「最初の鐘は、私たちの婚礼で」と約束した鐘を、私は君と彼の婚礼で鳴らした
鐘は、嘘をつかない。
師匠は、それを口癖にしていた。
「いいか、エーヴァルト。青銅は、鋳た者の心をそのまま覚える。焦って流せば、焦った音で鳴る。迷って流せば、迷った音で鳴る。鐘は、百年、二百年と、同じ音で鳴りつづける。だから、炉の前では嘘をつくな」
師匠が死んで、私が工房を継いで五年目の冬、ヴァルデンの大聖堂から注文が来た。
古い大鐘にひびが入った。新しい鐘を鋳てほしい。町でいちばん大きな、人の背丈の倍もある鐘を。
三年はかかる仕事だった。
その夜、私は粉屋の娘のイルゼに、その話をした。
水車小屋の裏の、川べりの石垣に並んで座っていた。イルゼは、指先についた粉を払いながら、私の顔を見上げた。
「鐘の最初の一打は、鋳た人が打つのよね」
「この町の決まりだ」
「じゃあ」
イルゼは、少しだけ頬を赤くして言った。
「最初の鐘は、私たちの婚礼で鳴らしましょう」
私は、うなずいた。三年後、鐘が吊られる日に、大聖堂で式を挙げる。最初の一打を、私が打つ。その音を聞きながら、イルゼと誓いを交わす。
それが、私の三年間のすべてになった。
* * *
鐘を鋳るのは、根気のいる仕事だ。
まず、粘土で鐘の内型を作る。その上に、蝋で鐘の形を盛り、模様と銘文を刻む。それを外型の粘土で包み、乾かし、焼いて蝋を流し出す。残った隙間に、溶けた青銅を流しこむ。
一年目は、土を練り、型を組むことに費やした。
二年目は、蝋の上に模様を刻んだ。大聖堂の守護聖人の姿。葡萄の蔓。領主ブラント伯爵家の紋章。
そして、誰にも見えない場所に、もう一つだけ刻んだ。
鐘の内側の、口縁のすぐ上。吊られれば、誰の目にも触れない場所だ。
――最初の一打を、イルゼとの婚礼に。
師匠が知ったら、叱っただろう。鐘は聖堂のもので、鋳鐘師のものではない。けれど、どうしても刻みたかった。百年先も、二百年先も、この鐘が鳴るたびに、その一行も一緒に鳴る。そう思うだけで、炉の熱さも忘れられた。
イルゼは、最初のうち、よく工房に来た。
焼きたての黒パンと、川で冷やした林檎酒を籠に入れて。粘土で汚れた私の手を見て、笑った。
「エーヴァルトの手、いつも泥だらけね」
「鐘ができるまでは、仕方ない」
「知ってる。待ってるわ」
二年目の冬あたりから、イルゼが工房に来る日は、少しずつ減っていった。
私は、それを、粉屋の仕事が忙しいのだと思っていた。イルゼの父親は、水車の修理で借金を抱えていた。冬は粉の値が下がる。きっと、無理をしているのだろう。
大聖堂から受け取った前金は、すべて良質な銅と錫の地金に消えていた。私の手元の蓄えも、少しずつ炉の薪と型土に変わっていった。イルゼとの婚礼で鳴らす鐘だ。少しの妥協もしたくなかった。
鐘が無事に吊られれば、まとまった完済金が入る。そうすれば、水車の借金くらい返してやれる。楽をさせてやれる。
そう思って、私は、ますます炉の前から離れなくなった。
* * *
三年目の春、領主の嫡男ルーカス様が、王都の学院から帰ってきた。
町じゅうが、その話でもちきりだった。金色の髪に、王都仕立ての外套。馬に乗って通りを行くと、娘たちが窓から身を乗り出した。
伯爵家の城は、イルゼの家の粉を買っている。イルゼは、週に二度、城へ粉を届けに行く。
そのころから、イルゼは、髪に新しいリボンを結ぶようになった。
青い絹のリボンだった。粉屋の娘が買えるような品ではない。
「それ、どうしたんだ」
「城の侍女頭さんに、もらったの。余り布だって」
イルゼは、そう言って笑った。
