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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第3章【雨が止んでも】
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3-19

「……まあね、お前は?」

「はい。見ての通り」


 そこで、会話が途切れた。

 いつもうるさいくらいにしゃべって、ムキになって喧嘩もしていたのに、まるでお互いに言葉を忘れてしまったみたいだった。

 何を話していいかも分からぬままに、ナビはミンホの後姿を見つめながらテクテクと歩き、やがて、炊き出しテントまで辿り着いた。


「お疲れ様です、ハン警衛」


 ミンホの姿を見つけた警官の一人が敬礼のポーズを取る。ミンホもそれに応えるように敬礼を返す。


「ちょっと、待って。君は?」


 ミンホの後ろをチョコンと付いて歩いていたナビは、当然ながら呼び止められた。


「この人は大丈夫です。僕の連れですから」


 ミンホが振り返ってナビとその警官の間に立つ。


「そうでしたか……それは、失礼しました」


 警官が頭を下げる。

 そう言えば、ミンホは警察大学校出のエリートなのだとチョルスが話していたのを聞いたことがあった。  今は学校を卒業し、兵役を終えたばかりの身で、急遽ケガを負ったチョルスの相棒のピンチヒッターという役目故に、先輩であるチョルスの方が指導係となっているが、本来の階級はミンホの方が遥かに上であり、いずれは警察幹部として出世が約束されている。

 二人で大学に潜入していた時はそんなこと気にしたこともなかったが、こうして警察組織の中に身を置いているミンホの姿を見ると、本当に自分とは住む世界が違う人間なのだと言うことを改めて思い知る。

 何だか、急にミンホが遠い存在のように思えた。


「どうかしましたか?」

「……別に」


 急に黙り込んだナビを怪訝な顔で覗き込んでいたミンホだったが、やがて閃いたというように、ニヤリと笑って言った。


「ちょっと、待っててください」


 そう言うと、ナビを置いて炊き出しの列にならぶ。

 やがてミンホは、両手に一つずつ、椀から溢れそうな雑煮を持ってナビの元に返ってきた。


「トック(韓国の餅)入り雑煮ですよ。腹持ちもよくて、なかなかいけるんです」


 ミンホが炊き出し隊の人ごみから少し離れたところへ行こうと顎をしゃくる。ナビはその後に着いていく。


「あなた、お腹空いてたんでしょう? いっつもお腹空くと、電池が切れたみたいに元気が無くなって、不機嫌になってましたもんね」

「っな?! それは、お前だろっ?!


 ムキになって言い返すナビに、ミンホは肩を震わせて笑う。

 やがて、二人が腰をかけるのに丁度いい大きさの縁石を見つけて、ミンホはそこへ腰を下ろした。


「どうぞ」


 ミンホは隣りにナビを促す。


「……うん」


 ナビも言われるままに、ぎこちなくそこへ腰かけた。


「はい」

「……ありがとう」


 ミンホに手渡されたトック雑煮は、夏の夜に食べるには熱すぎる代物だったが、疲れた身体に染みて旨かった。

 しばらく二人は無言のまま、一心に雑煮を啜った。


「あの……」

「ねぇ……あのさ」


 二人同時に顔を上げる。

 被ってしまった気まずさに、二人揃って慌て始めた。


「あ……え? 何?」

「いえ、いいんです。どうぞ、そっちから」


 ミンホがナビに先を促す。ナビはすっかり頭が真っ白になり、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。


