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――九年前。
電気の通っていないアパートの中は薄暗く、外からの明かりが届かない奥まったキッチンの隅は、更に濃い闇に覆われていた。
先ほどから飽きもせずにザアザアと激しく降り続ける雨が、今も古びたアパートの粗末な窓を叩いている。
そんな雨の音と競い合うように、暗いキッチンの中には、脂を敷いたフライパンの中身を一心不乱に掻き回すジェビンの姿があった。フライパンの中で奏でられる、雨の音そっくりな脂の音を聞いている間だけは、憂鬱な雨そのものを振り払える気がして、ジェビンの腕には、ますます力が入っていく。
季節は晩秋の頃だというのに、捲くり上げた黒い長袖のTシャツはグッショリと濡れ、白銀に近い金色の髪も、汗で額に張り付いていた。
ポタリ――
ジェビンの高い鼻筋から一粒の汗が滴り落ちるのと同時に火が止められ、自棄になったように掻き回されていたフライパンの中身が落ち着いた。
荒い息を吐いて、お玉を持ったジェビンの腕がダラリと垂れ下がる。
火の音が止んだ途端に、外から響く憂鬱な水音がジェビンの耳を浸食し始め、料理中は忘れていた左足の傷が、ズクンズクンッと脈を打って疼き出す。
「……また、作り過ぎちまった」
苦々しげに呟いて額の汗を拭うと、ジェビンは躊躇することなく、まだ湯気を立てている出来たてのチャプチェを、フライパンごとダッシュボックスの中に捨てた。
ズクンッズクンッ……
左足の痛みが増してくる。
痛みに呼応するように、胸のムカつきが自身の空腹を訴える。だが、作りたてのチャプチェは、既にダッシュボックスの中だった。
ジェビンは痛みと胃の不快感を振り切るように、無造作にキッチン台の端に転がっていた缶詰の一つに手を伸ばすと、ジーンズのポケットからナイフを取り出した。
台に置いた缶詰に、そのままナイフを力いっぱい突き立てる。
ブシュッと音がして、缶詰の蓋に穴が開いた。刃こぼれを気にしそうなところだが、使い込んだナイフは元々刃がボロボロで、今更多少欠けたところで大差なかった。
ギッ、ギッと金属が擦れる耳障りな音を立てて、ジェビンは缶詰の傷を広げていく。
丁度いい具合まで穴を広げたところで、開いた穴に刃を差し込んで、梃子の原理で蓋を開いた。
そのままナイフの腹で缶詰の肉を掬って、口に運ぶ。形の良い唇から肉の油が零れて、暗闇の中でヌラヌラと光る。ジェビンは手の甲でそれを拭い去ると、赤い舌で唇を舐めた。
空腹を満たしても、足の傷の疼きは収まらない。
ジェビンはナイフを手にしたまま立ち上がると、窓に向かって歩き出した。飽きることなく降り続ける雨を恨めしげに横目で睨みつけながら、ジェビンは窓の横の壁に貼り付けた、一枚の写真の前に立つ。
それはもう、写真と呼べる代物ではなかった。
首から下の広い肩幅で、その写真に写る人物が男であるということが辛うじて分かるが、首の上に乗った顔は、無数のナイフの傷で覆われ、もはやそれが本当に人の顔であったかどうかの判別も難しかった。
ジェビンは手にしたナイフの先を、その写真の人物の、かつては目があったと思われる場所に突き立てる。
ギギーッ
写真を貼り付けた壁もろとも、新たな傷を刻み付ける。
ギギーッ
ギッ、ギッ……
静かに、写真と壁を抉る音だけが、狭い部屋の中で響き渡る。
ガリッ
最後に爪で引っかくと、ジェビンは一瞬の鋭い痛みに顔をしかめた。
指先から血が滲み、唇を寄せると鉄の味がした。
ジェビンは刃の欠けたボロボロのナイフをジーンズのポケットに捻じ込むと、壁に掛けてあった革のジャケットを引っ掛けて、玄関へ向かった。
途中、閉め切られた部屋の前で立ち止まり、そこへ頬を寄せてドアの向こうに向かって小さな声で囁く。
「……兄貴は、出かけてくるよ」
ドアの向こうから返事はないが、ジェビンは確かめるようにドアを手のひらでそっと撫でると、身を翻してアパートを後にした。
両手をジャケットの中に突っ込んで、背中を丸めて雨の中を歩く。
ナァ――ナァ――
不意に、尾を引く、甘く媚びるような哀切な泣き声が路地裏から聞こえてきた。一瞬、赤ん坊の泣き声と間違えそうになるが、よく聞いてみれば子猫の鳴き声だと分かる。
そう言えば、昨日の夜からアパートの外でしきりに鳴いてジェビンの安眠を妨害していた。
ジェビンはジャケットの襟を立て直し、鳴き声から耳を塞ぐようにその場を立ち去った。