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「ありがとう、ユリ」
ヒョンスは腕の中のユリを見つめたまま微笑んだ。長い間ずっと側にいたのに、こんなに近い距離で彼女を見ることはなかった。
「何で、お礼?」
ユリはヒョンスに手を取られたまま、気まずそうに顔を背ける。
「僕に、天国を見せてくれたから」
「え?」
バイオリンとピアノの音色が競うように掛け合いを始め、曲のクライマックスが近いことを告げる。
「君がいる場所が、僕には天国だったんだ」
ビリビリと弦を爪弾く、長く尾を引くすすり泣きのようなバイオリンの音を残して、ワルツが終わる。
その時、バンッと鋭い音がして、講堂の扉が蹴破られた。
「動くなっ! 警察だ!」
そこかしこで上がる悲鳴。
一斉に中に雪崩れ込んできた警察と学生の間で、あっという間に小競り合いが始まる。
「何なのっ? どうして、こんな!」
パニックになるユリの背を支えながら、ヒョンスはその時を静かに待っていた。
「ユリ」
ヒョンスに名を呼ばれ、ユリが顔を上げる。
「……ごめんね」
「え?」
その時、ユリの背後でカシャリと冷たい金属音がした。
「イ・ユリ。覚せい剤使用容疑で逮捕する」
「……っな?!」
言葉を失うユリの胸元から、ポトリと小さな紙包みが落ちた。
先ほど、ヒョンスからガンホへ、そしてユリへと手渡されたものだった。
「ちょっ、離せっ! 何のマネだよっ!」
遠く倉庫の前では、大勢の学生が複数の警察に取り押さえられている。その中に、一際大声で怒鳴り散らしながら暴れるガンホの姿があった。
「さ、早く来い」
警官に背中を押されたユリは、青ざめた唇を震わせて、ヒョンスを見上げた。
「……あんた……あんたが、呼んだのね?」
ヒョンスはそんなユリの視線を真正面から受け止めた。
「私を売ったのねっ! どうして? 私のこと、好きじゃないの?」
「好きだよ」
「だったら、何でっ!」
「愛してる」
ヒョンスは手を伸ばして、ユリの頬に触れた。
「……愛してる、ユリ」
そのままそっと、震えるユリの唇に触れるだけのキスをした。目を見開き抵抗するユリに唇を噛まれ、ヒョンスの口の中には苦い血の味が広がった。
「許さないからっ、ヒョンスッ! あんたが、あんたが私を裏切るなんて……あんたは、あんただけは……私を……裏切っちゃいけないのに……」
ユリの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。金切り声でヒョンスを罵倒し叫んでいたのは最初だけで、次第にその声は弱々しい啜り泣きに変わっていった。
「言ったよね、ユリ。君のいる場所が、僕の天国だって」
ヒョンスはそんなユリに優しく微笑む。
「……コ・ヒョンスだな?」
その時、ヒョンスの背後から伸びてきた腕が、突然ヒョンスの肩を掴んだ。
「え?」
唖然とした顔でヒョンスを見上げるユリに、ヒョンスはもう一度柔らかい笑みを浮かべると、静かに後ろを振り返った。
「――ノ・ミラの、死体遺棄容疑で逮捕する」
抵抗することなく差し出したヒョンスの手首に、カシャリと冷たい金属音が降ってきた。
「ヒョンスッ!」
「愛してる」
ヒョンスは肩越しに、もう一度ユリを振り返って言った。
「……君がいる世界が、僕の天国」
***
ナビは騒然となる学生たちのワルツの輪の中で、連行されていくヒョンスの背中を見送った。
ヒョンス自身が決めたことだから、もうどうすることもできない。それでも、やりきれなくて堪らなかった。
「……ナビヒョン?」
気付いたら、まだミンホに手を取られたままだった。
「離せよっ!」
泣き出しそうなのを気付かれたくなくて、ナビは乱暴に手を振りほどこうとした。
しかし、ミンホはそんなナビの手を離してはくれなかった。
「何だよっ! 離せって言ってるだろ」
「まだ終わってませんから」
「……何が?」
「ワルツ」
ミンホはすました顔で告げる。
「何言って……もうとっくに……」
「聞こえませんか?」
そう言われても、とっくに音楽は鳴り止んで、周囲は雑然とした学生たちの声しか聞こえない。
「よく、耳を澄ませてみて。僕には聞こえますよ」
そう言われてナビも意識を集中させると、学生たちのざわめきの間から、一定の強いリズムで講堂の屋根を叩く、雨の音が聞こえてきた。
「……あ」
思わず声を漏らすのと同時に、これまでの緊張の糸がプツンと切れて、ナビはなぜだか急に目頭が熱くなってきた。
ふっ、ふっ、と涙をこらえるために漏れてしまう声を聞かれたくなくて、ナビはミンホの胸を叩いて言った。
「……見るなよ」
するとミンホは、ナビの後頭部に手をやり、そのままグッと自分の胸にナビの額を押し付けた。
「見えません」
それは逆効果で、ナビはとうとう溢れてくる涙を止められなくなり、ヒックヒックとしゃくり上げ始めた。
「……聞くなよ」
ナビの頭に回していたミンホの手が、優しくナビの髪を撫でる。
「雨の音で、聞こえません」
屋根を叩く雨の音を聞きながら、ミンホは肩を震わせて泣くナビを、いつまでも優しく抱きしめていた。
第二章【スコールワルツ】完