母親譲りの美しい黒髪を切る気など全くなかった。
時子は、さっきの背筋が寒くなるような恐怖をお湯の中に溶かすように、たっぷりとお湯を張った浴槽の中に体を沈めていた。
浴室の中には湯気が立ち込め、天井からは水滴がぽたぽたっと落ちてきた。
急に、ざあっという音が窓の外から聞こえ始め、低い雷鳴が轟いた。通り雨のようだ。
「傘を持ってなかったから、意外とツイてたのかもね」
時子は、また独り言をいうと、お湯の中に顔を半分沈め、口から息を吐き出してぷくぷくと小さな泡を作る。
そのまま、息を止めて、雨音を聞く。うるさいけど落ち着く音。
しばらくは止みそうにないなぁ。
時子がそんなことを考えていると、いきなり耳をつんざく落雷音が鳴り、視界が真っ白になった。
思わず身を起こすと、周囲の空気が冷たくなっているのが感じられる。
嫌な感じが背筋を這った。
「……誰か、いるの?」
時子は、白くけむった浴室内で目を凝らしながら、声を張る。
もちろん誰もいるはずはない。しかし、問いかけずにはいられなかった。
「……ごめんなさい」
空中から、あるはずのない答えが返ってきた。
時子が恐怖で絶句していると、声はそのまま話し続けた。
「いきなりでごめんなさい。 だけどお願いがあるの。 聞いてくれる?」
「だ、誰なのよ?!」
「私、ともえって言います。 時子さんと同い年です。 止まってますけど……」
「と、止まってるって、ゆ、幽霊ってことじゃ……」
「そういうことです」
浴室内の霧が晴れてくると、そこには短髪で快活そうな女の子が座っていた。
その女の子は、制服を着て正座していたが、空中に浮かんでいた。
時子は、浴槽からすぐに飛び出したかったが、全裸で外に逃げるのはちょっとまずい。
それに、目の前の女の子は、なんだか申し訳なさそうに座っていて、ちっとも危ない感じはしなかった。
「わ、私は幽霊と話をするの、初めてなんだけど」
「私も初めてなんです」
「そうなんだ。 あんまり人に話しかけたりはしないんだ」
「え? はい。 それでお願いがあるのですが」
「う~ん、まあ、とりあえず聞きましょうか」
「ありがとうございます」
ともえは、時子に切々と自分のお願いを語り始めた。
ともえの願い、それは時子のように学園生活を楽しみたい、ということだった。
ともえは、時子に気付かれないように、ときどき時子の後を付けては、その生活をうらやましく見ていたらしい。
生きていたときには泳ぐのが大好きで、そのことでも、時子をうらやましく思っていたそうだ。なんでも幽霊は水の中に入ることができず、入るには特別な力が必要らしい。ともえにその力はなかった。
そうしてどうしても我慢できなくなり、ともえは時子の前に姿を現して、お願いをしている、というわけだ。
「どうか、一日だけ、私と入れ替わってはもらえないでしょうか?」
「そんなの無理だよ!」
「あなたの力をちょっと借りるだけなんです」
「借りるって、どうするの?」
「黙って寝ていてもらえば、私があなたの中に入り込み、学校に行って帰ってきます」
「そんなの気持ち悪いし、ヤだよ」
「はい、そうですよね…… 無理なお願いですよね……」
明るく元気な感じのともえは、その顔を曇らせて、がっくりとうつむいた。その目には涙がにじんでいる。
時子は、そんなともえが気の毒になってきた。時子はいつでも泳げるが、ともえはもう二度と泳げない。これからもずっと……。時子は、迷いに迷って結論を出した。
「一日だけなら…… いいよ」
「ほんとですか! やったぁぁ!!」
ともえは、大喜びで何度も時子に頭を下げた。
そして、寝ているときに入れ替わるからよろしくと言い残し、空中でぱっと消えた。
時子は、まあ一日ぐらいならいいよね、と自分に言い聞かせ、すっかり冷めてしまった体を温め直そうと、浴槽に体を沈めた。
――次の日の夜。
時子はベッドの上で目を覚ました。体が重い。ものすごくだるい。
時子は何とか体を起こした。
すると、目の前には、ともえがニコニコしながら正座して浮いていた。
「本当にありがとう! すごく楽しかったよ!!」
「うん、よかったね」
時子は、あまりのだるさに話すのもつらかったが、嬉しそうなともえの笑顔を見て、じんわりと満足を感じた。人助けならぬ、幽霊助けも悪くない。
しかし、そう感じたのも一瞬のことで、すぐにすさまじい睡魔が時子を襲った。
「ごめん、もう寝るね」
「うん。 本当に、本当にありがとう!!」
ともえの感謝の声を聞きながら、時子は眠りに落ちていった。
――そして次の日。
「苦しい…… 殺さないで……」
ひどい悪夢にうなされて時子が目を覚ますと、もうお昼過ぎだった。学校をサボってしまったのだ。まだ体が重い。すごくだるい。おなかも空いた。
時子は、強い後悔と空腹を感じながら、そのまま二度寝を決め込んでしまった。
――それから、一週間。
時子の調子もすっかりと回復し、水泳部で元気に泳ぐ毎日だった。
ただ、水泳部の後輩の一人が突然亡くなったため、練習を休んてみんなでお葬式に行った一日があった。だから、水泳部の雰囲気は明るいとは言えなかった。
