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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第2章【スコールワルツ】
42/219

2-15

「そろそろ出てきてくれない? 何時間ウ○コで粘るわけ?」


 もぬけの空になった機内で、オーサーはトイレの前でしゃがみ込みながら開かずの扉に向かって語りかける。

 出口付近では、機内清掃の職員が迷惑そうにオーサーに視線を送っている。

 目的地である済州島チェジュド国際空港に着陸してからも尚、ギョウンはトイレに立てこもったままだった。


「いつまでも粘るなら、俺にも考えがあるよ。国内線の発着ロビーでアナウンスしてもらおうか?『ソウルからお越しのペク・ギョウン様のお腹が荒れ模様のため、国内線に遅れが出ております』ってね」


 その時、バンッと音を立ててオーサーの目の前で扉が開いた。

 そこには涙と鼻水で顔をグシャグシャにした、酷い有様のギョウンが立っていた。


「……先生……」

「タンマ! 今その顔で俺に抱きついたら、命はないよ。このシャツ、今回の旅行のために新調したんだから」


 そう言って、趣味の悪い、ヤクザ者丸出しのアロハシャツの裾を引っ張って見せる。


「センセェ……」


 情けない声でそれでもオーサーに縋ろうとするギョウンの肩を押し返して、オーサーは機内清掃員に頭を下げながらチップを渡して、まだグズグズと泣いているギョウンの背中を押してタラップを降りた。

 手続きを済ませ、そのまま人目を避けるように発着ロビーの柱の影に連れて行くと、オーサーはギョウンと向き合った。


「そろそろ落ち着いた? あの娘はやっぱり……」


 言った途端、ようやく乾きかけたギョウンの目に涙がいっぱいに浮かんできた。


「もう、泣くなっ! 鬱陶しい!」


 オーサーに一喝されて、びっくりしたようにギョウンの涙が止まる。


「……そうです。俺の女だった、ノ・ミラです」


 うな垂れたまま、小さな声でそう呟く。


「……あの時の、二大原因の一つってわけね。一つはアメフト、もう一つがこの娘?」

「……はい」


 ギョウンはそのまま、ズルズルとその場に座り込んだ。

 悪夢のような、どん底の状態にいたあの頃の記憶が蘇ってくる。



***



(ギョウン! あんたは、韓国一のクォーターバックよ!)

(ずっと、私と一緒にいてね)

(……好きな人が出来たの。だからギョウン、悪いけど、もう会えないわ)


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「ちょと! お客さん」


 カウンターに並べられたグラスをなぎ倒し、奇声を上げるギョウンを店の主人が振り返る。店の四方に目配せをして、常駐させているボーイ兼用心棒の男たちにギョウンを取り押さえさせる。

 屈強な複数の男たちを持ってしても、将来を渇望されていた大学アメフト界の元花形スターの鍛え上げた肉体を押さえつけるのは至難の技だった。


「摘み出せ!」


 店を滅茶苦茶にされて、青筋を立てた主人が男たちに命じる。


「触るなっ! 誰も、俺に触るな……ウ……グゥェ」


 そのまま身体を二つに折り曲げて、ギョウンは自分を取り押さえていた男の一人の足元に嘔吐した。


「貴様っ!」


 ピカピカに磨き上げた革靴を汚された男は、躊躇なくギョウンの頬を殴り倒す。

 床に腹ばいになりながら、ギョウンは吐しゃ物の中に顔を埋めた。


「二度と来るな」


 そう言われて、勢いよく店の外にはじき出される。路地に積まれていたゴミの山に頭から突っ込むと、後ろでピシャリと店の扉が閉められる音が響いた。

 外はいつの間にか雨が降り出していた。



 ペク・ギョウンは、聖智大学アメフト部の有名選手だった。

 同じ学年で明慶大学のハン・ガンホとは、高校時代からのライバルで、大学タイトルの数々を二人で競い合っていた。

 他校に通う美人で有名な彼女もいた。

 彼女――ノ・ミラは、高校時代、ギョウンが通う高校の隣の女子高に通う彼女を口説き落としてモノにした。


 人生まさに順風万帆。

 挫折なんて言葉とは無縁に生きてきた。


 だが、彼が大学三年生の春、明慶大学との練習試合中にそれは起こった。

 いつものような激しいぶつかり合いの中、不意に足を払われた。

 グラウンドに転がったギョウンの膝の上に、幾人もの明慶大学側の選手が覆いかぶさってきた。

 転んだ時の姿勢が悪く、不自然に曲がった膝に大勢の体重が一気にかかる。

 痛みに叫ぶギョウンの視線の先で、冷たい笑みを浮かべて彼を見下ろすガンホの姿が見えた。


 膝の半月板損傷に靭帯断絶――


 アメフトへの復帰どころか、完全な日常生活に戻るまで半年を要した。

 完全に経たれた選手生命と共に、これまでのギョウンの人生は終わりを告げた。

 始めのうちこそ足しげく入院先を訪れてくれたチームメイトも、荒れるギョウンを前に、日が経つにつれ一人減り、二人減りして、とうとう誰も来なくなった。


 それは、最愛の恋人、ノ・ミラも例外ではなかった。


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