「……あ、ヒョンスは……どうしてる?」


 咄嗟に共通の話題が思いつかず、思わずヒョンスの名前を口にした。

 その時、ミンホの周囲の空気が二三度下がったような気がした。

 スッと目を細めたミンホは、ナビの方へ向けていた顔を正面へ戻し、雑煮に視線を注ぎながらぶっきらぼうに言った。


「……保釈申請が、イ・ユリの父親から出ましてね。だけど、それを本人が断りました」

「そっか」


 ナビは線は細いながらも、意志の強い眼差しを持ったヒョンスの事を思い出していた。


「……ヒョンスは強いな。だけど、繊細なところもあるから、心配だよ」

「そうですね。誰かさんと違って」


 思わずミンホの口からこぼれ出た言葉に、ナビが敏感に反応する。


「誰かさんって、誰のことだよ?!」

「あなたしか、いないでしょ」


 ミンホも負けずに、いつもの調子で応戦する。


「僕のどこが、繊細じゃないって?」

「どこもかしこもですよ」


 ミンホは雑煮の椀を置くと、ナビの方へ身体を向け、一気に捲くし立てた。


「繊細な人は、脱いだ服を散らかしっぱなしにしません。他人にパンツ拾われても、平気な顔してません。ご飯をボロボロ落としたりしません。トイレを流し忘れたり……」

「もういいっ!!」


 ナビも雑煮を置いて、迫ってくるミンホの肩を押し返す。


「わざとじゃないもんっ! それが僕なんだもんっ!」

「開き直りましたね。だったら、繊細だなんて名乗らないでください」

「お前も繊細なんかじゃないよ! 繊細な人は、そんなにズケズケ言ったりしなもんっ! 年上にもっと敬意を払うもんっ!」

「敬意を払って欲しかったら、もっと年上らしくしたらどうですか?」


 止まらない二人の応酬を、道行く警察官や消防隊員がチラチラ見ている。


「……あの、ハン警衛……大丈夫ですか?」

「大丈夫ですっ!!」


 見かねた警官の一人がミンホに声をかけたが、ミンホは噛み付くようにそう答えた。


「もう、僕帰るっ!」


 ナビが叫んで立ち上がる。


「どうぞっ! ご自由に」


 ミンホも勢い良く立ち上がり、近くにいた警官に声をかけた。


「すみません。車を貸してください」

「いいよっ。僕、歩いて行くから」


 歩き出そうとするナビの襟首を掴んで、ミンホが引き止める。


「一般人にこんなところをウロウロされたら、こっちが迷惑なんですよ。いいから、最初からの約束ですから。駅までは責任持って送ります」

「ハン警衛っ!」


 投げられた車のキーを受け取ると、ミンホは炊き出しテントに預けていたナビの荷物を他の警官に頼んで取ってきてもらった。

 道路に横付けされたパトカーの助手席の扉を開けると、ミンホはナビに向かって顎をしゃくった。


「早くしてください」


 ナビは憮然のとした表情のまま、ミンホの開けたドアの隙間から身体を滑り込ませた。

 駅に向かう車中の中で、ナビとミンホはずっと無言だった。ナビは窓に顔を寄せ、反対車線を埋め尽くすテールランプの赤い明かりばかりを見つめていた。


 駅に到着し、キュッとブレーキの音をさせてミンホが車を止めた。


「……着きましたよ。終電には間に合うでしょう」

「……ありがと」

「いえ」


 車を降りるナビの後に続いて荷物を持ってやるために降りようとしたら、ナビに止められた。


「ここでいいよ。後ろ、車繋がってるから」


 確かにナビの言うとおり、バックミラーからは遥か彼方まで続く後続車両のヘッドライトが見えた。


「じゃあ、ね」

「……ええ。さよなら」


 呟いて、ミンホは口を噤んだ。

 大荷物を抱えたナビの頼りない背中が、危なっかしい足取りで、駅の改札口へと向かう。

 振り返れ。

 ミンホは思わずそう強く念じていた。

 もし、ナビが一度でも振り返ったなら、その時は後続車両のことなど気にせずに、車を飛び出し、悪かったと謝ろう。

 いつも、言い過ぎてごめんなさいと。

 だが、ナビは結局振り返らないまま、改札口の中へと消えた。


 その時、フロントガラスをポツリと一滴、雨粒が叩いた。

 ここ何日か無意識に、ミンホが待ち望んでいた雨だった。

 雨が降らなければ、出くわすことのない『ペニーレイン』。

 出逢うことのない、ナビ――

 不意に現れ、髪もスーツもグシャグシャに乱し、何事もなかったように去っていく。

 だがもう雨が降っても、こうして出逢えるとは限らない。

 ミンホはハンドルの上に顔を突っ伏し、大きな溜息をついた。

 後ろから鳴らされるクラクションの音も、ミンホの耳には入らなかった。



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