私は、信じた。
信じたかったのだと、今なら分かる。
* * *
鋳込みの前の晩だった。
外型は焼き上がり、炉には青銅が仕込んであった。明日の夜明けに火を入れ、昼までに流しこむ。三年間の仕事が、明日、一日で決まる。
私は、どうしてもイルゼに会いたくなった。
明日が鋳込みだと、伝えたかった。それから、鐘の内側に刻んだ一行のことを、話してしまいたかった。鐘が吊られたら、もう見せられないから。
夜更けに、水車小屋へ向かった。
川べりの道を曲がったところで、私は足を止めた。
水車小屋の脇の柵に、馬が一頭、つながれていた。
月の光に、白い毛並みが浮かんでいた。鞍には、ブラント伯爵家の紋章が打ってあった。私が蝋の上に刻んだのと、同じ紋章だった。
小屋の二階の窓に、灯りがついていた。
カーテンの向こうで、二つの影が動いて、一つになった。
私は、そこに、どれくらい立っていたのか分からない。
気がつくと、東の空が白みはじめていた。
小屋の戸が開いて、イルゼが出てきた。馬の手綱を解こうとして、それから、道の上に立っている私に気づいた。
イルゼは、動かなかった。
髪に、青い絹のリボンが結んであった。
* * *
イルゼは、言い訳をしなかった。
「あなたは、鐘ばかり見ていた」
川べりの石垣の前で、イルゼは、私の目を見ずに言った。
「三年間、ずっと。私が来ても、あなたは炉の火を見てた。手は泥だらけで、話しかけても、半分しか聞いてなかった。……待ってるって言ったのは、私よ。分かってる。でも、待ってるあいだ、私は一人だった」
「鐘ができたら」
「鐘ができたら、なに?」
イルゼは、初めて私の顔を見た。泣いてはいなかった。泣くのは、もう、終わったあとの顔だった。
「水車の借金は、去年の秋に、利息だけで倍になったの。父さんは、粉屋を手放すところだった。……ルーカス様が、全部払ってくださったわ」
私は、何も言えなかった。
去年の秋。私が工房にこもり、誰からの声も聞こえないほど、蝋の上に葡萄の蔓を刻むことに没頭していたころだ。
「それに」
イルゼは、自分の腹に、そっと手を当てた。
「もう、戻れないの」
川の音が、やけに大きく聞こえた。
「夏に、式を挙げるわ。大聖堂で。新しい鐘が吊られる日に」
イルゼは、そこで、少しだけ唇を震わせた。
「……最初の鐘は、あなたが打つのよね。決まりだから」
「ああ」
「ごめんなさい」
イルゼは、それだけ言って、水車小屋のほうへ帰っていった。
一度も、振り返らなかった。
* * *
夜明けに、炉に火を入れた。
青銅が溶けるのを待つあいだ、私は、炉の前に座って、溶けていく金属を見ていた。
鐘を割る方法は、知っていた。
錫を、ほんの少し多く入れればいい。それだけで、青銅は脆くなる。見た目には分からない。吊られて、何度か打たれたあとで、ある日、ひびが入る。
たとえば、最初の一打で。
婚礼の朝、花嫁と花婿が聖堂の扉をくぐった瞬間に、鐘が割れる。町じゅうが、それを凶兆だと言うだろう。
私は、錫の塊を、手に取った。
重かった。
――鐘は、嘘をつかない。
師匠の声が、炉の音の奥から聞こえた。
――鐘は、百年、二百年と、同じ音で鳴りつづける。だから、炉の前では嘘をつくな。
私は、錫の塊を、棚に戻した。
割れた鐘の音を、百年、町の人に聞かせるわけにはいかない。それに、もしここで憎しみを混ぜてしまえば、私が三年間、イルゼを想って過ごした日々まで嘘になる気がした。
せめて、この鐘の中だけでは、あの夜の約束を汚したくなかった。
