2-14
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ドアを蹴破る勢いで、明け方の捜査課にチョルスが飛び込んできた。
緊急召集を受け、気のみ気のまま一人暮らしのアパートを飛び出して来たため、辛うじて肩に引っ掛けてきたスーツは皺くちゃ、髪はボサボサの酷い有様だったが、目だけはギラギラと輝いていた。
「聖水大橋から、遺体があがったって?」
肩で息をしながら、チョルスが当直だった刑事に詰め寄る。
「ああ。該者は明慶大学経済学部経営学科四年、ノ・ミラ、二十ニ歳。橋のたもとに引っかかって浮いてたのを、通行人が見つけた」
「明慶大学!?」
「6月3日、大学へ行くと行って家を出てから行方不明。家族から捜索願が出されてた」
そう言うと、当直の刑事はチョルスに向かって資料を放った。チョルスはすぐさまその資料に目を通す。
「遺体の状況から見て、死後だいぶ日数が経ってるな」
当直の刑事は、資料写真の惨たらしい写真に顔をしかめながら言った。
「死因は?」
「今、鑑識に回してるが、恐らく……コレだろ?」
そう言って、当直の刑事は自分の腕に注射針を刺す真似をした。
「そこ、見てみろ」
指で差し示された資料写真には、剥き出しにになった少女の腕の内側に、赤黒く変色した内出血の痕がクッキリと残っていた。
「鑑識の結果を待てば、ハッキリする」
刑事の言葉に、チョルスも頷いた。
しかし、鑑識の結果は、チョルスたちの予想とは大きく異なるものだった。
「心臓麻痺だと?!」
「な……何ですかっ!? 鑑識の結果が信じられないとっ?」
公式発表された今回の該者の死因は、当初、当直の刑事とチョルスが予想していた薬物使用によるものではなく、女子学生の元々の持病である心臓疾患により、麻痺を起こした突然死とされた。川の側を歩いている時にたまたま発作が起き、その拍子に聖水大橋の二つ先の大橋の欄干から落ちたのだと推測された。
発表されるなり、チョルスは鑑識室に乗り込んで、主任の胸倉を掴んだのだった。
「もう一度良く調べろっ! 薬物反応が必ず出るはずだ」
「薬物反応なんて出ませんでしたよ。何度調べたって同じです」
主任はチョルスに締め上げられたせいでずり落ちたメガネを直すと、僅かに上擦った声で反論した。
「資料写真に残ってる、あの針の痕は何て説明するんだ?」
「資料写真? そんなものがどこにあるんですか?」
主任の言葉に、チョルスは大声で怒鳴った。
「とぼけるなよ! 該者の死体遺棄現場の写真だ!」
そう言って、すぐそこのデスクの上に散らばっていた写真を取り上げた。だが、一枚、二枚、乱暴に数えていっても、チョルスが当直の刑事と一緒に見た、女子学生の腕にはっきりと残る注射痕の内出血が見える写真はどこにも無かった。
「……っな?!」
絶句するチョルスを前に、主任はゴホンッと咳払いしてからチョルスに掴まれていた襟首を整えると、背筋を伸ばして言った。
「全く。変な言いがかりはよしてくださいよ。鑑識の結果は変わりません。あなたが見たと言う、幻の写真が出てきたとしてもね」
チョルスに冷たい一瞥をくれると、主任は部下の職員に顎をしゃくって、呆然と立ち尽くすチョルスを鑑識室から追い出した。
明白な筈なのに、なぜか隠匿される死亡原因。
無くなる筈のない、資料の紛失。
まさか、内部に?
チョルスは鑑識室の扉の前で立ち尽くしながら、ギリッと唇を噛んだ。
***
安いビジネスクラスの固いスプリングのシートを弾ませて、ペク・ギョウンは文字通り、その場で電気ショックにでもあったかのように跳ね上がった。
広げた新聞の端が、隣りの座席で頭にサングラスを載せたまま大イビキをかいていたオーサーの顔にかかり、オーサーはムズムズと鼻を動かした後、不快そうにそれを振り払った。
「……そんな……ミラが、何で……?」
いつもなら、オーサーの機嫌を損ねる失態を演じないよう気を使うギョウンだったが、今日ばかりは様子が違っていた。
オーサーを気に留める余裕もなく、一人口の中でブツブツと呟く。新聞を握る手も、小刻みに震え、見る見るうちに顔が青ざめていった。
「……ん?」
面倒くさそうに額のサングラスを押しやり、隣りのギョウンを見上げたオーサーは、そこで初めて、彼の様子がおかしいことに気がついた。
「……どした?」
眠い目を擦りながら、ギョウンに尋ねる。
ギョウンは何も応えず、そのまま力なく新聞を握った手をダラリと垂れ下げる。床に落ちて広がる一歩手前で、オーサーはその新聞をキャッチした。
【聖水大橋からの発見遺体。身元は、明慶大学四年、ノ・ミラさんと判明】
目を走らせた先に、紙面の端に小さく載ったその記事を見つけた。ともすれば見過ごされても不思議ではないその記事が、ギョウンに口を利くのもままならないほどに、大きなショックを与えた原因に違いなかった。
「この娘……」
言いかけたオーサーの前で、ギョウンは急に立ち上がった。
「おい?!」
驚くオーサーに応える余裕もなく、ギョウンは座席の間をよろめきながら、狭い機体の後方へと向かう。
「お客様、間もなく着陸ですので……」
止めるキャビンアテンダントを振り切って、ギョウンは機体の一番後ろにあるトイレの中へと駆け込みガチャリと鍵をかけた。
「あの、お連れ様が……」
困り果てたキャビンアテンダントが救いを求めるようにオーサーに視線を移すと、オーサーはそれに応えてニッコリと微笑んだ。
「ごめんね。昨日の夜食べた、タッパル(激辛の鶏の足料理)がアタッたみたい」
親指の先でトイレの方を指しながら、オーサーは可愛い彼女に向かってウインクしてみせた。