盲目の乞食
冷房が効きすぎた店内から外に出ると、熱帯夜のなんとも言えない暑さが一度に襲ってきた。
呆れるほどに眩しい太陽が昼の間中照りつけた日には、夜はそのけだるさを簡単に手放そうとしない。熱波は、芯まで冷え切った体にまるで油のようにまとわりつき、体の表面をゆっくりと流れる。初めはその温度差が心地よいが、戸外で労働を続けるうちに耐えがたい暑さとなってくる。
僕は現在学生で、生活費(主に遊ぶ為の金ほしさだが)のために、コンビニで深夜のバイトをしている。
仕事は基本的に退屈でつまらないものだが、普段出会えないような人、例えば終電に乗り過ごした酔っ払い、終電なぞお構いなしに徹夜で遊ぶ若者、夜の駅前が舞台のストリートミュージシャン、その他いろいろな「夜に家にいない人」に出会う事ができる。それが面白いといえば面白かった。
それらの人々には、少し興味は誘われる事はあっても、その熱はすぐに去っていった。その程度の人たちだった。
ただ一人、シゲさんを除いて。
彼と初めて出会ったのは、店の裏で余った弁当を処理している時だった。処理と言っても、賞味期限切れの弁当をまとめて燃えるゴミの袋に入れ、清掃車が通る所に出しておく、それだけの単なる肉体労働だ。誰にでもできる仕事だし、大した仕事じゃない。見ていて特に面白いものでもない。
そんな僕の仕事を、見慣れない浮浪者が見ていた。そういえば前にどこかで見た気もする……しかし浮浪者に知り合いはいないし、僕に浮浪者を見分ける技術はない。
ぼんやりと考えながら浮浪者のほうをチラチラ盗み見ていると、向こうから声をかけてきた。
「それ、捨てちまうのかい?」
「ええ、そうですよ。賞味期限切れちゃいましたから」
「もったいないよな」
そんな事、子供でも知っている。コンビニには、いや、コンビニに限らず食料を扱う店ではいつも大量の残飯が出る。
僕も初めはもったいないと思っていた、しかし何度も何度も溢れる残飯を見ているうちに、いつしかその気持ちは薄れていた。
(これは出るべくして出たものなんだ。僕がどうにかできるものじゃないんだ)
いつしかそんな責任を回避するような考えが僕の中に芽生えていた。だから、その男の言葉は、自分の心の汚さを、嫌な部分を見透かされたような気がして、僕を少しハッとさせた。
「捨てるんだったら、すまないけど少しくれないか?」
彼の次の言葉を聞いて、僕はなぜだかわからないけど、少し失望した。そして、(またか……)と思った。
こんな仕事柄、浮浪者にそういった言葉をかけられるのは慣れている。
「もし廃棄物をくれと言われた時は、強く断って追い返してください。絶対にあげてはいけません」
バイトの研修の時に、店長が最後に言った言葉が頭に浮かんだ。
(断ろう……)
そう思って相手を見た。しかし、彼は他の浮浪者とは何かが違った。
廃棄弁当を貰おうと言い寄ってくる浮浪者の態度なんて、だいたい同じだ。卑屈な、いやらしい笑いを浮かべる者、高圧的に怒ったように言って、断ると激しく反論する者……。反応はそれぞれ微妙に違うが、どれにも共通して言えるのは、「何らかの感情を剥き出しにしている」という点だった。
だが彼は、静かにこちらを見ていた。まるで僕じゃなくて後ろの風景を見ているように。無表情に、少し猫背気味にポケットに手を入れて。そこからは、何の感情も読み取れなかった。
一瞬、彼は浮浪者なんかじゃないような気がした。なんだか、普通の人と世間話をしているようだった。彼になら、あげてもいいような気がした。一人の人間として、彼にあげてもいいと思った。
「ちょっと崩れちゃってるけど、いいですか?」
そう言ってごみ袋を開け、弁当を選ばせた。
「ありがとう。恩に着るよ」
彼は無愛想にそう言い、さして大きくない弁当を一個とおにぎりを二つ選び、去っていった。
