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降りだしたな――
捜査課の自席に座って、何とはなしに窓の方を見つめていたミンホは、あっという間に窓にいくつもの筋を作り出していく雨の様子を眺めていた。
警察署内は、たとえ真夏日であっても、いつもどことなく薄暗くて湿っぽい。
ましてこのような雨の日だったら尚更だ。
先ほど先輩婦警のクムジャに淹れてもらったばかりのコーヒーに口をつけると、無意識に大きな溜息が漏れた。
こんなに暗いと、赴任早々に受けた取調室での洗礼を思い出す。
気配を完全に消した、取調室の闇の中に住む書記官――彼の名はノ・ヒチョルと言い、若い頃は腕利きで知られた刑事だったそうだが、薄い髪に彼がまとった幽霊のような陰鬱な空気は、廊下ですれ違うだけでもミンホをゾッとさせた。
そして、チャン・チョルス――
相手が容疑者とは言え、暴力を振るうことに何の躊躇も見せなかった。あの目は、決して脅しなどではなかった。あのまま少年が自白しなければ、本当に骨の一本や二本簡単に折っていただろう。
狂犬――
他の警官が影で囁くのを聞いた、チョルスの影の通り名。
不名誉な名に違いないが、彼にはピッタリだと思った。
相方と言われても、あの鋭い眼光には、未だに慣れることが出来ずにいる。
「おい、一人で黄昏れてないで、出掛けるぞ」
そんなことを考えていた矢先にいきなり声をかけられて、ミンホは思わず飛び上がって、コーヒーの入ったマグカップを取り落としてしまった。
「大丈夫? ミンホ君?!」
派手な音に、真っ先に飛んできたのはクムジャだった。
「あ、ごめんなさい。僕、片付けます」
「いいのよ、私に任せて。洋服濡れなかった?」
甲斐甲斐しく世話を焼くクムジャの後ろで、チョルスは呆れたように言った。
「声かけたくらいで何ビクついてんだよ、お前。さては、勤務中にエロイこと考えてたんだろ?」
「あんたと一緒にするんじゃないわよっ!」
ミンホが否定する前に、クムジャが猛烈にチョルスに喰ってかかる。
「だいたい、あんたはね――」
クムジャのマシンガンのようなダメ出しが始まり、チョルスが一歩一歩後ずさりを始める。
(おい、早く出るぞ)
チョルスは声を出さずに口の形だけでミンホにそう告げると、クムジャが息を継いだ瞬間に身を翻した。
「行くぞ、ミンホ。急げっ!」
ミンホもチョルスの後に続いて駆け出す。
「あっ! ちょっと、待ちなさいよ、あんたたち!」
クムジャの悔しそうな声は、捜査課のドアが閉められると同時に止んだ。
チョルスはそのまま、警察署の地下駐車場まで降りていき、そこで皮ジャケットのポケットに手を突っ込むと、車のキーを取り出した。
「乗れよ」
黒いセダンの前に立つと、ミンホを振り返り、助手席を顎でしゃくった。
「どこへ行くんですか?」
「来れば分かる」
それだけ言うと、チョルスはさっさと運転席に乗り込んだ。
ミンホも言われたとおりに助手席に滑り込み、きちんとシートベルトを締めた。
その様子を横目で見ていたチョルスは何も言わなかったが、口の端が不自然に歪んで、笑いを噛み殺しているのがミンホには分かった。
荒い運転で地上へ出ると、本降りになった雨がフロントガラスを叩き出した。
「こりゃいいや」
チョルスがハンドルを握りながら、ニヤリと笑う。
「いい具合で降ってるから、開店してるのは間違いない」
「もしかして、あの取調べの時言ってた……」
「『ペニー・レイン』だよ」
ミンホの言葉を受けて、チョルスが答える。
「どこにあるんですか?」
「さあ」
「さあ?」
怪訝な顔で聞き返すミンホに、チョルスは口の端を更に吊り上げて笑ってみせた。
「営業時間も、場所も、誰も知らないのさ。分かってることと言えば、ただ雨が降った時に営業するってことだけ。神出鬼没、いつどこに現れるか分からない。せいぜい雨が止まないように、祈ってろ」
そう言うと、チョルスは乱暴にアクセルを踏み込み、雨の降るソウルの街を疾走していった。