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終業のベルとともに校舎から吐き出されて来た学生で、中庭はごった返していた。
ナビはミンホとの待ち合わせ場所であるいつものカフェテリアに向かって歩いて行く途中で、不意に見覚えのあるヒョロッと細長い華奢な背中を見つけた。
「ヒョンスッ!」
ナビは叫んで、その背中を追った。
「ヒョンスッ! 待ってよ、何で逃げるの?」
ナビは息を切らしながら必死で追いかけ、その手首を掴んだ。
「……一週間も休んで、一体どうしたんだよ? 心配したんだよ」
「ちょっと……忙しかったんだ」
ヒョンスは故意にナビから目を逸らす。ちょっと見ない間に、随分顔色も悪くなり、やつれてしまったようだった。
「具合悪そうだよ? 大丈夫なの?」
「……ナビ、ごめん。僕、急がなきゃいけないから」
そう言って、ナビの腕を振りほどこうともがく。
その時だった。
ヒョンスが不意に動きを止めた。
「ユリッ!」
ナビの肩越しに見つけたその人影に向かって、ヒョンスは叫んだ。
「え? ちょっと、ヒョンス?」
ナビが止める間もなく、ヒョンスは人ごみを掻き分け、ユリの元へ走り出した。
「ユリッ! 家に帰る約束だろ? あの時、ちゃんと約束しただろ? まだ、ガンホのところへ?」
「ちょっ! 離してよっ! みんな見てるでしょ。みっともないわね」
ヒョンスに腕を掴まれたユリは、金切り声を上げながら身を捩る。ヒョンスはユリの腕を掴み、湿度も高くだいぶ蒸し暑くなっているというのに、長袖を着込んだユリの腕を無理やり捲くった。
「……これ」
「やめてよっ!」
ユリは叫んで、ヒョンスの腕を振りほどくと、素早く袖を下ろした。
「あの時、約束したはずだよ。もう止めるって。家にもちゃんと帰ってくるって」
ヒョンスはユリの肩を掴み、声を落として言った。
「……だから、俺……」
「よぉ、どうした? 親友」
その時、ガンホが人ごみの中から顔を出し、ヒョンスの手からユリを奪った。
「ちゃんと学校には来なきゃダメだぜ。なぁ?」
ガンホはヒョンスの肩をドスンッと拳で一つ強く殴ると、ユリの背中を抱いて背を向けた。
「ヒョンス……大丈夫?」
駆け寄ってきたナビに、ヒョンスは力なく笑って見せた。
「ごめん、ナビ。俺、もう行くね」
「ヒョンスッ!」
そう言うと、ヒョンスは早足に人ごみの中へと消えていった。
***
断末魔の叫びとは、こういった声のことを言うのだろうか。
何度聞いても慣れることがない。
聞いているこちらの方が気が変になりそうな叫び声に顔を歪めながら、チョルスは廃材置き場の腐った床を踏み抜かないように注意しつつ、ジェビンに持たされた弁当をドアの前に置いた。
さっさとこの場から逃げ出そうとクルリと方向転換した時、不意に目の前のドアが開いて、中から汗でドロドロになった上半身裸のオーサーが顔を出した。
「……オマワリさん、待って……水」
そう言うと同時に、チョルスの腕の中に倒れこんで来る。
「おおっ……おい、大丈夫かよ?」
慌てて支えたチョルスの腕の中で、オーサーは差し出されたミネラルウォーターをゴクゴクと一気に飲み干した。
「……何か、尋常じゃないくらい消耗してないか?」
水を飲み干しようやく一息ついたオーサーが、口元を手の甲で拭いながら皮肉気に笑う。
「そりゃ、消耗もするでしょ。夢のリゾート地、済州島から帰って来た途端に、休む間もなく、あの麗しのオーナー様にこんなにこき使われてるんだから」
「お前、それを言うなら俺の方がよっぽど痛い目に合ってるんだぞ。お前がトンズラしてる間に、俺がどれだけジェビンに……」
言いながら、ここ二週間ばかりの『ペニーレイン』において、ジェビンから受けた地獄のシゴキの数々を思い出し、チョルスは思わず身震いした。
「悪かったって言ってるでしょ。だから、ちゃんとお土産も買って来たじゃない」
「あんな趣味の悪いアロハ、どこで着ろってんだ?」
「えー? オマワリさんの普段着よりよっぽどいい趣味だと思うんだけどぉ」
不服そうに口を尖らせるオーサーを、一瞬本気で殴ってやろうかと拳を振り上げかけたが、減らず口を叩きながら未だ肩で息をしているオーサーを見て、チョルスはグッと涙を呑んだ。
「ねぇオマワリさん、ちょっとこれ見てよ」
オーサーはポケットから、小さな紙包みを取り出してチョルスの前で床に広げた。
「今、あそこの部屋で寝てる子が持ってたモンなんだけど、分かる?」
そう言って、親指と人差し指で白くザラザラした粉を掬って、その粉末を空中に散らす。
「混ぜモンの割合が、増えてんの。最初のヤク中の学生が持ってたモンより、更に混合物増やしてカサを増して、量産してるんだろうな」
「……誰が?」
チョルスの問いに、オーサーはきょとんとチョルスを見つめ返す。
そして、ニッコリと微笑んだ。
「誰って……それは、オマワリさんが一番良く知ってるんじゃない?」
チョルスは思わず舌打ちする。
見透かしてやがる。
そう思った。
「その、オマワリさんってのいい加減やめろ」
チョルスが不機嫌さ丸出しでそう言うと、オーサーは可笑しそうにクスクス笑った。
「はーい。じゃあ、チョルス? これでいい?」
「本当に、食えない奴だね。お前って」
チョルスが苦々しい顔をすればするほど、オーサーは楽しげにいつまでも笑っていた。