2-31
***
大学の構内は、いよいよ三日後に迫った学内ダンスパーティの準備で活気づいている。ここ数日は、課業後になると、大看板の制作に取り掛かる学生が金槌を振り下ろす音や、パーティの合間に余興として披露される学生バンドの音楽などが、暗くなるまで続いていた。
ナビは中庭のベンチに座って、慌しく働く学生たちの姿を眺めていた。
「ナビヒョン?」
その時、ナビの前を通り過ぎて行った長身の男が、そのまま後ろ向きで戻ってきた。
「……何だ、ミンホか」
ナビはどこか虚ろな目をしたまま、その男を見上げた。
「ダサすぎて、気付かなかった」
無表情で見つめる先には、最近ではすっかり『野暮ったさ』が板に着き、もはや美男子の面影を完全に捨て去ったミンホが立っていた。
今日の彼は、緑色の大きなナップザックを背負い、よれよれのTシャツにカーキ色のハーフパンツ、足元は素足にビーチサンダル、そしていつもかけている牛乳瓶の底メガネという、いでたちだった。
「仕方ないでしょ。僕は血を見たくありませんから」
「血?」
キョトンとするナビに、ミンホは自分の背後を親指で差し示した。
「あれですよ、あれ」
それは、製作途中の大看板だった。バンダナで髪をまとめた女子学生が、手に大きな刷毛を持ち、黒いペンキで文字を入れている。
ラストダンスは、あなたと――
文字は、そう読めた。
「この学校に伝わるジンクスらしいですよ。ラストダンスで踊ったカップルは、結ばれるって言う……」
そう言えば、以前ヒョンスも同じようなことを言っていた気がする。
「それが何で、血を見ることになるわけ?」
察しの悪いナビに、ミンホは深い溜息をつく。
「ラストダンスって、一曲ですよね?」
「ラストって言うぐらいだからね」
何を当然なことをと、ナビは呆れた顔をする。
「一曲ってことは、相手は一人しか選べないってことですよね」
「まあ、そうだよね」
「選ばれる者、選ばれざる者。争いは、避けられません」
ミンホが再び、深い溜息を吐いたところで、ようやくナビは気がついた。
しかし、答えが分かって合点した顔はほんの一瞬で、すぐにムスッと頬を膨らませた。
「……フンだ。モテる男は辛いね」
「何ですか、ナビヒョン。元気のない原因はそれですか? いつもバカみたいにうるさくて、百メートル先からでも嫌でも目に入る自己主張の強いあなたが、さっきは完全に気配を消してボーッとしてたから、思わず気付かずに通り過ぎてしまいましたけど。具合でも悪いのかと思ったら、相手がいなくて拗ねてたんですね」
「っな?! 違うよっ!」
訳知り顔のミンホに、ナビは顔を真っ赤にして抵抗する。
「ちょっと考え事してただけだよ。ダンスパーティのことなんか、忘れてたよ」
「考え事?」
黙りこんでいてもその表情から、ミンホにはナビの考えていることが手に取るように分かった。
「……ヒョンスのことですね?」
ナビは曖昧に首を傾げながら、ブラブラとベンチに腰掛けた足を揺らした。
「噂をすれば、ですよ」
ミンホはそう言って、ナビの背後へ顎をしゃくった。
「さっきのあなた以上に、浮かない顔ですね」
ナビが顔を上げて振り向くと、そこにはこの中庭で別れて以来、久しぶりに見るヒョンスの姿があった。
「ヒョンスッ!」
ナビは立ち上がり、背中を丸めて歩くヒョンスの元へ走り出した
「……ナビ」
ヒョンスはナビたちに気がつくと、気まずそうな顔をして一瞬逃げる体勢を取ったが、駆け寄った勢いのまま抱きつくように肩を押さえるナビと、その後を追ってきたミンホにさりげなく退路を絶たれ、その場に留まらざるを得なかった。
「ねぇ、ヒョンス。本当に大丈夫なの?」
「……何が?」
「この前学校に来た時から、何か変だよ? ユリとはあれからちゃんと話せたの?」
真正面から自分を見据える真っ直ぐなナビの目に、ヒョンスは居心地悪そうに顔を背けた。
「何か悩んでることがあるなら、話してよ。力になれるかもしれない」
「……何も、ないよ」
そう言って逸らした視線の先には、ミンホの目があった。
「恋の悩みですかね?」
ミンホの視線には、ナビとは違い、見透かすような冷たさがあった。
「あのお嬢さんに関わること……そうですよね?」
本当に言いたいことは別にあると、暗に仄めかされているのがヒョンスには分かった。
「……何、言って……」
どう逃れようか、そんなことに頭を巡らせ始めた時、横から場違いな声が降ってきた。
「なぁんだ! そう言うことか」
素っ頓狂な明るさを含んだ声に、ヒョンスと一緒にミンホも唖然としてナビを振り返る。
「ユリをラストダンスに誘えなくて、しょげてるんだ。そうでしょ?」
「へ?」
「はぁ?!」
ナビの言葉に、ほぼ同時に二人は呆れた声をあげた。
「水臭いな。言ってくれれば、もっと早く協力したのに。だって、ジンクスなんでしょ? ラストダンスで踊ったカップルは結ばれるって。こんなチャンス逃す手はないよ! ガンホからユリを取り返さなくちゃ」
呆気に取られている二人にはお構い無しに、ナビは勝手に乗り気になって、黒目勝ちな目をキラキラと輝かせる。
「ね? お前もそう思うだろ。ミンホ」
「え? ああ……まぁ」
同意を求められたミンホが、勢いに押され、顔を引き攣らせながらも渋々頷く。
「僕に任せて、ヒョンス。絶対ユリが、君とダンスを踊りたくなるようにしてあげるから」
「え? あの……えっと……」
「こうしちゃいられない。じゃあね、ヒョンス。期待して待ってて!」
ナビはそう言い残すと、クルリと背を向けて全速力で駆け出して行った。
「ちょっとっ! ナビヒョンッ!」
慌てたミンホが追いかけようとした時には、既にナビの背中は米粒大まで小さく遠ざかっていた。
「すみません、僕もこれで。あの人、放っておくと何をしでかすか分からないんで」
ずり落ちてくる眼鏡をクイッと引き上げて、ミンホも背中のナップザックを揺らしながら駆け出していく。
嵐のような二人を、残された当のヒョンスだけが、ただ呆然と見送っていた。