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「フ……アハハハハハ! ミンホって、すっごい甘えん坊だったんだね」
「な、何ですか? いいじゃないですか、別に。子どもの頃の話ですよっ!」
ミンホが慌てれば慌てるほど、ナビの笑い声は大きくなる。周囲を気にしたミンホがシッと唇に手を当てると、ナビは腹を押さえて、必死に笑いの発作をおさめようと身体をピクピク震わせた。
「いたいけな子どもを、騙す大人が悪いんですよ」
悔し紛れにミンホが言うと、ようやく笑いの収まったナビが顔を上げた。
「まあね……だけど、騙したくて騙すわけじゃないよ。そうするしかないって、時もある」
「そんなイジワルしたことが?」
ミンホは反撃とばかりに片目を細めて、少し意地の悪い笑顔でナビの顔を覗き込んだ。
「ナビヒョンは、仕掛ける側ですかね? 小さい弟や妹がいたら、寝てる間に姿を消して、遠くからそっと様子を覗ってるとか」
いつものように小さな拳で軽く叩かれることくらい予想していたのに、ナビは意外な反応を見せた。
「……そうだね」
ほんの少し目を伏せて、寂しそうに微笑むナビの横顔に、ミンホの心臓がドクンッと音を立てた。
まただ――
普段、バカがつくくらい明るくうるさいこの人が、ごく稀に見せるこの表情。
それはいつも見間違いかと思うような一瞬の表情で、すぐに元の屈託のない笑顔に戻るが、そのギャップが、いつまでも胸に残って何とも言えないやりきれない気分にさせられる。
「……ねぇ、他の詩も読んでよ。僕、聞いてるから」
ナビは頬杖をついたまま、ニコニコとミンホにねだる。もう、先ほどの寂しげな表情は消えている。
「僕の朗読は、高いですよ?」
悔しいから憎まれ口で返してやっても、結局最終的には、自分はナビのリクエストに答えてやるのだ、とミンホには分かっていた。この人が少しでも、いつもバカな顔で笑っているための役に立てるのなら。
ナビは目を閉じて、静かにミンホの読む詩の世界に耳をすませていた。
「……ヒョン?」
もう何ページ読んだだろう。
不意にミンホが顔を上げてナビを見ると、ナビは頬杖をついた姿勢のまま、静かに寝息を立てていた。
「まったく、人に読ませるだけ読ませといて」
ミンホが苦笑してナビと向き合った瞬間、ナビの肘がガクンッと机から外れた。
「うわっ!」
驚いたのはミンホの方だった。
考えるより先に身体が動き、大きく頭から机に突っ伏すナビの顔と机の間に、自分の腕を差し入れた。
危うく机に顔面衝突するところだったナビは、ミンホの腕に支えられ、またスヤスヤと寝息を立て始めた。
「この状況でも起きないって、どんだけですか?」
ミンホはまだドキドキ鳴る心臓を押さえながら、無邪気な顔をして眠るナビを見た。
ナビを支えた腕に突っ伏すように自分の顎を預けて、同じ平面からナビの寝顔を見守る。眠ると、余計に幼さが増すような気がする。やはり、とても年上とは思えない。
赤ちゃん――と言ったら、きっとこの人はものすごく怒るのだろうけれど。
その時、不意に窓を叩く雨の音が聞こえてミンホが視線を上げる。
案の定、今夜も振り出した――
「ヒョン……降ってきましたよ」
クイクイッと指先でナビの柔らかい頬を触るが、ナビが起きる気配はない。
「ヒョン」
何度か頬を触って、ミンホは動きを止めた。
「……今日は、いいですか?」
雨になると、いつもミンホに背を向け走って行ってしまうナビ。
ホテルで一人窓の外を見上げながら、雨が止み、ナビが帰ってくるのを待つ自分。
ナビは自分のような警官ではなく、雨の日は必ず帰すと約束している以上、自分に引き止める権利はないのだ。
だが、飛ぶように去っていくナビをいつも見送るのは、正直気分のいいものではなかった。
加えてそこに『キライ』と追い討ちをかけられたものだから、ガラにもなく無性に腹が立ってしまった。
「……僕も眠っていて、雨に気付きませんでした」
ミンホは小さくそう呟くと、腕に乗ったナビの温もりを感じながら、自分も静かに目を閉じた。
***
まどろみの中で、不意に誰かの歌声が聞こえてきた。
細く、小さく、囁くように。
明るいメロディラインとは裏腹に、少し掠れたその声は、泣いているような哀切な響きを帯びていた。
どこかで聞いた歌だ――
そう思いながら、ミンホは眠りの底へと落ちていた。