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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第2章【スコールワルツ】
35/219

2-8


(……ウ……ウ、ウ、ウ……)

(あの……ちょっと、ナビヒョン?)


 床に顔面を押し付けたまま、泣き声とも唸り声ともつかない低い声をもらすナビを、ミンホが恐る恐る振り返る。


(だ……大丈夫……?)

(ウワーンッ!!)


 途端、火がついたように泣き出したナビに、オロオロしだしたのはミンホの方だった。慌ててベッドを跨いでナビの身体を助け起こす。

 元々そんなに高くない小作りな鼻が、気のせいか衝撃でぺシャッともっと低くなったように感じる。

 痛々しく鼻血と涙で顔を汚すナビを笑ってはいけないと自分に言い聞かせ、ミンホは唇を噛み締める。

 それでもナビが赤ん坊のように泣けば泣くほど、どうにも不細工で愛らしいその顔がツボにハマって、ミンホは噛み締めた唇を奮わせるのだった。


(本当に、あなた20歳超えた大人ですか? 今時、小学生だってこんな真似しませんよ)

(……う……うるひゃい)


 ミンホに鼻筋を押さえられたまま上を向いたナビは、涙声で弱々しく抗議する。

 結局ナビは泣き疲れたまま眠ってしまい、グシャグシャになったベッドを一から直したのも、顔の血と涙の跡をキレイに拭いてやって、そんなナビをベッドまで運んでやったのもミンホだった。



 そうこうしている内に、予鈴の鐘が鳴り響き、ミンホはハッと我に返った。


「じゃあ、ナビヒョン! また後で」

「おう! お前もしっかり勉強しろよー」


 ナビは上機嫌で、スキップでも踏みそうな勢いで校舎へと入って行く。


「ちょっと! そんな急に動くと、また鼻血が……」


 たしなめようと声を上げた時には、既にナビの背中は小さくなっていた。ミンホはそんな背中が完全に校舎の中に消えるのを見届けてから、自分も小走りにナビとは違う校舎の教室へ向かった。


 キョロキョロしながら、ナビは人の流れに沿って、これから法学部の授業が行われる講堂に入っていった。旧校舎と呼ばれるここは、大学開設当初から校舎として使われていたもので、建物自体が有形文化財の指定を受けるような歴史的な価値の高い校舎だった。

 梅雨のジメジメした気候の中、周囲の学生たちは冷房も聞かないこの旧校舎を嫌がり、ミンホが潜入した文学部が主に使う、去年建てられたばかりの新校舎を羨ましがっていた。

 しかし、ナビにとっては、例え熱いのを我慢したって、断然この古びた趣のある校舎の方が好きだった。


 ここにはどんな歴史が刻まれているのだろう。

 例えば僕が座ったこの席には、今までどんな人たちがどんな思いで腰掛け、学び、巣立っていったのか。

 そういったことに一つ一つ思いを巡らすことが、ナビにとっては楽しくてしかたなかった。


 そんな時には、わくわくすると同時に、大学はおろか学校すらもまともに行けなかった自分の境遇に思いを馳せてしまい、ほんの少しやりきれない気持ちになる。だが、持ち前のポジティブ精神で、すぐに今目の前のワクワクに気持ちを切り替える。

 ナビは講堂の一番前の席に陣取り、ミンホが昨日買って持たせてくれた教材を一つ一つ確かめるように机の上に並べた。


 布製のペンケースを開けると、中には律儀にきちんと削られた鉛筆が並んでいた。シャーペンでないところが、いかにもミンホらしい。昨日ケンカしてふて寝した自分より遅くまで起きて何をしていたかと思えば。夜中に一人でナビのための鉛筆を削るミンホの姿を想像すると、ナビは思わずプッと吹き出してしまった。

 その拍子に、忘れていた鼻筋に意識が向かう。

 血を止めるため、ミンホの指で押さえられたそこは、まだ少しジンジンしていた。

 そっと、その場所に触れてみる。


「あんな、デカイ手のクセに……」


 目の前には、キレイに削られたエンピツが並んでナビを見上げている。


「……器用なヤツ」


 ちょっと癪に障って、ナビは寝そべるエンピツの一つを指先で弾いてやった。



 一方のミンホは、時間ギリギリまでナビを見送っていたせいで、始業時間直前に教室に駆け込む羽目になった。

 新校舎のガンガンに冷房の効いた教室は、走って汗だくになったミンホにはありがたかった。

 自由に居眠りをしたり内職をすることができる後ろの席から埋まっていくのは自分自身の大学生時代の体験からも熟知しているので、ミンホは諦めて前の席に座った。

 幸い、講師はまだ来ていなかった。

 冷房にさらされても収まりきらなかった汗をハンカチで拭うと、教室全体が妙にザワついているのに気が付いた。


 本業は警察官であるミンホの、職業病とも言えるクセで、咄嗟に何が起こっているのか、その原因を突き止めるべく周囲に意識を張り巡らせた。

 さりげなく、後ろを振り向く。

 すると、気のせいか先ほどよりざわめきが大きくなった。


 何だ?――


 ミンホは眉間に皺を寄せ、再び向き直る。文学部は女性徒の方が圧倒的に多いので、ざわめきは自然、甲高い彼女たちの声で占められていた。

 気にせずカバンから教材を取り出し、昨日ナビのを削ってやるついでに自分もきれいに削った鉛筆の入ったペンケースを取り出す。

 科目は何であれ、学業に励むのは嫌いではなかったため、昨日購入した教材にも一応全て目は通していた。

 真新しいテキストの表紙を開いた時、机の隅に置いてあった消しゴムに手が当たり、床に落としてしまった。

 拾おうと座ったまま手を伸ばしたミンホのその手の数センチ先を、白く華奢な手が掠め、ミンホの消しゴムを拾い上げた。

 恥ずかしそうにミンホの机に消しゴムを載せた女生徒に、ミンホは頭を下げる。


「どうも、ありがとうございます」


 その途端、ざわめきは一気に黄色い悲鳴に変わった。



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