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凍て空

作者: 蘇芳 環

「よし、次、第三班」

 聴診器を手にした金髪碧眼の若い女性医師は、次々と診察していく。

 朝の兵役はここから始まる。整列した男たちは皆、上半身、裸で自分の順番が来るのを待っている。

 一人が出れば一人が医務室に入る、毎朝の変わらない健康診断の光景だ。

 真っ赤な口紅の女性医師の後ろに立つ布施軍医が号令をかけた。

「次」

 胸、背中、と軽く聴診器を当てて終わる。医師が「よし」と言えばおしまいの、単調で機械的な作業だった。

 山村稔は十六歳。

 小柄で色白で怠け者で、そして生意気な少年だった。

 順番が来て医務室に入った稔は、少し高揚していた。

 青い目の女性医師が聴診器を稔の胸に当て眉をしかめ、そして「一日待機」という命令を出すだろうことを期待していた。

 そうだろうとも。

 昨夜未明に駆り出された石炭降ろしの作業は酷かった。

 三時間、汗びっしょりになって、到着した貨物車からスコップで石炭を降ろし、トロッコに乗せたのは、「頼むぞ」と老兵に声を掛けられたからだ。

 彼は久々にサボらず必死になって石炭を降ろした。だが不運なことに、彼が貨車に乗り込み、石炭の上に乗って頑張り通したその日、最高の寒波が来たのだ。

 あまりにも冷え込んだ明け方の空気は稔に睡眠を取らせることなく、迎えた朝には、身体の不調と背中の痛みを覚えることとなったのだ。

 体温は摂氏三十七度三分。

 シベリアの凍った空気と、三百五十グラムの黒パンと水がすべてのこの抑留生活では、どんな屈強な者でも体力 は衰え、気力も萎える。

 実際、稔の仲間も次々と減っていっているのは確かなのだ。

 医師は、稔の期待どおり顔をしかめた。

 流れ作業が止まると、後ろに続く男たちにも不振感が広がる。稔は内心ほくそ笑んで、布施軍医の言葉を待った。

 ――よし、『一日待機』だ。

 表情を固まらせた医師は、聴診器を外して稔の胸に耳をつけると、彼女は深刻そうに何か小声でつぶやき、それからまた背中に耳を当て、そして後ろの布施軍医に合図をした。

「入室」

 布施軍医の言葉は稔の期待するものとは違っていた。

 軍医が彼を列から離すと、

「入室。荷物を持ってきなさい」

 と言った。

 入室とは入院のことだ。

 稔は呆然と軍医の言葉を聞き、首を傾げた。それから、同じく複雑な面持ちの仲間の顔を眺めた。

「次」

 稔は再び、流れ作業的な検診が続けられる中、やってきた衛生兵に連れられて医務室を出た。

 途中で兵室から自分の荷物を取って、病棟へと向かう。荷物などほとんどない。数枚の下着と着替え、そしてハーモニカ、それだけだ。


 昭和二十年、満州に配属されていた彼ら一六六六三部隊は、終戦とともにソ連兵によってシベリアに抑留された。

 彼らの収容されたイルクーツクと言う街はバイカル湖の傍にあり、九州出身の稔は、北海道以北のこの街の寒さに閉口した。

 そして収容所で待っていたのは過酷な強制労働だった。

 十六歳の彼は本来なら強制連行は許されず、帰国の途となるはずだった。実際彼の同級生たちは皆帰国している。しかし勉強嫌いの彼は自分の生年月日を西暦で顕す際、間違えてしまい、残される組みの中に入れられてしまったのだった。


 アパートや公衆トイレの掃除に行くと、凍って山のように積み上がった排泄物をスコップで叩き壊して除去しなければならない。冬になると睫も眉毛もカチカチに凍ってしまう。

 森林の伐採、石炭おろし、塩作り――。……厳しい労働ばかりだった。


 彼は病棟へ向かう途中、空を仰いでしみじみと朝日を見つめた。

 シベリアの空は透明で淡い。

 針葉樹林の新緑の背景としてどこまでも広がりを見せ、清らかで優雅で美しかった。

 どこからともなく歌声が聞こえてくる。そうだ、ロシア人は音楽が好きなんだと、稔はそのハーモニカを手に入れたときのことを思い出した。

 それは彼らがこの収容所に着いてすぐの頃、何か得意なものはあるかと尋ねられた稔が『ハーモニカ』と答え、気軽に手渡されたもので、「何か演奏しろ」と言われ、『もみじ』や『赤とんぼ』を吹いてみせると、ロシア兵たちは黙って頷き、そのまま稔にくれたものだった。

 後になって、あれは仕事の技術の中で得意とするものを尋ねたのだと分かり、恥ずかしい気持ちになった。

 彼は袋の上からハーモニカに触れた。

 そして水色の空を見つめ、抑留後に初めてゆったりとした気分で深呼吸をした稔は、故郷の朝を思って瞼を閉じた。


 夜明けとともに、母は畑に出て野菜を収穫する。

 汲み上げた井戸水でそれらを洗って干すと、母は朝ごはんを作り弁当の用意をして、そして父を工場へと送り出した。

 その後兄が起きて、学校の仕度をしながらコタツに潜り込む。最後に、家の中が漬物と味噌汁の匂いで一杯になったころ、稔は母に起こされるのだ。

「いつまで寝とるんかっ、こん、馬鹿タレが!」

 それでも稔は、登校中に帆柱山のてっぺんから現れる太陽にだけは挨拶をした。

「おはようございます。今日も一日ありがとうございます」

 口の中でモゴモゴ言って手を合わせると、何もかも許された気持ちになる。学校をサボって山で遊ぼうと、路面電車に無賃乗車しようと、映画館に忍び込もうと平気だった。

 近所の年上の少年たちに混ざって一緒にタバコを吸ってみたこともある。

 花尾山の緩やかな傾斜を、一人、侍気分で走り回ったり、小さな池の土手に座って自作自演の曲をハーモニカで吹いたりした。そして、見上げる空に響く鳥のさえずりが、彼に飛行機乗りになることを決意させた。

