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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第1章【ペニー・レイン】
8/219

1-7


「今の、記録取りましたね?」


 チョルスは少年から手を離さぬまま、先ほどから、暗い取調室の片隅でペンを走らせていた、年老いた警官を振り返った。

 闇が微かに動いた気がして、その書記官が頷いたのだと分かった。

 ミンホはその時初めて、書記官の存在に気が付いた。それほど、完全に気配を消し去って、その書記官は取調室の闇に溶け込んでいた。陰鬱な空気に、まるで幽霊に遭遇したかのように、ミンホの背中を冷たい汗が伝う。


「“溜まり場”の奴等じゃ、ダメだ……」

「ああ?」


 ボソッと呟いた少年の言葉に、チョルスが耳を寄せる。


「“溜まり場”の仲間じゃない俺が、やっと……やっと頼んで、ようやく『ペニー・レイン』に行けるようになったんだ。俺が、ジスクを助けに行かなくちゃいけないんだ」

「何、ワケの分からないことを言ってるんだ?」


 チョルスは呆れたように返答する。


「お前は誰のことも助けたりできない。これから気が遠くなるほど長い時間を、塀の中で過ごすんだ」

 少年を乱暴にうち捨てて、チョルスが立ち上がる。

「行くぞ」


 苛立たしげにミンホに声をかけ、取調室を後にする。

 廊下を歩きながら、ミンホを振り返ることなく言った。 


「ボーっとするな。俺らの仕事がどういうもんか分かっただろ?」


 答えに窮するミンホを見て、チョルスは冷たく笑った。


「お前、俺が怖いか?」

「……いいえ」

「人を殴ったことは?」

「……あります」

「どこで?」

「大学のテコンドーの授業で、手が滑って……」


 情けないミンホの答えに、チョルスは思わず失笑した。


「ここは大学でもなければ、今は授業中でもない。これから何度も、手を滑らせなきゃならねぇ時が来るぞ」

「……はい」

「大丈夫かぁ? ボクちゃん」


 一瞬、思わずムッと鼻白んだミンホを見て、チョルスは声をあげて笑った。


「まあ、いいさ。今にお前も、素手で人を殴るのを何とも思わなくなる」


 そう言って踵を返すと、チョルスは自分より背の高いミンホを従えて歩きながら、思案するように顎に手をやった。


「……だが、よりによって『ペニー・レイン』とはな」

「え?」


 聞き返すミンホに、チョルスは足を止めずに告げる。


「厄介だって言ったんだよ……そのうち分かるさ」



***



 暗く重く、今にも落ちてきそうな空に、およそ不釣合いな明るい歌声が吸い込まれていく。

 ハスキーな子どものような声はよく響き、気分の乗ってきた彼が勝手なアレンジを加えてシャウトすると、通りで残飯を漁っていた猫たちが、ビクッと身体を震わせて逃げ出した。

 その様子を見ていた彼は、ちょっと心外だというように唇を尖らせて、再び鼻歌の続きを歌い始めた。


 彼の手にはモップが握られ、足元には水の入ったバケツがある。先ほどから彼は、大きく道路一面に広げられた黒いビニールシートの上を、熱心に擦って掃除している。これは、彼の大切な商売道具で、組み立てれば、大きな黒いテントに早変わりする代物だった。


 身体を揺らす度に、彼の左耳に下げられたドロップ型のピアスがキラキラと輝く。腰を軽快にスイングさせながらモップを操る彼は、黒いステージの上を自在に動き回るエンターティナーだった。何度目かのターンを決めて振り返った時、さっき逃げられたとばかり思っていた猫たちの中に、ただ一匹だけその場に居残り、ジッと彼を見つめている猫がいた。

 アバラが透けて見えるほどに痩せていて、灰色にくすんだ毛並みは、元がどんな色だったのかさえ分からない。


「さっすが、オンマ! お前はジャズの何たるかを分かってる!」


 感心して指を鳴らす彼に、猫は興味無さげに、ボリボリと耳の後ろの、もう大分薄くなってしまった毛を掻いた。

 その時、ふいに落ちてきた冷たい雨が一粒、上機嫌な彼の頬を打った。


「っあ」


 思わず手を止めて空を見上げる。

 限界まで雨を溜め込んだ雲が、辛抱できずに抱えた雨を地上に落とし始めた。


「……雨だ」


 彼は手にしていたモップを投げ出すと、ビニールシートの横に止めてある大きなキャンピングカーに向かって走り出した。


兄貴ヒョン! 兄貴ヒョン! 降ってきたよ」


 車に近付くほどに、うまそうな肉の焼ける匂いが漂ってくる。


「天気予報、外れたな」


 ジュージューと肉の焼ける音の合間から、低く楽し気な声がそれに答えた。


「急げよ、ナビ。開店準備だ」

「イエッサー!」


 飛び上がって手を叩きながら、肉の匂いが充満したキャンピングカーのステップに足をかける。

 そこで彼は思い立ったように、地面に広げたままの黒テントの向こうを振り返った。


「おいで! オンマ!」


 彼の声に誘われるまま、雨の中で身づくろいしていた灰色の猫は駆け足で黒テントを横切り、ステップを上がって彼の脇をすり抜けた。

 猫が車内に入ったのを確認すると、彼は二人と一匹を雨から匿ったキャンピングカーのドアを閉め、中へと消えて行った。



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