4-2
「じゃあちょっと、様子を見てきましょうかね」
オーサーはカウンターの中へ進んで、ジェビンの脇を通り過ぎた。キャンピングカーに繋がった店の奥へと入っていく。
「ナビヤー、入りますよー」
ドアをノックし、気軽な声をかける。
ナビはベッドの上に起き上がり、両膝をペタンと付く形で、こちらに背を向けて正座していた。
「起きてていいの? 大丈夫?」
そう言って背後からナビを覗き込んだオーサーが、目を見開いた。
「何やってるの?! ナビッ!」
ナビはオーサーの左手首を掴んで、左耳から引き剥がした。途端に、ポタポタと真っ赤な血が、洗いたての白いシーツの上に点になって零れ落ちる。左耳に爪を立てていたナビの指は、べったりと血で汚れていた。
その時、オーサーが開いたキャンピングカーのドアの隙間から、灰色猫のオンマが飛び込んできた。
金属音のような甲高い泣き声を上げると、そのままナビのベッドに飛び乗り、痛々しく血を流すナビの左耳を、ザラザラとした舌で舐め出した。
「……うぅ……ウッ」
呻いて泣きじゃくりながら、ナビはオンマの舌や手首を掴むオーサーから逃れようと身を捩る。
「ナビッ! もう止めて」
ナビの細い両手首を片手で絡め取ると、オーサーは空いた方の片手でナビの肩を強い力で押さえつけた。
「大丈夫だから……ね? 落ち着いて」
ナビの抵抗が止んだところで、オーサーは素早く自分のパンツのポケットをまさぐった。中から取り出した透明の小さなビニール袋を歯で千切ると、中に入っていた小さな錠剤を手のひらに移し、そのままその手でナビの口を塞いだ。
驚いて目を見開くナビの耳元で、オーサーは低い声で優しく呟いた。
「もう大丈夫……ゆっくり、噛まないで飲み込んで」
コクリ……と音がして、ナビの喉が小さく上下する。涙に濡れた目を閉じ、ナビはグッタリとオーサーの腕の中で気を失った。
オーサーはそんなナビの背中を優しく擦ってやりながら、柔らかい髪を撫でた。
「今は眠って……辛いことは、全部忘れて」
低く囁くオーサーの背後で、キャンピングカーのドアが開く音がした。
ナビを抱いたまま、ドアの前に立つジェビンを見上げたオーサーは眉を寄せて苦笑した。
「そんな怖い顔しないでよ。いくら俺だって、弱ってる子襲ったりしないよ」
つまらない冗談にジェビンが笑うはずもなく、その表情はますます凍えるように冷たいものとなっていく。
足元のオンマも、濁った金色の瞳孔を煌かせて、まるで非難するような冷たい目つきでオーサーを見上げる。
「何飲ませた?」
「あれ? 見てたのね」
オーサーが肩をすくめる。
「トランキライザーだよ。ちょっと強めのね。ジェビンにはお馴染みの薬じゃない?」
その途端、ジェビンの目が細められ、射るような眼差しでオーサーを見据えた。
「おお、怖っ! 久々に見たよ。おたくのそんな顔」
言葉とは裏腹に、オーサーは口元に冷ややかな笑みを浮かべていた。
「昔は、雨が降る度にそんな顔してたよね? 変わったのはそう……いつからだっけ?」
「……黙れ」
ジェビンは冷たく言い放つと、ツカツカとベッドに近づき、オーサーの手からナビを奪い抱え上げた。血で汚れていない、自分のベッドへとナビを移動させるつもりらしい。その後ろに、静々とオンマも続いて歩き出す。
そんなジェビンの背中を目で追いながら、オーサーは挑発するように声をかける。
「久しぶりに、ジェビンにも処方してあげようか?」
肩越しに振り返ったジェビンが鋭い視線でオーサーを睨む。
「……いらねぇよ」
吐き捨てるようにそう言うと、自分のベッドにそっとナビを降ろした。
「お前、もう帰れよ」
「電話一本で「すぐ来てくれ」なんて呼んどいて、用が済んだら今度は帰れって? 全く、相変わらずの『お姫様』っぷりだね」
その途端、オーサーのコメカミを掠めて、果物ナイフが飛んできた。今はナビが眠る、ジェビンのベッドの脇にあるローテーブルの上に乗っていたものだ。
掠めたナイフはオーサーの背後の壁に貼ったコルクボードを貫通して、深々と突き刺さっていた。
オーサーが静かにコメカミに手をやると、ほんの少し掠った傷から血が滲んでいた。
フッと鼻から息を漏らすように笑ったオーサーが、口の端を吊り上げて言った。
「そんな顔したお前に、可愛いナビヤを預けていけると思う?」
首を回して、背後に刺さったナイフの柄に手をかける。
「俺なんかの軽口も流せないようなお前に」
力を入れて引き抜いたナイフをクルクルと手の中で回して弄びながら、ジェビンにゆっくりと近づいていく。
「ナビに引きずられて、簡単にフラッシュバックを起こしそうになってるお前に。しっかりしろよ。お前は、ナビの兄貴だろ?」
ジェビンの耳元に口を寄せ、低い声で言い聞かせるように呟く。
(……こっちにいらっしゃい、ジェビン)
(何、これ? ちっちゃい……やわらかい)
(お前の“弟”よ。抱いてみる? 母さんが支えてるから、大丈夫よ)
(……ニャアニャア鳴いて、猫みたいだ)
ナイフの柄でグッと胸の先を押され、ジェビンは我に返った。
遠く掠れた幼い頃の記憶が、不意をついて鮮明に蘇り、ジェビンの足を竦ませた。
唇を噛み締め、顔を背けたジェビンの肩を優しく叩きながら、オーサーは眠るナビにも同じように、その肩にそっと布団をかけてやった。