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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第2章【スコールワルツ】
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2-44

「ありがとう、ユリ」


 ヒョンスは腕の中のユリを見つめたまま微笑んだ。長い間ずっと側にいたのに、こんなに近い距離で彼女を見ることはなかった。


「何で、お礼?」


 ユリはヒョンスに手を取られたまま、気まずそうに顔を背ける。


「僕に、天国を見せてくれたから」

「え?」


 バイオリンとピアノの音色が競うように掛け合いを始め、曲のクライマックスが近いことを告げる。


「君がいる場所が、僕には天国だったんだ」


 ビリビリと弦を爪弾く、長く尾を引くすすり泣きのようなバイオリンの音を残して、ワルツが終わる。

 その時、バンッと鋭い音がして、講堂の扉が蹴破られた。


「動くなっ! 警察だ!」


 そこかしこで上がる悲鳴。

 一斉に中に雪崩れ込んできた警察と学生の間で、あっという間に小競り合いが始まる。


「何なのっ? どうして、こんな!」


 パニックになるユリの背を支えながら、ヒョンスはその時を静かに待っていた。


「ユリ」


 ヒョンスに名を呼ばれ、ユリが顔を上げる。


「……ごめんね」

「え?」


 その時、ユリの背後でカシャリと冷たい金属音がした。


「イ・ユリ。覚せい剤使用容疑で逮捕する」

「……っな?!」


 言葉を失うユリの胸元から、ポトリと小さな紙包みが落ちた。

 先ほど、ヒョンスからガンホへ、そしてユリへと手渡されたものだった。


「ちょっ、離せっ! 何のマネだよっ!」


 遠く倉庫の前では、大勢の学生が複数の警察に取り押さえられている。その中に、一際大声で怒鳴り散らしながら暴れるガンホの姿があった。


「さ、早く来い」


 警官に背中を押されたユリは、青ざめた唇を震わせて、ヒョンスを見上げた。


「……あんた……あんたが、呼んだのね?」


 ヒョンスはそんなユリの視線を真正面から受け止めた。


「私を売ったのねっ! どうして? 私のこと、好きじゃないの?」

「好きだよ」

「だったら、何でっ!」

「愛してる」


 ヒョンスは手を伸ばして、ユリの頬に触れた。


「……愛してる、ユリ」


 そのままそっと、震えるユリの唇に触れるだけのキスをした。目を見開き抵抗するユリに唇を噛まれ、ヒョンスの口の中には苦い血の味が広がった。


「許さないからっ、ヒョンスッ! あんたが、あんたが私を裏切るなんて……あんたは、あんただけは……私を……裏切っちゃいけないのに……」


 ユリの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。金切り声でヒョンスを罵倒し叫んでいたのは最初だけで、次第にその声は弱々しい啜り泣きに変わっていった。


「言ったよね、ユリ。君のいる場所が、僕の天国だって」


 ヒョンスはそんなユリに優しく微笑む。


「……コ・ヒョンスだな?」


 その時、ヒョンスの背後から伸びてきた腕が、突然ヒョンスの肩を掴んだ。


「え?」


 唖然とした顔でヒョンスを見上げるユリに、ヒョンスはもう一度柔らかい笑みを浮かべると、静かに後ろを振り返った。


「――ノ・ミラの、死体遺棄容疑で逮捕する」


 抵抗することなく差し出したヒョンスの手首に、カシャリと冷たい金属音が降ってきた。


「ヒョンスッ!」

「愛してる」


 ヒョンスは肩越しに、もう一度ユリを振り返って言った。


「……君がいる世界が、僕の天国」



***



 ナビは騒然となる学生たちのワルツの輪の中で、連行されていくヒョンスの背中を見送った。

 ヒョンス自身が決めたことだから、もうどうすることもできない。それでも、やりきれなくて堪らなかった。


「……ナビヒョン?」


 気付いたら、まだミンホに手を取られたままだった。


「離せよっ!」


 泣き出しそうなのを気付かれたくなくて、ナビは乱暴に手を振りほどこうとした。

 しかし、ミンホはそんなナビの手を離してはくれなかった。


「何だよっ! 離せって言ってるだろ」

「まだ終わってませんから」

「……何が?」

「ワルツ」


 ミンホはすました顔で告げる。


「何言って……もうとっくに……」

「聞こえませんか?」


 そう言われても、とっくに音楽は鳴り止んで、周囲は雑然とした学生たちの声しか聞こえない。


「よく、耳を澄ませてみて。僕には聞こえますよ」


 そう言われてナビも意識を集中させると、学生たちのざわめきの間から、一定の強いリズムで講堂の屋根を叩く、雨の音が聞こえてきた。


「……あ」


 思わず声を漏らすのと同時に、これまでの緊張の糸がプツンと切れて、ナビはなぜだか急に目頭が熱くなってきた。

 ふっ、ふっ、と涙をこらえるために漏れてしまう声を聞かれたくなくて、ナビはミンホの胸を叩いて言った。


「……見るなよ」


 するとミンホは、ナビの後頭部に手をやり、そのままグッと自分の胸にナビの額を押し付けた。


「見えません」


 それは逆効果で、ナビはとうとう溢れてくる涙を止められなくなり、ヒックヒックとしゃくり上げ始めた。


「……聞くなよ」


 ナビの頭に回していたミンホの手が、優しくナビの髪を撫でる。


「雨の音で、聞こえません」


 屋根を叩く雨の音を聞きながら、ミンホは肩を震わせて泣くナビを、いつまでも優しく抱きしめていた。




第二章【スコールワルツ】完


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