私は、目を閉じて、川べりの石垣で笑っていたイルゼの顔だけを思い浮かべた。彼女の幸せだけを祈った。それが、鋳鐘師である私の、たった一つの意地だった。
昼前に、青銅を流しこんだ。
赤く光る金属が、型の中へ、ゆっくりと吸いこまれていった。三年分の土と、蝋と、刻んだ模様の中へ。
内側の、あの一行の中へも。
型を壊して作り直す時間は、もう、なかった。鐘が吊られれば、誰にも見えない。私が黙っていれば、それでいい。
私は、鐘が冷えるのを、三日三晩、炉の前で待った。
* * *
夏至の朝、鐘は大聖堂の塔に吊られた。
町じゅうの人が、聖堂前の広場に集まった。新しい鐘と、領主家の婚礼。二つの祝い事が、同じ日に重なった。
私は、塔の螺旋階段を、一人で上った。
鐘楼の床板の上に立つと、鐘は、私の頭の上で、静かに吊られていた。夏の光が、青銅の肌に鈍く映っていた。
下の広場から、ざわめきが上がった。
聖堂の扉の前に、花嫁が立っていた。白い衣装に、長いヴェール。隣に、金色の髪の花婿。
花嫁が、塔を見上げた。
この高さから、表情までは見えなかった。けれど、イルゼが、こちらを見ていることだけは分かった。
私は、撞木の綱を握った。
――最初の鐘は、私たちの婚礼で鳴らしましょう。
綱を、引いた。
鐘が、鳴った。
深く、澄んだ音だった。塔の石が震え、床板が震え、私の胸の骨が震えた。音は、広場を越え、町の屋根を越え、山の向こうまで渡っていった。
広場で、誰かが泣き出した。それが、少しずつ広がっていった。こんなに美しい鐘の音は、聞いたことがない。あとで、町の人たちは、口々にそう言った。
鐘は、嘘をつかなかった。
一点の濁りもない、ただ彼女を愛していた私の心そのままの音で、残酷なほど美しく鳴り響いた。
私は、二打目を打った。三打目を打った。花嫁と花婿が、聖堂の扉の中へ消えるまで、打ちつづけた。
鐘の内側で、誰にも見えない一行が、そのたびに震えていた。
* * *
婚礼のあと、私は工房を一番弟子に譲り、大聖堂の鐘撞きになった。
鋳た者がいちばん鐘の癖を知っているからと請われたのだが、何より私自身が、もう二度と炉に火を入れる気になれなかったのだ。
私は、塔の下の小さな部屋に住み、毎朝、毎夕、鐘を撞いた。
秋に、イルゼが子を産んだと聞いた。男の子だった。洗礼の日、私は鐘を撞いた。
冬が来るころ、町には、別の噂が流れはじめた。
ルーカス様は、王都から連れてきた歌い手の女のもとに、毎晩のように通っている。粉屋の娘だった奥方は、城の暮らしに馴染めず、ほとんど部屋から出てこない。たまに姿を見せると、ひどく痩せている。
私は、その噂を、聞かなかったことにした。
鐘を撞いた。朝も、夕も。
* * *
その冬いちばんの寒い夜だった。
塔の階段を、誰かが上ってくる足音がした。
鐘楼に、灯りを手にした女が立った。外套の頭巾を下ろすと、イルゼだった。
頬がこけて、目の下が暗かった。髪には、もう、青いリボンは結んでいなかった。
「エーヴァルト」
イルゼは、鐘の下に立って、私を見た。
「連れて、逃げて」
声が、かすれていた。
「あの人は、私のことなんか見てない。子どものことも。……城にいると、息ができないの。どこでもいい。あなたとなら、どこでも」
私は、鐘を見上げた。
夏至の朝、この鐘を、私は撞いた。彼女の婚礼のために。
三年間の炉の熱さが、まだ、手のひらに残っていた。あの夜、水車小屋の窓に見た二つの影が、まだ、目の奥に残っていた。
「イルゼ」
私は、自分の声が、ひどく冷たいことに気づいた。気づいて、止めなかった。
「鐘は、もう、鳴らした」
イルゼが、息を止めた。