僕はその後ろ姿を少し見送り、ちょっとだけ深呼吸をして、また気の乗らない仕事に戻った。
そうしたシゲさんとの出会いは一回だけかと思ったが、それから数回そういう事があり、僕は、彼に会うのが楽しみになっていた。
僕以外の店員が廃棄弁当の処理をしている時は、彼は弁当をねだろうとはしなかったようだ。それは、なんだか嬉しかった。変な話、彼に信用されているような気がした。
そして、僕と彼の間に奇妙な友情が生まれた。
彼は静かな人で、言葉の節々から高い教養が感じられた。無口な人だったが、仲良くなるにつれてポツリ、ポツリと自分の事を話してくれた。
彼の本名は知らないが、この界隈ではもっぱらシゲさんで通っているようだ。他の浮浪者と群れたりする事はなく、大体一人で過ごしている。だから食事にありつける時が少ないそうだ。
一人で寂しくはないですか?と聞いたら、もう慣れたよ。と答えて口の端だけで少し笑った。
ある雨の日の事だ。僕はいつものように深夜の間、閉ざされた空間内でせっせと働き(それはハムスターが運動用の輪っかの中でひたすら走りつづけるのに似ている)、そして終了時刻を迎えた。
いつもは引継ぎやらなんやらで労働時間が終わった後もしばらく拘束されるのだが、その日は珍しく定時で終わった。しかし学校のテスト期間と重なっていたため、たとえ定時より早く帰れたとしても、いつもより疲れ果てていただろう。
労働の後の疲れた体をやっとの事で動かし、家に帰ってゆっくり休もうと外に出たら、雨は来た時よりも激しく降っていた。かなり強い雨だった。
バイト先の店までは自転車で通っていたので、これでは帰る事が出来ない。たとえ帰れたとしてもびしょ濡れになるのは覚悟しなければならない。
僕は途方にくれて空を見上げた。しかし、雨はやむ気配すらなかった。
そのまま軒下でぼうっと突っ立っていた。あまり動きたくなかった。
すると突然声をかけられた。
「帰らないのかい?」
驚いて見ると、シゲさんだった。
「帰りたいんですけど、この雨じゃね……」
そうだな、よく降るな。そう言って彼も空を見上げた。
そして二人はそのまましばらく立っていた。
しばらく経ったが雨はやはりやむ気配がなく、ずっと同じ調子で降り続いていた。心なしかさっきより強くなったようだった。
しかしいつまでもここにいてもしょうがなかった。
(しかたない、濡れながら帰るか。ほんの20分の辛抱だ……)
意を決して動こうとした時、また、声をかけられた。
「雨宿りしていくか?」
意外な言葉に驚いて彼を見ると、彼は少し恥ずかしそうに横を見ている。
「と、言っても汚い所だがな」
そう付け足してまたこちらを眺めた。いつものあの視線だ。
正直、遠慮したかった。汚く不衛生な浮浪者のねぐらより自宅の馴染み深い部屋のほうがいいに決まっている。だいいち、今日は本当に疲れているのだ。
しかし、なんだか断るのが悪いような気がした。それに彼が一体どんな所に住んでいるのかにも少し興味があった。僕はそれまでシゲさんがどこに住んでいるのかさえ知らなかったのだ。
僕は少し迷った後、彼について行く事にした。
彼の家は橋の下にあった。コンビニからは歩いて5分といったところか。ダンボールを中心にベニヤ板で補強し、ビニールシートを被せたその家は、想像していたものよりは幾分立派だった。
「まあ、入れよ。とりあえず雨はしのげる」
そう促され後に続いて中に入った。ちゃんと靴を置くスペースまであった。
三畳ほどの空間の壁際には毛布と服が雑然と積まれ、その他の家財道具は鍋が一つに欠けた食器が一そろい、後は雑誌などの本が山となっていた。
差し出された白湯を(僕は取っ手の取れたマグカップで、シゲさんはふちの欠けた茶碗で)飲みながら、しばらくとりとめのない話をした。もっとも、彼はもっぱら聞き役で、僕ばかりが喋っていた。バイトの事、学校の事、郷里の事……。
