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襟元に垢の浮いた薄汚れたシャツを着て、男は地下鉄7号線清潭駅を降り、最近観光客の間でも話題を集めている高級ジュエリーショップが立ち並ぶ狎鴎亭エリアを歩いていた。
小奇麗な身なりの者が行き交うスポットで、何日も風呂に入った様子もない男の存在は異様で、道行く者たちは皆振り返って男を見ていた。
だが、当の男の方は気に留める様子もなく、煌びやかなジュエリーショップの中でも一際高級感を漂わせた店の一つにズカズカと入って行った。
「いらっしゃいませ……」
入ってきた男に向かって丁寧に頭を下げた女性従業員は、男の姿を捕らえて思わず顔を上げた。
「……あ、あの……何か、お探しで?」
女が動揺を隠しきれぬまま尋ねると、男は図々しく店内をジロジロと眺め回しながら、女の元へやってきた。
「ピアスを、作りたいんだ」
「ピアス……ですか?」
「デザインは、もう決まってる」
男は思わず一歩後ろに後ずさる女の前にグッと身を乗り出して、ポケットから取り出したクシャクシャのメモ用紙に、先の丸まった鉛筆を取り出して絵を描きだした。酷い近視なのか、随分目を近づけて描いている。
「雨のカタチをした、ピアスだ」
「オーダーメイド、ですね? お値段が少々張りますが」
遠慮がちに告げる女に、男は鼻を鳴らして言った。
「これで、足りるか?」
そう言うと、男は斜めに下げた布バックから、束にした一万ウォン札を何束も、自分と女の間のガラスのディスプレイの上に置いた。
女だけでなく、後ろで控えていたスタッフたちも、息を飲むのが分かった。
男はニヤリと笑って言った。
「一番高いダイヤで作ってくれ。右耳用だ」
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白い門扉の合間から、手入れの行き届いた庭を眺める。
決して大きくはないが、二階建ての白いモルタル造りの家は、清潔感に溢れていて、そして、どことなく可愛らしかった。
ソンがこの家を購入したのは三年前のことだった。
チョルスの愛称が『狂犬』なら、ソンの愛称は『野獣』――。
まさにその名に相応しく、男ヤモメを地で行きながら、女の尻より犯罪者の尻を追うことに人生を賭けていた男に転機が訪れたのは、四十を目前に控えたある日のことだった。
汗まみれ、泥まみれになって、追いかけるヤクザよりもヤクザ者らしい気性と風貌でソウル市警の特攻を担っていたソンだったが、ある日を境に、仕事を終えるといそいそと一人で帰るようになった。
以前は一晩中張り込みをして疲れきった身体を引きずってでも、チョルスを連れて飲みに繰り出していたのに、ピタリとそんな無茶をしなくなった。
そのようなソンの様子に捜査課の面々が気付かない筈はなく、ある日、チョルスを初めとした捜査課のメンバー数名で、心配半分、好奇心半分で、帰宅するソンの後をつけた。
ソンは、豆タンクのように堅い筋肉が詰まった重い身体をユサユサ揺らしながら、小躍りするように、ある花屋に入っていった。
ソンに、花屋――
豚に真珠。
猫に小判。
馬の耳に念仏。
どの諺を持ってしても、その不釣合いさに勝るものはなかった。何なら、往年の諺に加えてもいいくらいだ。
チョルスと一緒に、口ではそれらしく心配するような風を装いながら、その実、根っからのミーハー根性でついてきたクムジャは、ポカンと口を開けたまま、呆気に取られてその場で固まっていた。
チョルスたちの視線の先で、ソンはその花屋の若い女の店員と、俯いたまま二言三言、ぶっきらぼうに言葉を交わしていた。
ソンが見もせずに指差した花を女は丁寧に紙で包むと、ニッコリ微笑みながらソンに手渡した。
ソンは片手を伸ばして、無造作にその花を受け取る。
だが、俯いたその頬は、薄っすらと赤く染まっていた。
ソンはチョルスたちに見られているとも知らず、花屋を出ると、先ほどのぶっきらぼうで不器用な対応から一転して、嬉しさを隠し切れないというように、スキップでもしかねない、更に軽くなった足取りで雑踏の中に消えた。
翌日、チョルスたち(主に、クムジャが中心となって)は「証拠を掴んだ!」とばかりにソンに詰め寄った。『野獣』の異名を取るソンも、取り調べのプロたちに囲まれたらひとたまりもない。まして、生まれて四十年近く、ずっと縁遠くあった『恋』の分野で攻められては、早々に陥落するしかなかった。
ソンの自供によると、『事件』が起こったのは、三ヶ月前。
露店を襲ったチンピラを追跡し、路上で取り押さえようとした時、そのチンピラは、隠し持っていたナイフをソンに向けて一払いした。すぐにチョルスが反応し、チンピラを地面に押さえつけたが、ソンの突き出た腹の辺りのシャツには見事な切れ目が入っていた。
「皮下脂肪が多くて助かったぜ。舐めときゃ治る」
そんな軽口を叩きながら、勧められてもろくに手当てもせずに帰路についたソンだったが、地下鉄の駅を降りて歩き出す頃、着替えたシャツの腹回りは、染み出した血でベッタリと汚れていた。
まだ肌寒い春先だったので、着込んだコートで腹を隠しながら歩いても、傷口は時間が経つに連れて、ズクンズクンと脈を持つような痛みに変わってくる。ソンはとうとう耐え切れなくなり、腹を押さえて道端にうずくまった。
その時、鼻先を不意に甘い匂いが掠めた。
「……どうしたんですか?」
甘い匂いに負けないくらいの、甘い声が振ってくる。
「具合、悪いんですか?」
薄れゆく意識の中でソンが見上げたのは、花を抱いた天使の姿だった。