4-1
――おいで。
そう、言ってくれた人。
***
カタカタカタ……
古びたデスクが小刻みに揺れる。
チョルスは広げていた新聞から目を上げて、横を見やる。
揺れの発信源は、隣りの席のミンホだった。
「おい」
「……はい?」
ミンホはキョトンと顔を上げたが、まだ揺れは収まっていない。
「それ、やめろ」
「え?」
「それだよ、さっきから。貧乏ゆすり!」
チョルスがデスクの下のミンホの膝を叩く。
「俺のデスクまで揺れてんの。気になってしょうがねぇよ」
「……すみません」
ミンホは俯いて、自分の膝を押さえた。
しかし、しばらくすると、今度はコツコツコツ……という、先ほどとは質の変わった響きが聞こえてくる。チョルスが再び目を上げると、ミンホがデスクの上を爪でリズミカルに叩いていた。
「おいっ!」
再びチョルスが声をかけると、ミンホはハッとしたように手を止めた。
自分では全く気付いていないらしい。先ほどよりも小さな声で「すみません」と呟くと、貧乏ゆすりをしていた膝の上に、デスクの上で遊んでいた右手を重ね、ギュッと力を入れてパンツを掴んだ。
しかし、三度、奇妙な音は隣りの席からチョルスを浸食する。
今度は、ギリギリギリ……という何とも不快極まりない音。
「ミンホッ!」
見かねたチョルスが新聞を置き去って、椅子を回し身体ごとミンホを正面から見据えた。
「どうした?」
ミンホはギシッと音をさせて、ようやく歯軋りを止めた。
「イライラしてるな? 何かあったのか?」
チョルスに覗き込まれて、ミンホが気まずそうに俯く。
「……いえ、大したことではないんです。すみません……仕事中に」
ミンホは、パンツの尻ポケットに収まったままの携帯に意識を向けながら言った。バイブ機能にしてあるから、着信があったらすぐに分かるようになっている。だが、この三日間、携帯は死んだように大人しいままだ。
ナビと別れて、決死の思いでメールを打ったのが三日前。
プライドを捨てて、自分の方からあんな恥ずかしいメールを打ったというのに、当のナビからは無しのつぶて。返信すら届いていない。
何度も何度もメールセンターに問い合わせをしても、ナビからのメールはなかった。
「仕方ねぇなぁ」
チョルスは呆れたように溜息を吐く。
「飲みにでも行くか? たまには、気晴らしに」
チョルスがミンホの頭をグシャグシャに撫でながら笑う。
「男だったら、ウジウジ悩むな。酒飲んで、忘れちまえ」
豪快なチョルスの言葉に、ミンホはこの日初めて笑顔を見せた。
「……はい。お願いします」
生真面目に頭を下げるミンホの髪を、チョルスは更に上からグシャグシャにした。
***
人気のない黒テントの店内で、ジェビンは一人カウンターに座り帳簿の整理をしていた。
ドアベルの音がして振り向くと、オーサーが入口に立っていた。
「どう? ナビの様子は」
オーサーが雨粒を払いながら店内に入ってくる。ジェビンはかけていた眼鏡を外してカウンターの上に置くと、首を横に振った。
「……奥で寝てるよ。相変わらずだ」
「何があったか、やっぱり話してくれない?」
「……ああ」
ジェビンが溜息をつきながら眉間を揉む。
三日前の夜、ナビは突然、傘もささずにびしょ濡れのまま帰ってきた。
帰ると約束した時間を大幅に過ぎていて、仕込みを全て終わらせてカウンターで一息ついていたジェビンは、ナビが帰ってきたら、一言ガツンと言ってやろうと、いつものお玉を片手に待ち構えていた。
ドアベルとともに軋んだドアの開く音がして、ジェビンが立ち上がる。
「ナビッ! 遅いよっ!」
そう大声を出した途端、ドアの隙間から身を滑らせるように入ってきたナビが、そのまま膝から崩れ落ちた。
「ナビッ?!」
驚いたのはジェビンの方だった。慌てて駆け寄り、崩れ落ちる身体を自分の膝の上に抱えあげる。
ナビはびしょ濡れで、ジーンズや靴にはところどころに泥が付着して汚れていた。
まるで、地面を這って逃げてきたような有様だった。
「どうした? 何があった?」
ジェビンは、最近染め直したばかりの金色の髪が張り付いたナビの額をかきあげてやりながら問いかける。冷え切った唇は、青ざめて小刻みに震えていた。
「ナビ?」
口元に耳を寄せ、その小さい声を聞き取ろうと耳を澄ます。だが、結局ナビの声は言葉にならず、そのままガクッと身体が弛緩すると同時に、瞼が落ちた。
ジェビンはすぐさまエプロンのポケットから携帯を取り出すと、片手で短縮ダイヤルを押した。
「オーサー? すぐ来てくれ」
駆け付けたオーサーによって精神安定剤を処方されたナビは、キャンピングカーの中で寝かされたまま、この三日間ずっと夢と現の間を行き来しているようだった。
側で見守るジェビンの前で、ナビは何度もうなされ、聞き取れないうわ言を呟いていた。