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肩で息をしながら、ミンホはようやくホテルの部屋の前に辿り着いた。
目の前で地下鉄の電車のドアが閉まり、無常にもあと一歩のところでナビに追いつけなかった。
次の電車が来るなり飛び乗って、駅から全速力でホテルまで走ってせいで、目の前が酸欠でチカチカしている。
よろめきながら部屋のドアノブに手をかけた途端、思い切り戸が内側に開いて、バランスを崩したミンホは部屋の中へ倒れこんだ。
「あれ? 何だ、お前も帰ってたの?」
足元に転がるミンホを見下ろして、ナビはキョトンとした表情を浮かべる。
華奢なその両肩には、どこへ旅行に行くのか? と問いたくなるような大ぶりのショルダーバックが下がっている。
「……帰ってたの? じゃないですよ……あなた、今度は一体何をしでかす気なんですか?」
息も絶え絶えになりながら、ミンホはナビを見上げる。
「ふふふ、ちょっとね。恋のキューピットってヤツ?」
手をグーの形にして口元に当て、肩を竦めるナビは可愛らしくはあったが、ミンホには、浅はかさ加減に関しては自分の想像の域をはるかに超えたこの男が、その小さなオツムで何を企んでいるのか、恐ろしいばかりだった。
「ねぇ、ユリの取り巻きたちが入り浸ってるクラブの名前って、“ソメチメス”でいいの?」
「は?」
理解の範疇を超えすぎて、とうとう宇宙語までしゃべり始めたのか、ミンホは一瞬本気でそう思った。
「ほら、これ。“ソメチメス”」
そう言って、幼く拙い字で書き写された英字のメモを、倒れているミンホの目の前に晒す。
そこには、“sometimes”と書かれていた。
「“サムタイムス”でしょ! あなた、こんな簡単な英語も読めないんですか!?」
心底衝撃を受けて叫ぶと、ナビは耳の後ろを掻いて聞こえないフリをした。
「ちょっと、ナビヒョン。あなた、どこでこの店の名前を? さては、僕の調査資料、勝手に読みましたね?」
「さぁてと、そろそろ行かないとなぁ」
「ちょっと待て!」
「じゃね、ミンホ。今夜は遅くなるけど、心配しないで」
スチャッと敬礼のポーズを取るなり、猫のようにドアの隙間をすり抜けていく。咄嗟に、目の前にあった細いジーンズの足を掴もうと伸ばしたミンホの腕が、虚しく空を掻いた。
「ナビヒョンッ!」
ホテルの廊下に、ミンホの悲痛な叫びがこだました。
***
夜更けと共に盛り上がりを見せる地下のクラブの入り口に立った黒服は、近づいてくる異様ないでたちの女に、職務を忘れて思わずアングリと口を開けた。
戦闘服のような、厚い肩パットの入った濃いピンクのド派手なボディコンスーツを着込み、クネクネと腰を振ってシナをつくりながら歩いてくる。
肩まで真っ直ぐに伸びた髪を気取った仕草で後方にかきあげながら、女は黒服に向かって、ウインクを投げた。
パツンと一直線に切られた厚い前髪の下から見え隠れする眉毛は太く濃く、真っ赤なルージュと相まって、まるで八〇年代のディスコ全盛の時代からタイムスリップして来たように見える。呆気に取られたまま思わず入口を通しそうになった時、黒服はハッと我に返った。
「ちょっと、困ります」
「え?」
女はなぜ自分が止められたのか分からないといった様子で、怪訝な顔で黒服を見上げる。近くで見ると、その化粧はより強烈だった。
「誰かの紹介が? ここは会員制だから、初めての客はお断りなんですよ」
「あんた、本気で言ってんの?」
裏声のような妙なソプラノの掠れた声が、黒服に向かって抗議する。
「まさか、アタシを知らないの? “明慶大のダンシング・クイーン”の、このアタシを?」
「……ダンシング・クイーン?」
今時そんな通り名があるものか。
もしかしたら、頭が少々イカれた女なのではないか? 黒服が別の意味で薄気味悪くなっているところへ、女とは180度異なる、今ドキの女子学生の集団がタクシーから続けざまに降りて来た。
「ちょっと、何してんのよ」
「邪魔よ。入れないじゃない」
少女たちは、店の入口で押し問答しているこの妙な女と黒服に向かって、口々に文句を言った。
「すみません。どうぞ、お入りください」
黒服はすぐに脇に避けて、顔パスらしい彼女たちのために道を開ける。
ボディコン女は図々しくも、彼女たちの後に続いて何食わぬ顔で入って行こうとする。
「だから、あんたはダメだって!」
「アタシを通さないなんて、このクラブの恥になるわよ」
「何なのよこの女?」
鼓膜を刺激する女のソプラノに反応して、地下への階段を下りかけていた少女たちが振り返る。
「さっきから、困ってるんですよ。“明慶大のダンシング・クイーン”だそうで」
「明慶大? こんな女見たことないわよ」
見たら絶対、覚えてる。
そう言って鼻で笑う少女に、周囲も追随して嘲笑の輪が広がる。
「これだから、モグリは困るのよ」
「……モグリ?」
使う言葉がいちいち古めかしい。
それを、女は何よりもイケていると勘違いしていそうな様子が痛々しいほどだ。
「あんたたち、イ・ユリは知ってるでしょ?」
女の言葉に、少女たちの顔色が変わる。
「私はユリの親友よ。ユリの親友を追い出したってバレたら、後でどうなるかしらね?」
少女たちは途端に不安げな顔で互いの肘を小突きあう。
「嘘に決まってる」
「ユリがこんなダサい女と、親友なワケないじゃない」
だが、疑念はさざ波のように広がっていく。
「あんたたち、何してるの?」
その時、一台のタクシーが店の前に止まり、中から着飾ったユリが降りて来た。