そんなこんなで疲れのたまった時子は、いつものように学校から帰ると、先にお風呂に入ることにした。
しばらく湯船に身を沈め、ぼうっとしていると、いきなり視界が真っ白になった。
この前の時のように空気が冷たい。
「……ともえ、なの?」
時子は白くなって見えない浴室に問いかけた。すぐに答えが返ってくる。
「……ごめんなさい、わたしです」
「何の用なの?!」
時子は、思わず強い口調で問いかけた。ともえと入れ替わった後、時子は体調の悪化にひどく苦しんだ。だからもう二度とあんな真似はしない、と心に誓っていた。
「実は、その、また入れ替わって欲しいのですが……」
「絶対にイヤ!」
時子は、頭に来て叫んだ。一日だけだって言ったのに。あんなに疲れるなんて言わずにだましたくせに。時子は、まだ一週間しか経っていないのに、もうやって来たそのずうずうしさにも腹が立っていた。
「なんとかお願いできないでしょうか?」
「もうイヤなの! あんなにつらいのは、もうイヤ!」
「でも、あなたの許可がないと入れ替われないので……」
「それって、どういうこと? 許可しないって言ってるじゃないの!」
「どうしても、許して頂けないのですか?」
「もう二度とお断りだよ!!」
ともえは、ぐっと押し黙ると、しばらくうつむいていたが、徐々に様子がおかしくなってきた。周囲の空気は凍るように冷たくなり、ともえの体の周りには濃い紫色の煙のようなものがまとわりつき始めた。
ともえは、下を向いたまま体を震わせていたが、そのこぶしは強く握り込まれている。
いきなり、ともえは顔を上げると、殺意のこもった目で時子を睨みつけた。その顔は、まさに鬼の形相と化し、すでに人間のものではなかった。
「それならもう、譲ってもらうしかないですね!」
「きゃああああ!!!」
ともえが時子の肩につかみかかってくる。
時子がその手を夢中で払いのけると、ともえは、苦痛に歪んだ顔で出した手を引っ込めた。
「おのれぇぇ! この私に歯向かうか!!」
ともえは、いままでの優しい声からは想像も付かない金切り声で叫ぶと、空中でみるみるうちに形を変え、真紅の鎧兜に身を包んだ女武者の姿となった。その手には、べっとりと血の付いた日本刀が握られている。時子は、その姿を唖然として眺めるしかなかった。
「そなたの首も、我のはねた何千の首の一つに加えようぞ!」
ともえは、手にした日本刀を大きく振り上げた。とても手をかざして防げるような状況ではない。武器が、強い武器が必要だった。
時子は、強く心に念じた。バケモノを追い払う強い力が欲しい、と。
そのとき時子の手の中に、なにか重い物が落ちてきたような感触がした。それは、まぶしく光り輝いていて、形は定かではない。しかし、幅の広い剣のような形をしていた。時子は、夢中でそれを握りしめ、ふと心に沸いた言葉と共に真一文字に振り抜いた。
「水神の力もて薙ぎ払いたまえ!!」
振り抜かれた剣からは、爆音と共に幾つもの水の束が発生し、回転しながら刀を構えるともえの体に殺到した。水流は竜となってともえの体を刺し貫き、締め上げ、そして喰らった。
「うぎゃあああああああああ!!!」
それは水竜の餌食となった哀れな幽霊の末路だった。
猛り狂う水竜が収まってくると、そこにはもう何もなくなっていた。まるではじめから何もなかったかのように。
時子は、その場で気を失った。
――次の日の朝。
時子の家の前を、通勤や通学で駅に向かう人が三々五々歩いている。
中学生らしい二人の女生徒の一人が昨日体験した怖い話をしていた。
「昨日の晩、ここを歩いてたらね。 そのお化け屋敷からすごい悲鳴が聞こえたのよ!」
時子の家は、もう何年も前から人が住んでおらず、門に面した浴室の天井は崩れ落ちていて、廃屋の様相を呈していた。
「そう言えば、ここの浴槽で女子高生が溺れ死んだそうよ」
「えー、なんでお風呂で溺れるのよ?」
「知らないわよ。 でも水泳部で泳ぐのは得意だったそうよ」
時子は、外から聞こえる話し声で目を覚ました。体が重い。力が入らない。
時子は、やっとのことで体を起こし、浴槽に手をついてゆっくりと立ち上がった。
そのとき、浴槽の上に置いてあったフタに手をかけて、下に落としてしまった。
――ガラン、ガラン
「きゃあああああ!!」
廃屋からいきなり聞こえた大きな音に驚いて、中学生たちは一目散に駅の方へ走っていった。
「朝からうるさいわね」
時子は独り言をいうと、浴室から外へ出る。
朽ちかけた浴槽には雨水がたまり、たくさんの長い髪の毛がべっとりと付いていた。
「ああ、おなかが空いた」
時子は力を使いすぎていた。
だからまた、食事が必要なのだ。
読んで下さり、どうもありがとうございました。
楽しんで頂けましたでしょうか?
この作品は主人公の動作を中心に読み返すと、伏線的な表現が見えるようになっています。例えば時子は財布を拾わず、門を開けず、扉も開けません。お暇があればお試し下さい。
また、8月20日の私の活動報告の欄に、この話の裏設定も書き込んでおきました。興味のある方はご覧下さい。
最後に、もしよければ、評価や感想を頂けると嬉しく思います。
気が向いたらよろしくお願いします。




