3-21
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帰り際、ミンホが買って持たせてくれたビニール傘を差しながら、ナビは片手に持った携帯を開けたり閉じたりを繰り返していた。
アドレス帳に登録された『ハン・ミンホ』の文字。
着信履歴には、登録のためにかけられた、1秒の短い不在着信が残っている。
発信履歴にも、同じ相手に同じ秒数の記録が残っている。
ナビは何度も何度も、携帯のボタンをいじっては、それらが消えてしまっていないか確認する。
別れる時、連絡先を交換しようと取り出したナビの携帯を、ミンホは横からスッと奪った。
抗議しようとするナビの前で、ミンホは涼しい顔で長い指を器用に動かし、ナビの携帯を操作した。
(僕のメールアドレスは長いんで、僕が直接登録したほうが確実です。あなたは、間違えて打ちそうだから。)
そう言って、今度はさっさとナビの携帯から自分の携帯へ電話をかけ、素早く自分のアドレス帳にもナビの連絡先を登録する。
(間違って消さないでくださいよ。再発行は、有料ですから)
いつもの憎まれ口を叩くのも忘れない。
「……カッコつけちゃって……フン」
そう一人呟きながらも、ナビは自然に頬が緩んでくるのを抑えられなかった。
携帯の画面ばかり見て歩くナビは、その時正面から歩いてきた男とぶつかった。その拍子に、男の手から何か角ばったものが零れ落ち、コロコロと車道の方へ転がった。
一方ナビが落とした携帯は、反対側の植え込みの下に転がり込んでしまった。
「あっ! すみませんっ!」
ナビは自分の携帯よりまず先に、危うく車道に転がり出るところだった男の落し物に手を伸ばした。
雨に濡れて泥まみれになってしまったその物体は、四角い小さな箱だった。プレゼント用なのか、キレイにラッピングが施されている。
「どうしよう……すみませんっ、僕が前を見てなかったから……」
ナビは慌てて、ジーンズのパンツの脇で必死に箱に付いた泥を落とそうとした。
そのナビの手を、不意に伸びてきた手が掴む。
「……ハヌル?」
探るように囁かれた名に、ナビは驚いて顔を上げる。
男の顔を正面から捕らえた瞬間、ナビはヒクッと喉を鳴らして息を飲んだ。
「アハ……アハハハハッ! 本当にお前かよ? どんな魔法だよっ!!」
ナビの手を掴んだ男は、急にけたたましく笑い出した。
逃げ出そうにも、ナビは足が竦んでその場から動けなくなっていた。まるで、石になる魔法でもかけられたように。
「……それ、まだ付けてたんだな」
男の視線が、舐めるようにナビの左耳のピアスに注がれる。その瞬間、ナビは身体を強張らせ、手にしていた箱を男の胸に思い切り押し付けた。
「何だよ、お前にやるために買ったんだぜ」
男は反対に、ナビのその両手首を掴んで、箱ごとナビの胸に押し返す。
「きっと、そいつが呼んだんだよ」
男はナビの左耳で光る雫型のピアスを満足そうに眺め、口の端を歪めて笑った。
その時、植え込みの下で、ナビの携帯が光った。
メールの着信を知らせるLEDランプの下に浮かび上がったのは『ハン・ミンホ』の文字だった。
*
ミンホはアパートに戻ってから、自室のソファーに腰掛け、登録したばかりのナビのアドレスに向けて、初めてとなるメールを打った。
どうせ、くだらない兄貴の意地で、自分からはメールも電話も出来ないだろう。短い付き合いでも、ナビのそんな性格をミンホは段々分かるようになってきた。
なら、こちらから送るまでだ。
もう、待つだけなんてゴメンだ。
そう勢い込んではみたものの、いざとなると、何を書いていいのか分からない。ミンホはしばらく思案して、頭をクシャクシャに掻き毟っては、何度も書いては消し、書いては消しを繰り返した。
やがて、書き終えた文章は、たったの一行。
だが、ミンホは何度もそれを読み返し、送信ボタンに手をかけた。
メールなら、これくらい言える。
面と向かっては、まだ無理だけれど。
その時、視界の隅で、部屋の空調にあおられた100体のテルテル坊主チラチラと揺れた。
結局、捨ててしまうには忍びなくて、クムジャに処分される前に、ミンホはくたびれきった彼らを自分の部屋に避難させてきたのだった。
その彼らが、今はジッとミンホの様子を窺っている。
たった一人で部屋にいるのに、本当は誰に見られているわけでもないと分かっているのに、ミンホの頬は真っ赤に染まっていた。
「……ちょっと、失礼ですよあなたたち。ジロジロ見ないでください」
ミンホは思わずそう呟いて、洗濯バサミでリースのように窓辺に吊った彼らを、回れ右させてそっぽを向かせた。
気になる視線を外してから、ミンホはようやくソファーに腰を落ち着けて、大きく深く息を吸い込んだ。
中断していたメールを再開するため、決意するようにパクンッと音を立てて携帯を開く。
文章は、とっくに出来上がっていた。
親指に力を込めて、ミンホは今度こそ思い切って送信ボタンを押した。
「……会いたかったぜ」
男の手がナビの左の耳たぶに伸びる。
「また会えると思ってた。そいつが俺を呼ぶ。お前がどこにいても、何をしていても――」
ナビはもはや声を発することすら出来ず、カタカタと小さく震えながら金縛りにあったように男を見つめていた。
植え込みの下で、携帯が光り続ける。
『雨が止んでも、会いたいです』
――ハン・ミンホ――
第三章【雨が止んでも】完