どれくらいの時間が経ったのだろう?しかし雨は一向にやむ気配がなく、そのうちに二人の間を沈黙が支配し始めた。
僕は、前々から聞きたかった事を思い切って口に出した。
「どうして、浮浪者なんかやってるんですか?」
返事は、なかった。水滴がビニールシートをうがつ音だけが響き、彼はいつもの目で、暗がりを見つめていた。
僕は、聞いてはいけない質問をしてしまったと思った。しかし、シゲさんから視線を離す事が出来なかった。
そして、かなり長い沈黙の後、彼がおもむろに口を開いた。しかしそれは、いつもの無口な彼からは想像も出来ないような長い話だった。
「昔、一人のホームレスがいた。名前は、仮にヨシさんとしておくよ。彼は一見普通のホームレスだ。いつもボロい服を着て配給のおにぎりやそこら辺の店から出るおこぼれを食って生きていた。
でも、ヤツには一つだけ他人と決定的に違う所がある。ヤツは目が見えなかったんだよ。
生まれつきなのか、見えないと言ってもどれくらい見えなかったのか、なんて事は知らない。昔は見えていたのか、今ではボンヤリとは見えるのか、それとも昔から全くの暗闇の中で生きていたのか、そんな事は一切分からなかった。
とにかく、ヤツは目が見えなかったんだ」
「目が見えないというのははっきり言って、人が生きていく上でハンデにしかならない。いや、一個の生物として見るとさらに悪いだろう。
目が見えない動物は餌が取れない。生きていく事は不可能に近い。だから動物の世界では目の見えなくなったヤツは死ぬしかない。
でも、この人間社会では生きていける。ボランティアだとか博愛精神だとかいう助け合いの心が存在する世界だから、目が見えない人でも何とか生きていける。
いわば、他人に助けてもらってどうにか生きている状態だ。自分自身の力では生きていけない、他に助けてくれる人がいてこそ、かろうじて生きていける」
そこでシゲさんは言葉を切って、すっかり冷めた白湯を少し啜った。そして僕のほうをまっすぐ見つめて問いただした。
「オレたちみたいな浮浪者の事、どう思う?」
今度は僕が沈黙する番だった。本音を言えば、浮浪者なんていないほうがいいが、それはシゲさん自身を否定する事になる。僕は返答に窮した。
僕の口から答えが出ないのを悟って、シゲさんはまた視線を外した。
「浮浪者っていうのは寄生虫のようなものだ。自分だけの力で生きていけないから、社会のおこぼれをもらって何とか食い繋いでいる。ジンベイザメの食い残しをもらうコバンザメみたいに、社会が消費しきれなかった食い物やら服やらをもらって生きているんだ。
そう考えると、ヨシさんは二重の意味で人に依存してるって事になるな。目が見えない点と、浮浪者である点。でもしょうがないんだ。そうしなきゃ生きていけないんだから」
「それでもヨシさんはみんなに好かれていた。みんなに、という言い方は少し語弊があるな。あんたらのような普通の人々に、だ。
同じ浮浪者の連中からはなんとも思われていなかったみたいだな。実際、奴らは自分が食うのに精一杯で、人をかまう余裕なんてないから。
日本ではどうだか知らないが、アメリカあたりじゃ、人気者の浮浪者、いや、英語だからホームレスか、がいるらしい。毎朝ホットドッグをおごってもらったり、着る物をもらったり。ヨシさんも、ちょうどそんな感じだったな。
実際、人気者だったよ。目が見えないって事実が、ボランティア精神を掻き立てるんだろう。昨日は近所のおばさんが晩飯のあまりを分けてくれた。今日はいつも通りすがるサラリーマンが、朝飯のサンドイッチを分けてくれた。そういう具合だ。
