2-18
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「さ、入って入って。狭くて汚い店だけどさ」
「狭くて汚くて悪かったな」
「あらら、オーナー様、聞こえてましたぁ?」
どれぐらいの時間が過ぎたのか。
朦朧と霞む頭に、軽口を叩く甘く掠れた美声が入り込んできた。身を起こそうと思っても、意識と身体のバランスが取れず、思うように力が入らない。結局ギョウンに出来たことと言えば、床に仰向けに寝そべった状態で瞼をピクピクと痙攣させることだけだった。
「うわっ! 何、この惨状」
瞼の裏を刺していた店内の橙色の光に影が差し、誰かが自分を真上から覗き込んでいるのが分かった。
「ずいぶんお行儀の悪い店番だねぇ」
呆れた声と同時に、爪先で脇腹を小突かれた。
「まさかこれ、ぜーんぶ、君一人で飲んじゃったわけ?」
瞼の裏の影が揺れるたび、ギョウンの耳の側でパリンパリンとガラスが弾ける音がする。それと一緒に、濃厚な酒の香りも辺りに漂う。
「店番のお駄賃でもあげようかと思ってたけど、これじゃあお駄賃以上に飲んじゃってるね」
「おい、オーサー! お前の持ってるそのビン……」
ワナワナと震える別の声が近づいてくる。
「……ロ……ロマネ・コンティじゃないか?!」
「へ?」
言われて、オーサーが初めてラベルに目を落とす。無残に赤い命を垂れ流すボトルの口に鼻を近づけて、クンッと香りを嗅ぐと、ニッコリと微笑んで言った。
「うん、間違いないね。ロマネ・コンティ、2004年モノ、占めて1300万ウォン(約100万円)なり!」
「なり! じゃない、この野郎っ!」
途端、寝ていたギョウンの頭が凄い力で引き上げられた。胸倉を掴まれ、ただでさえ酒でフラフラの頭を激しく揺さぶられる。
「お前っ! どういうつもりだ、よりによって店一番の超最高級ワインをっ!」
「……あ……やめ……ッウ」
しまった――思った時には、もう遅かった。
ゲロゲロと盛大に嘔吐したギョウンの胸倉を掴んでいたジェビンの白い手は、一瞬の内に嘔吐物でドロドロになった。
「……貴様……」
薄目を開けて自分を掴む男の顔を覗き見たギョウンは、一瞬で凍りついた。
静かな怒りに震えるジェビンのゾッとするほど美しい目には、明らかな殺気が見て取れた。
殺される! そう思って思わず固く目を閉じたギョウンに、突然救いの天使が現れた。
「もうっ! 先生も兄貴もいい加減にしてよ。僕とお酒とどっちが大事なのさ!」
天使は世にもマヌケな声で、殺気に満ちていた男の体からあっという間に険を抜いてしまう。
「だって、ナビ……」
「僕は、1300万ウォンと変えられるの? ん? どうなの?」
「もちろん、ナビヤは10億ウォンとだって変えられないよ。ねぇ、ジェビン」
調子の良い声が追随する。
「そりゃそうだけど、でも、それとこれとは……」
「違わないでしょ。何だったら、後で弁償してもらって、お金が無理なら身体で返してもらえばいいじゃない」
誰よりも恐ろしいことを、マヌケな天使は意図も簡単に口にする。
「それより、こっちが先でしょ」
そう言って、ナビは自分の後方で、未だ店に入りきらずに、どうしたものかと思案しながら雨の中で立っている何人もの若者を指差して言った。
「“取引き”するんでしょ?」
そう言うナビをよく見てみれば、彼のすぐ後ろにピタリと張り付くように若者の一人が立っている。
不自然に密着したその腰元には、店内の薄暗い照明に照らされた、鈍いナイフの光がキラリと乱反射していた。
「ほ……ほほ……本当に、“エデン”を……も……もも……持ってるんだろうな?」
ナビの腰にナイフを押し当てている学生は、酷く震えながらもそう言って、ナビの身体を押した。
「っ痛」
ナイフの切っ先がほんの少しだがナビの腰に食い込み、ナビは顔をしかめた。
「持ってるって言ったろ? それに、さっきちょっとお裾分けしてもらったけど、お宅らが持ってるような粗悪品じゃない。もっと、超高級の、それこそ麻薬界のロマネ・コンティみたいに、一瞬でイッちゃえるような“エデン”を持ってるよ。だけど、それをあげる前に俺たちのナビヤをちょっとでも傷つけたら、俺がお宅らを一瞬でイカせてあげるよ。二度と戻って来れない、本当の“エデン”にね」
冗談めかした口調に似合わない冷酷な目で、オーサーは若者の集団を見つめる。それが脅しでも何でもなく、いざとなれば本当に皆殺しにすることも厭わないということは、彼の目を見ればすぐに分かる。
「まずは、ナビヤをすぐに解放して」
「ク、クスリが先だ! 店にしかないって言うから、こんなところまで着いて来たんだぞ」
「じゃあ、同時に。ハナ・トゥル・セッ(1・2・3)で俺はクスリを投げるから、お宅らはナビを離しなさいな」
「……い……いいだろう。可笑しな真似するなよ!」
「ハナ……トゥル……セッ!」
オーサーの掛け声と共に、白く小さな紙包みが宙を舞い、同時に突き飛ばされたナビがオーサーの腕の中にすぽりと納まった。