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優しげな音色に合わせて、柔らかい男性ボーカルの声が穏やかなメロディを紡ぐ。
「何だ? これ?」
「いつの曲よ? こんなんじゃ踊れない」
あっという間に、フロア全体に不満の声が広がる。
「ユリ? どうしたの?」
客たちと一緒になって、口々にブーイングしていた取り巻きの少女の一人が、ユリの様子がおかしいことに気付いて彼女の顔を覗き込む。
「……この曲……」
ユリは呆然とブースを見つめている。
「ちょっと、ユリ。大丈夫?」
その途端、ユリは未だざわめくフロアの客たちを押しのけて、ブースに駆け寄った。ユリに体当たりされた客たちが、口々に抗議の声を上げるが、ユリはお構いなしだった。
「やめてっ! 曲を止めてっ!」
ユリはブースに飛び込むなり、DJに掴みかかった。
「何で? いい曲でしょ?」
DJの隣りの椅子で膝を抱えて座っていた女が、ユリを見上げて微笑む。
「あんた、この曲どこで?」
ユリはDJから手を離し、今度は女の襟首を掴んだ。
「ヒョンスの好きな曲だよ。運動音痴の自分でも、この曲だったら踊れるんだって言ってた。一緒に踊ろうって」
「嘘よっ! あんたなんかとあいつが一緒に踊りたがる筈ない。この曲は、あいつが初めて……」
「初めて……何?」
ジッとユリを見上げる女の視線が痛い。
ユリは乱暴に女から手を離すと、ヒステリックに叫んだ。
「誰か、この女を摘み出してっ! 早くっ!」
慌てて黒服たちが駆け寄ってくる。
女は敢え無く、両腕を掴まれて、店の外へ運ばれた。
ご自慢の肩パットがズレて、より滑稽な格好になっていたが、女は満足そうに小鼻を膨らませ、やり遂げたような笑みを浮かべていた。
*
(ユリ?――)
(入って来ないでよ)
雨の日曜日。
外出禁止を食らったユリは、自室の出窓に肘をついて、涙の滲む目で恨めしげに外を睨みつけていた。
中学に上がったばかりのユリだったが、その美貌は入学前から知れ渡っており、制服を着崩して身につけるような、いわゆる“不良”と呼ばれる集団から目を付けられていた。その中には、ユリが憧れる先輩もいて、その彼から週末にクラブに誘われた時、ユリは天にも昇る心地がした。
父親の目を盗んで、ベッドの中で初めての化粧をしていそいそと下準備に励んだが、十時を過ぎていざ二階の窓から抜け出そうとしたところを、帰宅間際の住み込みの家政婦に見つかってしまった。
当然、それは直ぐに父親の知るところとなり、ユリはこっぴどく叱られ、一ヶ月という、中学生のユリにとっては永遠とも言えるような長きに渡る“外出禁止”の罰を与えられた。
自室で塞ぎ込むユリを心配して、関係のないヒョンスまで付き合ってここのところ外出していなかったが、ユリはそのことに気付いてはいなかった。
(おじさん、出かけたよ)
(あっそ)
(ちょっと、出て来ない?)
ヒョンスの言葉に、ユリはガバッと顔を上げる。
(あんた、協力してくれるの? 私を外に出してくれる?)
部屋のドアを開けて、ヒョンスの肩を掴む。
(外に出るのは無理だよ。おじさんはいないけど、お手伝いさんが見張ってる)
(何よ、情けないわね)
ヒョンスは何も悪くないにも関らず、八つ当たりをしたユリは乱暴にヒョンスの身体を突き放す。
(でも、リビングまでなら大丈夫だよ)
(リビングに行って、何するのよ)
(着いて来て)
ヒョンスは微笑んで、ユリの手を取る。退屈で死にそうだったユリは、バカらしいと思いつつも、ヒョンスの後に続いて階下へ降りて行く。
(見て、これ)
リビングに着くと、ヒョンスは部屋の隅で埃を被ったLPレコーダーのカバーを外した。それは、ユリとヒョンスが、「オモチャではないから」と、固く触れるのを禁止された、父親の宝物だった。
(ちょっと、かけてみない?)
そう言うとヒョンスは、棚の陰から、大判のレコードまで取り出した。
(あんた、それどこから?)
(おじさんの書斎から、ちょっとだけ借りてきたんだ)
ヒョンスは肩を竦めて見せる。
(バレたら、殺されるわよ)
そう言いながら、ユリは徐々に愉快な気持ちになってきた。真面目なヒョンスが、こんな冒険をするなんて。
(本当に音出るの?)
(見てて)
そう言うと、ヒョンスはプレーヤーの蓋を開けて慎重にレコードをセットすると、静かに針を落とした。
ジジ……ジジ……
外の雨音に良く似た音が、しばらくリビングに響いた後、古めかしいが温かいメロディが流れてきた。
(あ!)
ユリは思わず歓声を上げて、ヒョンスを見た。ヒョンスがニッコリと微笑む。
(踊ってみる? ユリ)
(ここで?)
(クラブみたいにはいかないけどさ)
そう言って、ユリに片手を出しだす。
ダサい……いつもなら、そう言って鼻で笑ってやるのだが、雨音の中のダンスはしっとりと気分が良くて、ユリは素直にその手を取った。
(何て曲なの?)
(『悲しき雨音』)
(イケてない曲ね)
(僕にはこれくらいが丁度いいよ。初めての僕でも、ちゃんと踊れる)
(ちゃんと踊れてないわよ、さっきから私の足踏んでる)
ぎこちないそのダンスに文句を言ってやれば、ヒョンスは照れくさそうに頭を掻いた。
(ごめん。もっと練習するよ)
(バカね。こんなダンス踊る機会なんて、そんなに無いわよ)
(痛っ)
(何?)
(ユリも、今僕の足踏んだ)
(何よ、文句あるの? 仕方ないじゃない。私も初めてなんだから)
一瞬顔を見合わせた後、ユリはクスクス笑いだした。それにつられて、ヒョンスも笑う。二人は互いの肩に自分の額をつけて、即席のダンスホールに変えたリビングで、二人だけのつかの間のダンスを楽しんだ。
「馬鹿な奴……あんな、昔のこと」
「ユリ?」
カウンターで濃いカクテルを喉に流し込みながら、ユリは唇を噛む。
もう忘れかけていたあの日の雨音が、ユリの心を乱していた。