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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第2章【スコールワルツ】
34/219

2-7

「……あの、すみません」


 その時、ナビとミンホの元に、ビラを配っていた学生たちとは違う、年配の女性が近寄ってきた。手にはやはり、大量のビラを持っている。


「娘を探しているんです。一週間前に、大学へ行ったきり、行方が分からないんです。どんな小さなことでもいいですから、何か娘について知っていることがあったら教えてください」


 そう言うと、その女性はナビとミンホに一枚づつビラを手渡し、丁寧に頭を下げた。女性は行き交う学生一人一人に頭を下げて、ビラを配り続けていた。

 ナビは手にしたビラに目を落とす。


「……ノ・ミラ。経済学部経営学科四年。6月3日――大学へ行くと行って家を出たまま行方不明……」


 ミンホも神妙にそのビラの記事を目で追う。


「……気の毒に」


 ナビがポツリと呟いて、必死にビラ配りを続ける女性の後ろ姿を見つめる。


「おばさんっ! 僕も手伝います!」


 すると、突然ナビが手を上げて、女性の元へ走り出した。


「え?! ちょっと、ナビヒョン?!」


 慌てたのはミンホだ。女性はナビの突然の申し出に驚いた様子を見せたが、すぐに頭を下げてナビにビラの半分を渡した。ナビはあの独特の掠れた大声で、まるで市場の呼び込みのように道行く学生に声を張り上げる。さっきまでとは打って変わって、皆場違いに元気いっぱいなナビの声に引き寄せられ、何事かと立ち止まるので、ナビと女性の周囲にはあっという間に人だかりができた。


「ああっ! もうっ! あれだけ、目立つマネはよして下さいって言ったのにっ!」


 ミンホは歯噛みしながらも、ナビの取った行動を責める気持ちにはなれず、仕方なく人ごみを掻き分けてナビの元まで辿りつくと、自分も一緒にビラを配り始めた。

 この人と一緒にいると、すっかりペースを乱される。

 そう舌打ちしながら。



***



「じゃあ、いいですね。ナビヒョン。待ち合わせはお昼、あなたの大好きなカフェテリアで。あ! くれぐれも、昨日みたいなマネはしないでくださいよ。なるべく、地味に、目立たなく。授業は分からなかったら聞いてなくても構いませんが、ノートぐらいは取ってくださいね。後でレポート提出があった時、ノートもないと僕も手助けできませんから。それから……」

「ああ、もうっ! 分かってるよ。うるさいなぁ。僕に、まっかせなさーい」


 登校初日、ミンホは自分と同じように変装用のメガネをかけさせたナビの早速歪んでいるシャツの襟元を直しながら、注意事項を一つずつ言い含めた。広範囲の捜査を目的に、学年も学部も分かれて潜入するため、いくら危なっかしいとは言え、授業中まで付き添っている訳にはいかない。心配でしょうがないが、当の本人は至ってマイペースで、この調子だ。


 何が、まっかせなさーいだ――


 ミンホは朝からもう何度目になるか分からない溜息をついた。

 そんなミンホの目の前で、ナビの鼻からツーッと赤い筋が跡を引いて行く。


「ほら、まだ血が出てる」


 ミンホは新しいシャツが血で汚れる前に、素早くポケットから取り出したティッシュでナビの鼻をかんでやった。

 ミンホの脳裏に、購買で大量の教材を買い込み、ホテルの部屋に引き上げてからの昨晩のナビとの、呆れるようなやりとりが浮かぶ。

 ホテルの部屋はミンホの予想以上に狭いものだったが、キャンピングカー暮らしに慣れているナビにとっては贅沢な程だったようで、部屋に入るなり彼のテンションは最高潮に達していた。


(僕、窓際のベットッ!!)

(あー、はいはい。好きにしてください)


 嬉しさのあまり、靴も脱がずにはしゃいで窓際のベッドにジャンプしたナビだったが、ミンホにも大分耐性がついてきたのか、特に咎める気にもなれなかった。


(こっちからこっちが、僕の陣地だからね! 絶対、入って来ないでよ! 覗くのも禁止!)


 ナビは舞い上がる埃の中で膝を立てて起き上がると、二人のベッドの間に、『ペニーレイン』から唯一持ってきた小さなトランクケースを立て、更にその上に枕を置いて即席のバリケードを築きながら声高に宣言する。


(入ったら、どうなるんです?)


 もう一方のベッドに腰掛けていたミンホが、呆れ顔で振り返る。


(デコピンの刑に処す!)


 片目を瞑って指を弾く真似をしてみせるナビに、ミンホはスウッと目を細めて微笑んだ。


(入るなって言うなら入りませんけど、あなたはどうするんです? この部屋の構造上、部屋を出る時は、あなたは僕の陣地をどうしても通らなきゃならない)


 クリクリとよく動いていたナビの大きな瞳が固まる。

 しまった――と思った時にはもう遅い。


(デコピンの刑……ですよね? やっぱり)


 自分のベッドに片足を乗り上げて、長い指で輪の形を作ったミンホがにじり寄って来る。


(やっぱさっきの無し! 陣地交代!)

(嫌ですよ。あなた、靴のままベッドに上がったでしょ? 僕そういうところ繊細なんで)

(男のクセに、軟弱なこと言ってんな!)

(どっちが?! あなたこそ男のクセに、覗くの禁止! なんて、思春期の女の子の台詞ですよ)

(何をぉ?!)


 売り言葉に買い言葉。

 途端にベッドの上で枕投げの攻防が始まる。


(もういいっ! お前の陣地通らなくたって、僕は部屋を出られるもんね)

(はあ? どうやって……)


 ミンホが言い終わらない内に、ナビはベッドのスプリングを軋ませて大きくジャンプした。


(うわっ!! ちょっ……待っ……)


 気づいた時には頭上を掠めて、ナビの小さな身体がミンホのベッドを飛び越えて飛んでいく――と思った矢先、ナビの足がミンホのベッドのシーツに絡まり、派手な音を立ててホテルの床に顔から落ちた。




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