2-1
ラストダンスは、あなたと……
サンダルを脱いだ素足を前の座席の間に投げ出して、自慢のネイルの手入れをしていた少女は、不意に車が動き出したせいで大きく爪からはみ出してしまったマニキュアの瓶を閉じて、悔し紛れに運転席目がけて投げつけた。
「やめろよ、ユリッ! 運転中に危ないだろ」
「急に発進するからでしょ、バカッ!」
「仕方ないだろ。朝は渋滞することくらい、毎日通ってるんだから分かるだろ。爪の手入れなんか、家でやってこいよ。毎日毎日、ギリギリまで寝てる君が悪いんだろ」
「生意気ねっ! ただの運転手の分際で」
少女が鼻を鳴らすと、ハンドルを握っていた少年も負けじと言い返す。
「僕は君の運転手になった覚えはないよ」
「パパに言いつけてやるからね」
「僕こそ、おじさんに言いつけてやるよ。折角高い学費出してもらってるのに、勉強もしないで……」
「やめてよ、説教はたくさん。兵役から帰った途端、口うるさいパパが一人増えたみたい」
少女は顔の前で大きく手を横に振ると、前に乗り出していた身体を、再び後部座席へと深く沈めた。
「……っあ!」
その時、不意に窓の外を覗いた少女は、渋滞する隣りの車線に止まる車を見て顔を輝かせた。
「ヒョンスッ! 私ここで、降りるわ」
「え? ユリ?!」
言うが早いか、少女は自分で勝手にドアを開け、隣りに並んだ車の窓を叩いた。すると、全面をスモーク張りにした黒いスポーツカーの窓が開き、中からサングラスをかけた男が顔を出し、少女の首に手を回した。二人は人目もはばからず、朝の通勤・通学ラッシュで渋滞する道路の真ん中で熱いキスを交わし始めた。
ハンドルを握る少年の手に、思わずギリッと力がこもる。
すぐにスポーツカーの助手席のドアが開いて、少女が滑り込む。スモークの窓が再び閉まり、少女の姿を完全に隠してしまう前に、少年は大声で叫んだ。
「ユリッ! 今日は八時から、おじさんと大事な会食があっただろ? 忘れるなよっ!」
すると、少女の代わりに、先ほどのサングラスの男が窓から顔を出した。男は窓越しに対峙した少年を見るとニヤリと笑い、サッと親指を突きたて、首を横に掻き切る仕草をすると、親指を下に向けて舌を突き出した。
少年の頬がカッと熱くなる。
男と少女の笑い声を残して、スモークの窓が閉まると、少年の乗る車を残し、彼らの車線が流れ始めた。
少年は距離を開けていく黒いスポーツカーの後ろ姿を見送りながら、深い溜息を漏らした。
***
「え?! ナビを?!」
シトシトと降りしきる雨の下、客足の途絶えた明け方の『ペニーレイン』にて、ジェビンはカウンターに座るチョルスの言葉に目を見開いた。
「無茶な頼みなのは、分かってるよ。本当は、こんなこと頼めた義理じゃないんだけど……」
うつむくチョルスに合わせて、隣りにいたミンホも深く頭を下げる。
「身の安全は、僕が責任を持って保障します。学生間でのクスリのルートさえ掴めれば、すぐにナビさんをお返しします」
「僕はヤダよ!」
その時、相変わらずガチャガチャと危なっかしい手つきで皿洗いをしていたナビがキュッと蛇口を捻って水を止めてから言った。
「そりゃさ、潜入捜査なんてちょっと面白そうだとは思うけど、そんなに何日もジェビン兄貴を放っといて店を空けたり出来ないよ」
不機嫌そうに布巾を取り上げ、これまた慣れない手つきでゴシゴシとさっき洗ったばかりのグラスやら皿やらを拭いていく。
「それに、そのデカいのと一緒ってのがヤダッ!」
子どものように唇を突き出し、カウンターのミンホを恨めしそうに見つめる。
「デカいのって……僕はハン・ミンホって名前があるって言ったでしょう?」
ミンホは溜息をつきながら言った。
「知らないよ。僕は、気に入らない奴の名前までいちいち覚えてないもんね」
「ああ、頭に入りませんでしたか? あなたの可哀相な脳ミソには、人一人の名前すら収まりきらなかったんですね」
ミンホが、さも哀れだと言うように首をすくめると、ナビは言い返す代わりに、手にしていたビショビショになった布巾をミンホ目がけて投げつけた。
ベシャッ!!
と音を立てて、それは見事にミンホの顔面にヒットした。
ズルッと重い音を立ててカウンターに落ちるその布巾を、チョルスとジェビンは青い顔をして見つめる。
ワナワナと震えだしたミンホは、突然ガタッと立ち上がると、カウンターの中のナビを指差しながら大声で叫んだ。
「あなたねっ! 僕がお弁当台無しにしたこと、一体いつまで根に持ってるつもりなんですかっ!? あれは、きちんと謝ったでしょ。弁償だってしたじゃないですか。いつまで子どもみたいに拗ねてれば気が済むんですか!」
「開き直るなよっ! あれは、ジェビン兄貴の真心がこもってるだよ! プライスレスなんだよ!」
「ナビ、俺はもういいから」
見かねたジェビンが間に入り、二人のバトルはナビのミンホに向けた渾身の『イーダッ』で幕を閉じた。
「……ねぇ、ナビ。店のことは大丈夫だから、協力してあげたらどうかな?」
思いもよらないジェビンの言葉に、ナビを初め、その場にいる三人全員がキョトンとジェビンを見つめた。