 少年飛行兵に志願したのはお国のためばかりじゃなかった。


 その夜、稔は発熱した。

 身体中の力が抜けて背中がズキズキ痛んだ。

 頭がぼうっとして咳が止まらず、寒くて熱かった。

 病棟の半数以上が肺炎で入室している。どこからも咳き込む声が続く。この中の何人が再び兵舎に戻ることが出来るだろうか。稔はそんなことをぼんやりと考えていた。

 朝になるとわずかに熱が引き、窓の外を眺めた。

 兵舎はプレハブで冷え込みが厳しく五百人以上が雑魚寝をしていたが、病棟だけはレンガ造りで暖房設備が整っていて窓もあった。

 食欲はなく、何も食べることは出来ない。

 次の夜、熱はもっと上がり、翌日にはほとんど下がらない状態となった。

 稔は朦朧として、幾度となく浅い眠りに就いた。何度も目が覚めてはすぐに意識は遠のいた。目を開けているだけでも疲れる。何も考えられなかった。

 ただ、検温と投薬のために訪れる医師の声だけは耳に入った。金髪碧眼のロシア女の声だ。ロシア語であるにも関わらず、不思議と意味はよく分かる。

「四十二度。悪い」

 女性医師は、後ろの布施軍医に話しかけている。

 魂が今にも抜け出てしまいそうだからこんな風によく分かるのか、彼には想像もつかない。そして三日後、女医師の指示が変わった。

「四十二度。明日の朝までに三十九度まで下がらなかったら、投薬を打ち切るように」

 布施軍医はしばらく返事をしなかった。

 彼は黙って稔の顔を見つめていたのだ。

 ――ああ、そうか。

 稔はすべて呑み込めた。

 ……今、たった今、自分の命は絶たれたのだと、そのときはっきりと確信した。


 それから,様々なことが稔の頭に浮かんでは消えた。

 いついつも怒鳴って叱る母の顔や、空腹のあまり、知らない家の畑にイモ泥棒に行ったり、年上の少年に命令されての残飯漁りや無銭飲食をしたことなど、次々と思い出した。大人の後ろにくっついて入る映画鑑賞など、無料で楽しめてスリルもあった。


 いったい何のための人生だったのだろう。

 たったの十六年で終わろうとしている。ほとほと神のご加護の薄い人間なのだと、彼は自らを憐れみた。

 彼には、いつも新しい服を買い与えられ、いつも小遣いを貰い、勉強机に向かう兄の姿があった。

 母は兄を可愛がっていた。

 端正な顔立ちで気の穏やかな一つ違いの兄は、自分が大切にされることを当たり前だと思っていた。

 どの家でも跡取りを大切にするのは普通で、稔の家が特別ではなかったにせよ、その理不尽さを腹立たしく思い、稔はグレていつも家にいなかった。父は忙しく働き、子どものことなど構っていられなかった。


 だが、それらももう終わるのだ。

 せめてお国のために死のうと、軍隊に入隊した自分だったが、まさか終戦後、シベリアで肺炎を起こして死のうとは思いも寄らないことだった。稔は、もう二度と目が覚めることのない日が近づいていることを悟ったのだ。

 

 だが、次の投薬の時間、熱にうなされる稔の前に衛生兵が持って来た薬は、それまで与えられてきた薬の量の二倍に増えていた。

 朝、昼、夕、そして夜半過ぎと、すべての薬が二倍になっている。

 稔にはその意味も理由もまったくわからないまま、ただ呆然となった。

 闇の中、稔の胸にどこからともなく声が響きわたる。

――生きろ! 稔。生きて故郷の土を踏め!

 ただ彼の脳裏に、彼を見つめる布施軍医の顔が浮かんでは消えるのだった。


 翌朝の検温で、稔は三十九度になっていた。

 奇跡的な回復だった。

 回診に来た女医師の後ろに立つ布施軍医は、表情も変えず黙ったままだった。厚化粧のロシア女はもう二度と『投薬を打ち切るように』とは言わなかった。


 やがて少しずつ回復した彼は、二か月後に退室することとなった。個室に移った者ではほとんど例の無いことだった。


 それから五十年が過ぎた。

 怒鳴り続けた母も、働き通しの父も、そして一生がり勉だった兄も、もういない。

 生意気だった少年は、白髪頭の爺となって、四人の孫の面倒をみている。孫たちの笑い声と、「おじいちゃん」と呼ばれる幸せを、だれよりも穏やかな気持ちで受け止めている。


 冬になると、時折彼は孫たちにせがまれハーモニカを吹く。

 透明で淡い凍て空に向かってハーモニカを吹く。


 今は遠いシベリアの大地が、それを聴いている気がした。


                               (了)



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