2-5
狂ったように鳴り響く耳障りなドアベルの音が狭い店の中にこだまする。
「……ハァ……あ……センセ……」
筋肉で盛り上がった背中を大きく波打たせ、脂汗を流しながらそれでもようやく顔を上げた男の顔を見るなり、オーサーの瞳から、つい先ほどまでの茶目っ気たっぷりの色が消えた。
「ねぇ、ジェビン」
視線は入口の男に向けたまま、オーサーは口元に冷ややかな笑みを作って囁く。
「俺みたいな美形がカウンターの中で皿洗いなんて可笑しいんじゃない? 適材適所って言葉があるでしょ? 俺にはやっぱり表舞台のホールの方が向いてると思うんだよね」
見てて……そう言って立ち上がると、大仰に手を広げて、オーサーはまだ息の整わない男の元へ踏み出した。
「いらっしゃいませ、お客様」
そのまま汗まみれの男の短い髪を掴み、グイッと男の顔を上げさせる。
「お一人様ですか?」
「……センセ……やめ……苦し……」
喉仏を見せながら仰け反る男は、苦しさに耐えかねてその目尻に涙を滲ませる。
「お・ひ・と・り・様ですか?」
オーサーは一言一言区切るように言いながら、さらに男の髪を後方へ引っ張る。
「ッ!」
真っ赤な顔をして声にならない苦痛を訴える男に、ようやくオーサーは手を離した。
激しく咽ながら、男が床に転がる。
「何で、お一人様なんですか? 友達いないんですか? なら、どうぞ一番トイレから近い席へ……」
「先生っ!」
オーサーの足に縋りながら堪らず声を上げた男の手を振り払いながら、オーサーはゾッとするような冷たい声で言った。
「どの面下げて、戻って来たの?」
途端にオーサーのズボンを掴んでいた男の手が強張る。
「最後のシッポちゃんを置き去りにして、自分だけまんまと逃げ出したんだよねぇ? 宿命のライバルに一本取られて動揺した? そんなんだから、アメフトの国内選抜の枠も、大事なガールフレンドも、根こそぎ持って行かれちゃうんだよ」
「そんなっ……先生!」
悔しげに歯噛みしながら、男がその大きな体躯を波打たせる。その顎を片手で掴み、オーサーは男の口を封じたまま続ける。
「何か間違ってる? その通りでしょう。お陰で、計画は大幅に変更。シッポちゃんをオマワリさんに取られちゃったせいで、この店も張られるようになった。おまけに、俺の可愛いナビヤまで連れてかれちゃって、俺今ものすっごく、機嫌悪いの。セーラー服姿も拝めないしね」
理不尽な理由も一緒に並べ立てながら、顎の骨がミシリと嫌な音を立てるまで手に込めた力を強くする。
「やめろ、オーサー。死ぬぞ」
見かねたジェビンが声を上げ、男はようやくオーサーの手から解放された。
「いい? ペク・ギョウン。一度しか言わないからよく聞いて。頭の悪い子はキライだから」
オーサーは指で拳銃の形を作ると、外れそうになった顎の関節に手を当て涎を垂らしながら泣いている男の額にスッと宛がった。
「二度目は、ないよ」
ニッコリ微笑んだオーサーの指の銃口は、真っ直ぐに男の額を狙っていた。
***
重低音の音響がフロアを震わせる。
地下のダンスフロアに集まった何百人もの若者は、皆それぞれ思い思いに身体を揺らし、頭を振りながら踊っている。
その中に、ステージ下中央を陣取り奇声を発しながら踊る、フロアの中でも一際目立つ集団がいた。男女7、8人で構成されたその集団の中心では、腰まで伸びたストレートの髪を振り乱し、一心不乱に踊る少女の姿があった。
「ユリ! 今日もキメてるね」
「えー?!」
「ハジケてるって、言ったのー」
「あー」
集団の一人が、汗を飛び散らせ激しく踊る少女に向かって言った。少女は聞こえているのかいないのか、上機嫌で踊り続ける。
「帰らなくていいのぉ? オヤジさんと、夜からタルイ約束があるって言ってたじゃん」
「知らない。関係ないし。シラけること言わないでよ」
水を差すなと言わんばかりに、少女は声をかけてきた仲間の一人の肩を押す。
「ねぇ、それより、ガンホは? さっきから見かけないんだけど」
少女がそう言った途端に、周囲の仲間は押し黙った。
「ちょっと! 何隠してるのよ」
その態度にピンときた少女は、踊るのを止めて、仲間を睨みつけた。
「言いなさいよ。あいつ、また浮気してんでしょ?」
目を逸らす仲間たちに、少女は更に苛立ちを強め、仲間たちに肩をぶつけながら道を開けさせ、フロアを横切ろうとした。
「待ってよ、ユリ! そっちは……」
仲間の制止も無視して、少女はダンスフロアを抜け出すと、『関係者以外立ち入り禁止』の札が下がった配水室のドアを押した。案の定、鍵はかかっておらず、少女は勝手知ったる顔でズンズン奥へと進んで行った。
「ガンホッ! いるんでしょ。あんた、またこんなところに女連れ込んでっ! この前言ったわよね。二度と浮気してごらんなさい。殺してやるからって!」
ヒステリックに喚き散らしながら進んで行くと、配水された水道水をビルの上層階まで汲み上げるために設置された大型の受水槽の陰に、こちらに背を向けた恋人の背中が見えた。
「ガンホッ!」
少女が更に近付くと、恋人の足元には、横たわる女の長い髪が見えた。
頭にカッと血が上った彼女は、恋人の背中に飛び掛るようにして喚いた。
「誰よっ! この女。また違う女連れ込んだの?!」
恋人のシャツの背中を引き千切らんばかりに掴みかかる少女の肩を掴んで、男はサッと横たわる女を自分の身体で隠した。
「何よ、今さらっ! 何とか言いなさいよっ!」
「……落ち着け、ユリ。静かにしろ」
「落ち着けって、バカにしてるの?! あんた……」
そう言って、男を押しのけいつまでも横たわったままの女を見下ろした時、少女の動きが止まった。
「……ッヒッ!!」
思わず声を上げそうになった少女の口を男は慌てて手で塞ぐ。
「……お前は、何も見なかった。いいな?」
男は低い声で、少女の耳元に囁いた。
「……何もなかった? そうだろ? ユリ」
もう一度、脅すようにドスを聞かせた声が、少女の耳の中でこだまする。少女はただ息を飲み、ひたすら頷くしかなかった。