ヨシさんがいつからそこに居ついたのかは知らないが、程なくして、ごみ箱を漁っても食う物に困る、という生活とは無縁になったってのは簡単に想像できるだろう。当然、他のホームレスとの付き合いもさらに疎遠になっていった」
「しかしな……」
そう言って彼は再び沈黙した。まるで次の事を話すか話さざるかを考えているように。僕は辛抱強く沈黙に耐えた。雨の音だけが規則正しく鳴っていた。
「しかし、ちょっとした事が起こった」
「当時、ヨシさんと仲良く付き合っていた、一組の家族がいた。その日は犬の散歩かなんかの途中で、父親と子供が、ヨシさんの所に出向いていた。
何でそんなにヨシさんの事を構っていたのかは分からない。あいつらにとっちゃ、ホームレスも野良犬も大差ないのかもしれないな。犬と同じでちょっとしたペットを飼っている気分で、ヨシさんと接していたんだろう。よくある話さ。
子供は、小さなお嬢ちゃんだった。なかなかかわいい子でね。この子はヨシさんにひどくなついていてな。よく一人で遊びに来ていたほどだ。
ヨシさんは、あれでなかなか教養のあるほうだったから、結構いろんな分野の物事に精通していた。だから、話すぶんには相手も退屈しなかっただろう。しばらくとりとめのない世間話が続いて、その間、お嬢ちゃんはほったらかしになっていた。
その時、一台のトラックが結構なスピードで走ってきた。話に夢中になっていた二人は気づかなかった。一人で遊んでいるお嬢ちゃんが、気づくはずはなかった。
そうして走ってきたトラックが、近くを通りかかった時、お嬢ちゃんが道に飛び出しちまった。
『危ない!』
そう言って、ヨシさんは、お嬢ちゃんに飛びつき、横倒しに抱え込んだ。
間一髪だった。お嬢ちゃんは、ショックで泣き出したものの、擦り傷をいくつかこさえたぐらいで、大したケガはなかった。
トラックは、そのまま行っちまった。父親は、感激して、ヨシさんに何度も頭を下げたものさ」
「ここまではいい話だ。その日はそれで終わった。何の問題もなかった。
しかし、しばらくして、父親のほうに疑問が芽生えた。(なんでヨシさんはトラックが近づいている事が分かったんだろう?)って。
そのちょっとした疑問は、時間が経つにつれて大きな疑念に変わっていった。(もしかして、ヨシさんは目が見えているんじゃないか?)ってな。
悩んだ父親は、その事を近所の人に話した。人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、その噂が広がるのにさして時間はかからなかったよ。
そうしてみるとどうだ、今まであれほどヨシさんを可愛がっていた街の人たちが、手のひらを返したようによそよそしくなった。博愛精神を満足させるものがなくなったんだろうな。それは、見ていてあんまり気持ちのいいもんじゃなかったよ。
ヨシさんは落ち込んだ。哀れなほど落ち込んだ。一人じゃ飯も満足に取れないし、今まで優しかった街の人は冷たくなる一方だ。
そうしてしばらく経ったある日、ヨシさんは街からいなくなっちまったよ。荷物は全部そのままで、風みたいにいなくなっちまった」
いつの間にか雨はあがったようだった。夜のような静寂の中で、僕は、シゲさんに尋ねた。
「ヨシさんは、本当は目が見えていたんですか?」
そこでシゲさんは、そこに僕がいるのに今気づいたように、ちょっと驚いた表情で僕を見やり、そして、少し考えた後、口を開いた。
「今思えば、ヨシさんは本当に目が見えなかったんだと思うぜ。あの道は、毎日同じ時間に決まったようにトラックが通るんだ。
それに、ヨシさんは目が見えない代わりに耳がかなり良かった。トラックの響きとお嬢ちゃんの騒ぐ声で、両者の位置ぐらい把握できたはずさ。
でも真実は誰にもわからない。確かなのは、その事があってから街の奴等のヨシさんに対する態度が豹変した事、そして、ヨシさんがいなくなった事さ」
