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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第3章【雨が止んでも】
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3-20




 雨が降りしきる日曜日の朝、ミンホは6時きっかりに目を覚まし、シャワーを浴びて朝食を済ませると、一人暮らしのアパートを出た。

 休みの日に寝坊出来ないのが自分の性質たちだ。

 何も予定がない日でも、目覚ましの力を借りなくとも、いつも浮かび上がるように自然に目が冷める。

 非番の日が世間一般の休日に重なるのも珍しいので、傘を差して適当に街をぶらついてみたものの、すぐに飽きてしまい、結局向かった先は学生時代によく通った図書館だった。

 雨のせいか、そこそこ人は入っていた。

 今日は一日ここで過ごそう、そう思ってミンホは入口で傘を畳む。


 明慶大学へ潜入していた時も、大学の図書館をよく利用した。ナビと口論になって、逃げ込んだ先も図書館だった。

 あの時は、ナビに見つけられてしまったんだっけ。

 そこまで考えて、ミンホは頭を振った。傘を差していても横から入り込んできた雨粒で濡れた髪から、雫がはねる。

 いい加減、雨が降るたびにナビのことを思い出すのは止めよう。あのダンプ横転事故があった夜も、折角再会できたのに、つまらない意地を張り、結局連絡先すら聞けなかった。

 神様が与えてくれたチャンスを物にできなかった自分が悪いのだ。

 チャンスは一度――昔から、そう相場は決まっている。


 ミンホが図書館の中に足を踏み入れると、ヒヤリとした冷気に身体を包まれ、空調の効きすぎた室内は、雨に濡れた身体には少々寒く感じられた。

 自分の肩を擦りながら、書架の間を移動する。

 人が居ない、ガラガラの通りを選んで進んでいくと、目の前に脚立が現れた。ミシリと軋んだ音がして何気なく頭上を見上げると、不安定な体勢で本を取ろうとしている人影に気がついた。


「……うわっ!」


 思わず声をあげたミンホに、脚立の上の人物が振り返る。

 その拍子に、大きくバランスが崩れる。


「う……うわぁぁぁぁぁぁっっ!!」

「あ、え?! ちょっとっ!!」


 何が起きたのか分からない。

 しかしミンホは、咄嗟にその頭上の人物に向かって手を伸ばしていた。脚立ごとグラリと倒れこんでくる相手を、身体全体で受け止める。


 ガッシャーンッ……


 図書館中に響き渡る大音量を残し、脚立が書架の間に倒れる。ミンホはその天辺に乗っていた人物を身体で庇ったまま、強か打ちつけた尻の痛みに顔をしかめた。


「……っ、痛いぃ」


 なぜかミンホよりも痛そうな声が、腕の中から聞こえてくる。その時ミンホは、初めてその人物の顔を正面から見た。


「……ナビ……ヒョン?」

「……ミンホ?」


 腕の中のナビは、目をパチクリさせてミンホを見つめていたが、やがて大声で叫んだ。


「またお前かっ!」

「それは、こっちのセリフですっ!」


 その時、尋常ではない大きな音に集まってきた利用客に囲まれていることに気付いたミンホは、慌ててナビの手を掴んで立ち上がった。


「とにかく、こっちへ」


 小声で囁くと、倒れた脚立を律儀に直し、書架の間を逃げるように移動する。ミンホはそのまま、地下にある食堂までナビを引っ張って行った。


「座って」


 ミンホに促されて、ナビが対面に腰かける。


「本当に神出鬼没な人ですね。あんなところで、何してたんですか?」

「べ、別に……僕が図書館利用しちゃ、悪いの?」

「そんなこと、言ってないでしょう」


 ミンホは先ほど痛めた尻を庇うようにして、席に着く。


「市街に、いつ戻ってきたんですか?」

「……昨日の、夜遅く」

「雨、降ってますけど」

「今日は夜からだから。午前の仕込みは一人でいいって、ジェビン兄貴ヒョンが」

「……そうですか」


 ミンホはテーブルの上で組んだ自分の手の甲に視線を落とす。


「……で? 何か探し物でもあったんですか? あんな高いところによじ登って」

「……う、うん。まあ」


 ナビは気まずそうに目を逸らす。


「何ですか? 言ってくれれば、僕も一緒に探せるかも。あの辺、詩集のコーナーでしたよね」


 その時、ナビは俯いたまま、小さな声で言った。


「……お前が、さ……」

「え?」


 ミンホがナビの顔を覗き込むように、テーブルに頬をつける。


「……お前が、あの時読んでたヤツ。ずっと、探してたのっ!」


 一気に言い終わると、ナビはプイッと横を向いてしまった。


「あの時、僕が読んでたヤツって……ヒューズですか? ラングストン・ヒューズの詩集?」

「そう、そんなようなやつ! 名前が分からなくて、ネットでも探しきれなかった」


 ミンホの言葉に、ナビが膝を打つ。どうやら、本当に名前が思い出せなかったらしい。


「ハーレム・ルネサンス時代の有名な詩人ですよ。アフリカ・アメリカンの……ブルースの名曲の原詩にもなってる……」


 ミンホの説明に、ナビは次第に身を乗り出し顔を輝かせてくる。


「気に入ったんですか?」


 ミンホが問うと、ナビは恥ずかしそうに唇を尖らせて頷いた。


「うん」

「……貸して、あげましょうか?」

「え?」


 ナビがキョトンとミンホの顔を見ると、ミンホはカバンのポケットから、よく読みこんだ痕のあるボロボロになった一冊の本を取り出した。


「……どうぞ。良かったら」

「何で? いつも持ち歩いてるの?」

「そういうわけじゃ……」


 今度はミンホがしどろもどろになる。


「……だって、あなたが、気に入ってたみたいだから」


 くたびれた表紙を意味もなくペラペラと捲る。


「……いつ、雨が降りだすか分からないでしょ?」


 その言葉で、ナビはようやくミンホの言いたいことを理解した。

 いつ雨が降るか、分からないから?

 いつまたナビに出逢うか分からないから、その時渡せるように、ずっとヒューズの詩集を持ち歩いていた。

 途端に、ナビの頬までカッと熱くなる。


「あ、ありがとう」

「……いえ」


 お互いに気まずそうに正面の相手から目を逸らしながら、ミンホが思い切って口を開いた。


「あの時、言いかけてたのって、ひょっとしてこのことですか?」

「え?」

「炊き出しの時、何か言いかけてたでしょ?」


 ナビはミンホに再会したあの夜のことを思い出していた。同時にしゃべり出そうとして、気まずくなったあの時のことを。


「……そうだよ。なのに、あの時もお前がケンカ売るから」

「ケンカなんか売ってませんよ」

「ほら、またっ!」


 そう言ったところで、二人は顔を見合わせて思わずクスリと笑いをもらす。


「そんなに、気になってたなら、連絡先でも聞けば良かったでしょ?」

「兄貴の方から聞けるかよ」


 プイッとそっぽを向くナビに、ミンホは呆れてしまう。

 何だ? そのプライドは。


「ねぇ……だったら今、連絡先教えてくれませんか?」

「何で?」

「……本、返してもらわなきゃいけないでしょ」


 言った途端に、ミンホは口元を押さえて、横を向いてしまう。


「それに……まだ沢山あるんです。ヒューズの詩集」


 そう言って、頬を染めるミンホの横顔に、ナビまでつられて赤くなった。



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