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銀のスプーンで鍋を突きながら、チョルスは思わず溜息を零していた。
ちょっと前まで、その溜息は「美味いっ!」を代弁するものでしかなかったのに、今はその質が変わっている。
チョルスはもう一匙、グツグツ煮立ったキムチチゲを掬うと、そのままフウフウ言いながら口に運んだ。
やはり出てきたのは溜息で、チョルスはスプーンを咥えたまま首を捻った。
「……おかしいな」
眉を寄せて、湯気をたてている鍋を覗き込む。
「なぁんか、しっくりこない」
そんなチョルスの横で、ミンホは無表情のまま一心にスプーンを口に運んでいる。美味いのか不味いのか、そもそも味わっているのかさえ分からない表情で、モグモグと無言で食事を進めている。
「……味、落ちたか?」
思わずチョルスがそう呟いたとき、配膳をしていた店のオヤジに思い切り睨まれた。チョルスは慌てて口を噤んで、相変わらず横で無心にスプーンを動かしているミンホに耳打ちした。
「お前、ここのチゲどう思う?」
「はい?」
面倒くさそうにミンホが顔を上げる。
「どうって、どう言う事ですか?」
「だから、さ。前からこんな物足りない味だったかと思ってさ」
眉を寄せるチョルスに、ミンホは冷めた声で言う。
「チョルスヒョンのお気に入りの店だって言って、僕を連れて来たんじゃないんですか? ここのキムチチゲが大好物なんだって、さっき楽しそうに話してましたよね」
「そうなんだけどよ……何て言うの? こう、隠し味的なモノが足りないっていうの? もっと、美味いもん食っちまったせいか……」
そこまで言って、チョルスはハッとして押し黙った。
お気に入りの店の大好物のチゲより、更に上をいくチゲを食べた場所を思い出したからだった。
(うちの店のは、媚薬入りだから……)
舌が忘れられないあの味を思い出すのと同時に、脳裏にお玉片手に妖艶な笑みを浮かべるジェビンの姿が浮かんできて、チョルスは思わず、ブルッと頭を振った。
そうか――
『ペニーレイン』で食べたチゲの味が、忘れられなかったんだ。
思い出したら最後、目の前のチゲが急に色褪せた物に思えてきた。
「食べないんですか?」
横からスプーンを伸ばして、ミンホが相変わらず無表情で鍋を突つく。
「お前って、もしかして味オンチ?」
スプーンを咥えながら恨めしげにそう言うチョルスを尻目に、ミンホは鍋をグチャグチャにかき回す。
「好き嫌いがないって言ってほしいものですね」
ミンホはそのまま自棄食いでもするかのように、ガツガツとチゲを食べ始めた。
「あーあ、ジェビンのキムチチゲ、食べたい」
スプーンを放り出したチョルスに、ミンホがピクリと反応する。
「探すか? もう一度。『ペニーレイン』」
「本当ですかっ?!」
食べるのを止め、急に乗り出してきたミンホにチョルスの方が思わず仰け反る。
「何だ? お前も、ジェビンの料理食いたかったのか?」
「探しましょう、チョルスヒョン! あ、ちょっと! 天気予報にチャンネル変えてくださいっ!」
チョルスの問いにはまともに答えずに、ミンホは急に立ち上がると、店に一台しかないテレビのチャンネルを強引に天気予報に変えさせた。
***
薄い布団からはみ出した足の先が凍えるように冷たくて、目を覚ます。
小さな足を擦り合わせて暖を取ろうとするが、隙間風のせいで外と大差ない室温の中では、いくら冷たい自分の肌を擦り合わせても到底身体が熱を取り戻すことはない。
寒さで目覚めた筈なのに、意識が覚醒するにつれて、耐え難い空腹感も同時に襲ってきた。グーッと小さくなる腹を押さえて、布団からそっと抜け出す。
台所とは名ばかりの、流しと小さなガスコンロが一つあるだけの炊事場に立ち、一人暮らし用の小さな電気釜の蓋を開けた。
乾いてこびりついた米まで指の腹を使って一つ一つ丁寧に取り去って、欠けた茶碗に移す。少しでも量を取れるように。
コンロの上に乗ったままの、少し酸っぱい匂いを放つようになったスープに手を伸ばして、冷たいご飯の上にかけて、それから一気に立ったままそれを腹に流し込む。
冷たいご飯とスープが一塊になって胃の底に落ちていく感覚がして、ブルッと身震いしながらも、ようやく空腹感がいくらか和らいでいくのを感じた。
「……ハヌル?」
その時、先ほど自分が抜け出してきた布団の中から声が聞こえた。茶碗を流しに置いて、声のする方を振り返る。
「……何の音だ?」
声に答えて、窓の外を見てから静かに言った。
「雨の音だよ」
膨れた布団の中身は、ウーンと唸りながら、大きく寝返りを打った。
「……仕事は?」
「今日は休みだろ。この分じゃ」
尋ねると、短い答えが返ってくる。
「お前、寒くないのか?」
布団の隙間から覗く二つの眠そうな目が、こちらをうかがいながら問いかける。
「……うん。寒い」
「裸足だからだろ?」
「うん」
「バカ」
布団の中身は呆れたような声でそう呟くと、その汚れた薄い布団を捲り上げた。
「ほら、早く来い」
布団の端が捲くれ上がった途端、離れているのに嗅ぎなれた懐かしい体臭がした。一瞬躊躇して左足を引いたが、布団を捲り上げた男はポンッと気軽に自分の横を叩いた。
「早くしろ。俺も寒い」
その言葉に迷いを振り切り、布団の中へ滑り込む。
「朝までもう一眠りするぞ」
「……うん」
固い筋肉の腕枕に頭を預けて、目を閉じる。
どうか、雨が止まないように……
そう、祈りながら。