「ヨシさんがいなくなって、さすがに街の奴等には罪悪感てのが芽生えたんだろう。なんだか、それからしばらくの時期は、ヨシさんを探そうとしていたよ。
でも、彼は見つからなかった。本当に、神隠しにでも遭ったように、プイと消え去っちまったのさ」
シゲさんはため息とも取れるような吐息をついて、シケモクを取り出して火を点けた。僕は煙草を持っていたが、なんだか吸う気にはなれなかった。
「ヨシさんは……、まさか、死んじゃったんですか?」
「それはないと思うぜ。そこまでの覚悟はないと思う。
それに、死んだら街の人に迷惑をかけるだろ?ヨシさんは、浮浪者がこう言うのもなんだが、あんまり人に迷惑をかけるのが好きじゃなかったからな」
その後は、またしばらく沈黙が続いた。なんだか、僕が「街の代表」みたいな感じで、「浮浪者代表」であるシゲさんに責められている気がした。
「長話しちゃったな。さあ、雨もあがったみたいだ。もう帰りな」
シケモクを吸い終わったシゲさんに促されて、僕はシゲさんの住居を後にした。
雨上がりの太陽は、弱々しく輝いていた。その中を、僕はぼうっとしながら、自転車をこいだ。自動車が水たまりの水をはね、僕のズボンにかかったが、それすら気にかからないほどぼうっとしていた。
それからしばらくは、学校のテストやらなんやらで、忙しい日々が続いた。バイトも休みがちになり、シゲさんと出会う事もなくなった。
僕はひたすら目の前の事を片付けた。片付けても片付けても次から次へとすべき事は増えていった。それはまるで掃除をしてもいつの間にか溜まっているホコリのようだった。僕は黙々と与えられた仕事をした。次から次へと溜まっていくホコリを、根気良く掃除していった。
それが、僕にできる精一杯だったし、動いている間はヨシさんの話を忘れる事が出来た。それだけが利点だった。実際、ヨシさんの話は、それに対する「街の代表」としての僕の義務は、頭の奥のほうでずっとくすぶっていた。
そうしているうちに、なんとか全てが終わり、学校は休みに入った。あまりに忙しい毎日を過ごして、そしていきなり暇になったために、僕はうまく生活のバランスを取り戻す事が出来なかった。頭の中でくすぶっていたヨシさんの話は、いつの間にかとても小さい存在になっていた。でも、相変わらず気になっていた事は確かだ。
そうしてしばらく経つうちに、僕はなんとか自分のリズムを取り戻し、随分久しぶりにゆったりとした休日を迎えた。そうすると、今まで忘れていたヨシさんの話が頭の中に蘇ってきた。
ある日の午後、ひさしぶりにシゲさんに会いたくなって、そしてもっと話を聞きたくなって、僕はガード下の住まいまで出かけて行った。本当は、シゲさんの問いに対するなんらかの答えを用意していたほうがよかったのだろうが、僕の頭の中はまだ少し混乱していて、満足な回答を準備する事は出来ていなかった。
でも、僕はシゲさんにもう一度会いたかった。いつかと同じような曇った太陽があたりを照らしていた。
シゲさんの家は、確かに昔と同じ位置にあった。でも、あったのは家だけだった。家の主はいなかった。
外出中かと思ったが、そこには生活感がなかった。毛布や食器はあったけど、最近使われた様子が全然なかった。まるで恐竜の骨格標本みたいに、がらんどうだった。
シゲさんは、いなくなったんだ。
誰に聞いたわけでもないが、僕はそう確信した。同時に、僕のなすべき義務も、その価値を失い、僕はほっとしたような、拍子抜けしたような、複雑な気持ちになった。
(もう、会う事はないんだろうな)
そう思った。
それは、漠然とした思いだったが、心の底でははっきりと確信していた。
太陽が雲を裂いて、光がかつてシゲさんの住んでいた住居を照らした。僕は、その柔らかい光の中で、今は主のいない家をゆっくりと後にした。