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「……ビ……ナビ?」
何度も呼ばれて、ハッと顔を上げる。目の前には、心配そうな顔で覗き込んでいるジェビンの顔があった。
「大丈夫か?」
「あ……うん、ごめん。ボーッとして」
ナビは慌てて、手にしていた皿拭きを再開した。
「具合良くないなら、無理するな。店の方は気にしなくていいから」
「本当に大丈夫だよ。心配かけてごめん、ジェビニヒョン」
夢と現の間をさ迷った三日間の後、ナビはジェビンやオーサーが止めるのを振り切り、店に出るようになった。
身体を動かして何かしていたほうが良かった。そうでないと、すぐに思考は流れてほしくないところへと流れていってしまう。
カウンターのいつもの特等席にはオーサーが居座り、夜が更けると同時に強くなってきた雨脚に合わせて、店を埋める客の数も増えてきた。
その時、ドアベルの音が鳴り響き店のドアが開いた。
「あれ? どうしたの?」
戸口のところに今日もびしょ濡れで立ち尽くす長身の男二人を見て、ジェビンが声をあげた。
「また事件?」
「違うっ!」
チョルスはそう叫ぶと、濡れた身体のままズカズカと店内に入ってきて、ジェビンの前のカウンター席にドカリと腰を下ろした。
「今日は客として来たんだ。いいな? 客・と・し・て・だ。働かないぞ! 今日は食うだけっ!」
ナビとミンホが明慶大学へ潜入している間、『ペニーレイン』を手伝わされたことで余程懲りたのか、チョルスは人差し指をジェビンの鼻先に向けて、そう宣言した。
「ここのキムチチゲが忘れられなかったんだそうです」
「余計なこと言うなっ!」
横から口を出すミンホに、チョルスが顔を真っ赤にして怒る。
「それでわざわざ探したの? ご苦労様だね。素直に言ってくれたら、警察署まで出前したって良かったのに」
ジェビンはそう言って笑いながら、チゲの用意をするために奥へと消えた。
ミンホは、カウンターの隅でボーッとしたまま皿を拭くナビを横目で見つめた。自分たちが来たことにも気付いていないのか、ナビは焦点の合っていない目で床を見つめながら皿を拭いていた。
ミンホが座る席からナビまでの距離は少し離れていたため、ミンホは思い切って席を立ち、ナビの目の前のカウンター席に腰を下ろした。
「……何で、返事くれないんですか?」
恨めしげに呟いた言葉で、ようやくナビが顔を上げた。
「あ……れ? お前、何で……ここに?」
「さっきからいましたよ。チョルスヒョンと二人で、今日はお客として来たんです」
「……そっか」
ナビは手にしていた皿と布巾をカウンターの上に置いた。
「……ねぇ。答えてください。何で、返事くれないんですか?」
ミンホが痺れを切らせてもう一度言うと、ナビは怪訝な顔をした。
「え?」
「メールしたでしょ」
ミンホの言葉にも、ナビはキョトンとするばかりだった。
「何のこと?」
「何のこと? じゃないですよ。あの後、別れてすぐに。どうせあなたからはしてくれないと思ったから、僕からメールしたんじゃないですか」
「来てないよ」
「送信履歴に残ってます!」
証拠を突きつけるように、ミンホは尻ポケットから出した携帯をナビの目の前で開く。ナビは画面を覗き込みながら首を傾げる。
「だって……本当だもん。僕、メールなんかもらってないよ……」
ナビも慌ててポケットから携帯を取り出そうとして、動きを止めた。
「……ない」
「え?」
「……落とした」
「はぁっ?!」
途端に慌てだすナビに、ミンホは言った。
「いつからですか?」
「多分……お前と別れて、すぐ」
「じゃあ、五日も?!」
ミンホは目を見開いた。
「あなた本当に、このインターネット大国の人間ですか? 携帯無しで何日も……しかも、落としたことにも気付かないなんて」
「ちょっと、待って……あれ、どこで?」
その時、思いを巡らせていたナビの顔から一瞬で血の気が引いた。
「ヒョン? どうしたんですか?」
尋常でないナビの顔色に気付いたミンホも、ナビを見上げる。
「ヒョン?!」
立ち上がり、ナビの肩を掴もうとしたミンホの目の前で、横から現れた腕が、ナビを強く抱きしめてミンホから引き離した。
「ナビは調子が良くないんだ。責めるつもりなら、帰ってくれよ」
ナビを抱きしめたジェビンは、ナビの肩越しにミンホを冷たい目で一瞥をくれた。ナビは荒い息を吐いて、グッタリとジェビンの胸に顔を埋めている。
ジェビンはそのままナビの肩を抱いて、店の奥へと消えた。
ミンホはただ黙って、唇を噛み締めながらその背中を見送るしかなかった。
「君の負けー」
いつの間にか隣りに座っていたオーサーが、枝豆を頬張りながら可笑しそうに言った。
「酷なようだけど、今の君じゃあ、あの二人の間に入り込む余地はないよ」
カッと頬を赤くさせてオーサーを睨むミンホにお構いなしに、オーサーは余裕の表情で枝豆の皮を皿に投げ入れて遊びだした。
「……君は『痛み』ってやつを、どれだけ知ってる?」
まるで『海』って知ってる? とでも言うような軽い口調で、オーサーが尋ねる。
「……何ですか? 『痛み』って」
眉を寄せてそう尋ね返すミンホに、オーサーは一瞬ニヤリと口の端を曲げて笑った。
「イエッス! ナイッシュー!」
枝豆の皮を全て皿の中に命中させると、オーサーは一人でガッツポーズをして席を立った。
「さぁて、皮も全部入ったしー、ナビヤはいないしー、俺も今日はもう帰ろうっと」
「ちょっと! 話はまだ終わってませんよ!」
オーサーの肩を掴もうとするミンホに、オーサーはクイクイと親指でカウンターの隅を指した。
「君も帰ったほうがいいんじゃない? 先輩、つぶれちゃってるよ」
見ると、食前酒代わりのブランデーを煽ったチョルスが、へべれけになってカウンターで潰れていた。
「チョルスヒョンッ!」
ミンホが慌ててチョルスに駆け寄る。
「じゃあねぇ。バイバーイ」
オーサーはヒラヒラと手を振りながら、出口へと向かった。
「もうっ! 何してるんですか。空腹のまま、こんなに飲むからですよっ!」
ミンホは潰れたチョルスの頭をペチンッと弾いてから、肩に腕を回し重い身体を持ち上げた。