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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第3章【雨が止んでも】
79/219

3-8



「……ミンホ君」


 警察署の屋上からソウルの街を見下ろしていたミンホの背後から、クムジャが声をかけた。


「……姉さん」


 振り返ったミンホは気まずそうに目を逸らしながら、クムジャに向かって頭を下げた。


「……さっきは、すみませんでした」


 クムジャはミンホの横に並んで、一緒に外を行き交う人や車の波に目を落とす。


「……チョルスのことなんだけど」

「はい」

「誤解しないでほしいの」


 思わず顔を上げて覗いたクムジャの横顔は、いつも勝気で、自分たちをコテンパンに言い負かしている手強い姉御の顔ではなく、慈愛に満ちた優しい表情をしていた。


「荒っぽくて、口も悪いし手も早いけど、根は本当にいい奴なのよ。ただ、致命的に不器用なだけ。さっきもあんなに怒ったのは、犯人を取り逃がしたことだけじゃないのよ」


 クムジャが困ったような笑みを浮かべてミンホに向き直る。


「勿論、それもあるけど、チョルスが一番腹を立てたのは、ミンホ君自身に、命の危険があったかもしれないってことよ。それを分かって欲しかったのよ。現場では、自分で自分の身を守るしかないことばかりだから」


 ミンホはうな垂れるしかなかった。

 その通りだと思った。


「あなたが来る前、チョルスとコンビを組んでた先輩が大怪我したって話したことあったわよね。チョルスは入庁した時からそのソン先輩にベッタリでね、それこそ金魚のフンみたいに、どこにでも付いて回ってた。だから、あなたとコンビを組めって上に命令された時も、随分駄々こねて渋ったのよ。だけどね、あなたとこうして事件を追う中で、チョルスは変わったと思うわ。粗野なところは相変わらずだけど、あなたに対して先輩としての責任をちゃんと感じてる。ソン先輩に教わったことを、あなたに伝えようとチョルスなりに必死なんだと思うわ」


 分かってやってね――


 そう言うと、クムジャはフワリと優しい笑顔を浮かべた。

 ミンホは、他の場所では『狂犬』と恐れ罵られながらも、捜査課の中ではクムジャを始めとした理解者に囲まれ信頼を得ている、一人の刑事としてのチョルスの筋の通った姿に改めて尊敬の念が生まれるのを感じていた。


「……ごめんなさい。ありがとうございます、姉さん」


 ミンホがそう言って頭を下げると、クムジャはいつもの姉御の顔に戻って言った。


「お腹が空いて、気が立ってたのもあると思うわ。子どもと一緒だから。降りてくるなら、お昼過ぎがチャンスよ。あいつの機嫌もいい加減直ってるでしょ。ニワトリと一緒だから、怒りも持続しないわよ」


 そう言ってカラカラ笑うと、クムジャはミンホを置いて屋上を後にした。



 クムジャの背中を見送ってから、ミンホは屋上の柵にもたれて、晴れ渡った空を見上げる。

 そう、刑事が現場で気を抜いていい筈がない。

 もういい加減、気持ちを切り替えなくては。

 ミンホは自分の気持ちを整理するために『心ここにあらず』の原因を作り出した張本人の姿を、青い空に思い描いてみる。


 明慶大学のダンスパーティの夜、連行されるヒョンスを見て泣くナビを思わずこの腕に抱きしめた。

 見慣れない『女装ドレス姿』に、正直に言うと気持ちが混同していた感も否めない。


 あの人は“男”だ。それはちゃんと分かっている。


 だがあの時は、そうせずにはいられなかった。

 抱いて、あの華奢な背中を落ち着くまで擦ってやりたかった。

 意地っ張りで、可愛げがなくて、言動も容姿も何もかも子どもみたいなくせに、やたらと年上であることを誇示しようとする。

 見ていると危なっかしくて、ハラハラして、イライラして、放っておけなくなる。

 何をしでかすか分からないから、常に見ていなくちゃ、その背中を視界に納めていなくちゃ、そんな調子で二週間を過ごしたから、目を煩わせるその存在が不意に無くなってしまうと、どうしていいか自分でも分からなくなった。


 全ての捜査を終え、店を畳んだ状態での『ペニー・レイン』――つまり、キャンピングカー――の前でチョルスと二人で別れの挨拶をした時、ナビは自分の爪先に視線を落としたまま、なかなか顔を上げようとしなかった。



「……協力、ありがとうございました」



 仕方なく、ミンホの方から先にナビに声をかけた。ナビは唇を尖らせながら爪先を見つめたままだったが、やがてポツリと聞き取れない程の小さな声で呟いた。



「……結構、楽しかったよ」



 そう言うと、突然ガバッと顔を上げ、ニカッという効果音がピッタリの屈託のない全快の笑顔で言った。


「またなぁっ!!」


 耳元で炸裂した鼓膜がおかしくなるくらいのボリュームのハスキーボイスにミンホが目を白黒させている隙に、ナビはジェビンの待つキャンピングカーにさっさと乗り込んでしまった。

 その横を、灰色猫の“オンマ”が、まるでミンホを小馬鹿にするような優雅な仕草で通り過ぎ、当然という顔をしてナビの膝の上に収まった。

 気のせいか、意地の悪い目をしたこの猫は『ペニーレイン』と共に着いていける筈も無いミンホを助手席の上から見下ろして、「諦めろ」と告げているように見えた。

 砂埃を巻き上げて、キャンピングカーが走り出す。


「ナビヒョン!!」


 思わず叫んで開いた車の窓を見上げたミンホに、ナビはあの独特の声で笑いながら、手を振った。



 またな?――

 簡単に言うけど、本当に『また』会える?



 雨の時にしか、姿を現さない。

 簡単に捕まえられない『ペニーレイン』。

 雨と一緒に生きるジェビンとナビ。

 捜査を終え、ジェビンの隣りに帰って、心底嬉しそうに笑うナビ。

 二週間の間、自分にそんな顔を見せることはなかったのに。


 何に対してか分からない悔しさと、心に穴があいたような寂しさを抱え、ミンホもまた日常へと帰っていったのだった。




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