3-10
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ガシャガシャ、ワシャワシャ……ザーザー。
鼻の頭に洗剤の泡を乗せながら、ナビは猛烈なスピードで皿を洗っていく。対面カウンターには新聞を広げながら、コーヒーに口をつけているジェビンの姿がある。
ここは、ソウル北部に位置する北漢山国立公園の麓。ソウル市街から地下鉄・バスを乗り継いで簡単に行ける距離にあるため、人気の登山コースになっている。
都市部と違い、紛れ込んでくる酔客の数も少ないので、ちょっとした休養も兼ねて、ジェビンたちはこの自然豊かな地に一週間ほど前から滞在していた。
今日はよく晴れ渡り、北漢山の緑も萌えるように鮮やかに見渡せる。
梅雨の間中開店して、水分をふんだんに吸ってしまった黒テントを、青空の下で組み立てて、こうして日干しすることで湿気抜きをしていた。
「ふあぁぁぁぁぁぁ」
ジェビンが口元を押さえることもなく、せっかくの美貌が台無しになることも厭わずに、大あくびをして目尻に涙を浮かべた。
「ナビは、働き者だねぇ」
寝ぼけまなこを擦りながら、ジェビンが感心したように呟く。
「兄貴は、怠け者だねぇ」
ナビが笑いながら、濡れた手でジェビンに向かって雫を飛ばす。
「冷たっ! ちょっと、酷いよ。ナビッ!」
こんな兄弟同士の他愛ない戯れを、突然割り込んだドアベルの音が中断させた。
「あ!」
「……何だ、お前か」
二人同時に振り返ったナビとジェビンは、戸口に佇む見慣れたシルエットに、対照的な反応を見せた。
「や、お久しぶりー」
ヒラヒラと手を振りながら、勝手知ったる顔でオーサーはジェビンの隣り、ナビの対面のカウンター席に腰を下ろした。
「失礼ですがお客様。本日は開店休業日でね。誰が、勝手に入って良いって言ったよ?」
冷たく横目で一瞥するジェビンを物ともせずに、オーサーはニッコリ微笑む。
「そうそう、だからね。ナビヤをデートに誘いに来たんだよ。休みの日ぐらい、
皿洗いなんかオーナーに任せて、俺と登山デートに行こうよぉ」
「先生に登山する体力なんてあるの?」
「何言っちゃてんの? 俺、こう見えてもムキムキよ。兵役だってちゃんと勤めたモンね。お望みとあらば、ナビにだけは見せてあげるよ? だから、このまま山の奥へ……」
言いかけたオーサーの頭を、丸めた新聞紙がスパーンッと小気味良い音を立てて弾く。
「国立公園で、遭難したい?」
絶対零度の笑みを浮かべて、ジェビンが微笑む。
「ったく、相変わらず激しいなぁ」
オーサーは叩かれて乱れた髪を手串で整えながら舌を出した。
「はいはい。筋肉は、オーナー様には適いませんよ……調子に乗りました」
「分かればよろしい」
カウンターに額をつけるオーサーの頭をポンポンと丸めた新聞紙でつつくジェビンの様子を見ながら、ナビがクスクスと笑った。
「今までずっとどこにいたの? ソウルを離れる時も、絶対ついてくると思ったのにさ」
「あれ? 俺がいなくて寂しかった?」
懲りずに身を乗り出すオーサーの襟元を掴んで、ジェビンが引き戻す。
「そんなんじゃないけど。何かあったの?」
あっさり否定しながらも、ナビは少し心配そうにオーサーの顔を覗き込んだ。
「それに、その頬っぺた。怪我したの?」
オーサーの青白い頬には、大きく目立つ絆創膏が貼られている。
「どうせ、女にやられたんだろ」
ジェビンが呆れ顔でそう言うと、オーサーは絆創膏の上に手を沿え、わざと可愛らしく首を傾げた。
「そうなのぉ。色男は辛いわぁ」
「何だよ、心配して損した」
ナビが呆れ顔で肩を竦める。
「そんなことばっかりやって、いつか女の人に刺されても知らないからね」
「だから、これからはナビ一筋でいくからー」
「お断り!」
「やん、相変わらずツレないねぇ。でも、そこが好き!」
「おい、いい加減にしとけよ」
いつもの軽口の応酬が始まると、あっという間にそこは普段の『ペニー・レイン』の空気に変わる。テントを開く場所が変わっても、ナビとジェビン、フラリと気まぐれに現れるオーサーがいれば。
「それにしても、ナビ。随分手際が良くなったよね」
ジェビンは新聞を畳んでナビに向き直ると、先ほどオーサーに向けていたものとは打って変わった、優しい笑顔を浮かべて言った。
相変わらず、洗剤やら水やらはシンクの周囲や足元に跳ね飛ばされ、後でジェビンが拭き掃除をしなければならない状態だったが、短時間に処理できる皿の量が格段に増えた。
「ああ、これね! コツがあってさ……」
ナビは褒められたことでパアァッと顔を明るくさせて、言った。
「バケツを二つ用意してさ、汚れた皿を入れたやつ、隣りにはキレイな水を張ったやつ。どんどん洗って、キレイな方に入れていけば、ゆすぐ時間も半分で済むんだ」
「へぇ、ナビにしては随分効率的な方法思いついたね」
「ナビにしてはって、何だよっ!」
思わず本音が漏れたオーサーに向かって、ナビは先ほどジェビンに食らわせたのと同様の、水しぶきの攻撃をお見舞いした。
「いやいや、でも物事を効率的に進めてくのは大事なことよ」
「あいつも同じこと言ってたよ! 二言目には『ナビヒョン、頭使いましょうよ』って、生意気に……」
すると、突然ナビがハッとしたように口を噤んだ。
「ん?」
気付いたオーサーが先を促す。
「……何でもない」
ナビはキュッと唇を結んで、オーサーから目を逸らした。
怒ったように、ガチャガチャと洗い物を続ける。
「『可愛い子には旅をさせよ』って諺、本当だったね」
ジェビンがそんなナビをフォローするように、優しく微笑みながら言った。
「成長してくれて、俺は嬉しいよ」
ナビはわずかに頬を染めて、また忙しなく洗い物に没頭した。