「君が選んだんだ。……最初の一打は、もう、戻らない」
長い沈黙があった。
鐘楼の窓から、雪まじりの風が吹きこんで、灯りの炎を揺らした。
やがて、イルゼは、小さく笑った。
「そうね」
泣き笑いのような顔だった。昔、川べりの石垣で、粉のついた指で頬をこすったときと、同じ顔だった。
「あなたは、ちゃんと鳴らしてくれた。……きれいな音だったわ。広場で、私、泣いちゃった」
イルゼは、頭巾をかぶりなおした。
「ごめんなさい。それから、ありがとう」
それだけ言って、イルゼは、階段を下りていった。
灯りが、螺旋の向こうに、少しずつ小さくなっていった。
私は、追わなかった。
追えば、何かが変わったのかもしれない。三年前の夜のように、何も言えずに、ただ、そこに立っていた。
* * *
翌朝、塔の下の石段で、イルゼが見つかった。
凍った段で、足を滑らせたのだろうと、町の人は言った。夜の雪で、石段は鏡のようになっていた。どうして城の奥方が、あんな夜更けに大聖堂の塔へ来たのか、誰にも分からなかった。
私だけが、知っていた。
三日後、葬儀があった。
大聖堂の司祭が、私の部屋の戸を叩いた。
「エーヴァルト。弔いの鐘を、頼む」
私は、塔の階段を上った。
イルゼが最後に下りていった、その階段を。一段ずつ。
鐘楼に立つと、鐘は、いつものように、静かに吊られていた。
私は、撞木の綱を握った。
最初の一打は、彼女の婚礼で鳴らした。
二度目に、彼女のために撞く鐘は、弔いの鐘だった。
綱を引いた。
鐘が、鳴った。
夏至の朝と、まったく同じ音だった。深く、澄んで、美しかった。
鐘は、嘘をつかない。鋳た者の心を、そのまま鳴らす。
あの日、私が炉の前で何を思っていたのか。この鐘は、ちゃんと覚えていた。
* * *
それから、四十年が過ぎた。
私は、今も、塔の下の部屋に住んでいる。朝と夕に、鐘を撞く。腕は細くなったが、綱の引き方は、体が覚えている。
イルゼが死んだ翌年、ルーカス様は王都の貴族の娘を新しい奥方に迎えた。夜更けの塔で死んだ粉屋の娘の名は、伯爵家の不名誉として記録から消され、残された息子も、新しい奥方を実の母として育てられた。
そのルーカス様も、十年前に亡くなった。伯爵家は、イルゼの産んだ息子が継いだ。その息子の婚礼でも、その息子の子の洗礼でも、私は鐘を撞いた。
去年の秋、鐘を一度、塔から下ろした。
吊り金具が古くなって、取り替えることになったのだ。四十年ぶりに、鐘は、聖堂の床の上に置かれた。
私の工房を継いだ弟子が連れてきた、若い見習いが、鐘の内側を灯りで照らして声を上げた。
「大親方。内側に、何か刻んであります」
見習いは、口縁の上の、その一行を、声に出して読んだ。
「――最初の一打を、イルゼとの婚礼に」
聖堂の中が、しんと静まった。
見習いは、首をかしげて、私を見た。
「イルゼって、誰ですか。この鐘の最初の一打は、先代の伯爵様の婚礼で、大親方が撞いたって聞きましたけど」
私は、答えなかった。
答えられる言葉が、四十年経っても、どこにもなかった。
鐘は、新しい金具で、もう一度塔に吊られた。
私は今日も、夕暮れに、塔の階段を上る。一段ずつ。凍っていない日でも、手すりを握って。
綱を引く。
鐘が鳴る。
あの一行が、誰にも見えない場所で、今日も震えている。
この鐘は、百年、二百年と、同じ音で鳴りつづける。
私が死んだあとも。
誰も、イルゼの名を知らなくなったあとも。
(了)
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