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「ヤクを抜くったって、一晩やそこらでどうにかなるものじゃないだろ? ずっとこんな廃材置き場に置いとくわけにもいかないだろうし」
「勿論、波が過ぎたら場所を移すよ。俺の隠れ家でリハビリさせる」
「隠れ家?」
「そ。俺だけの秘密のお城」
首を傾げる愛らしい仕草にも、目の奥は強かな光を放っている。
「ヤクが抜けた後、そいつらはどうなる?」
「いい子になるよ」
ふざけたオーサーの答えに、チョルスが声を荒げる。
「真面目に答えろっ!」
「本当のことだよ。俺のリハビリが終わって帰る頃には、クスリに溺れてたことは、きれいさっぱり忘れてる」
「忘れてるだと?」
チョルスの眉が釣りあがる。
「そんな馬鹿な話があるか」
「あるんだなぁ。ほら、俺天才だから。ちょちょいと魔法をね」
オーサーは、相変わらずクスクス笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、俺そろそろ戻るよ」
「おい、待て! まだ話は終わってないぞ」
「待てないよ。また発作がきて、火事場の馬鹿力で手錠切られて逃げられたらおしまいだもん。禁断症状時のヤク中患者の力って、尋常じゃないんだから」
オーサーは出口に向かいながら、ふと思い立ったように足を止めた。
「でも、丁度良かったよ。一人一人シッポちゃんを誘き出してクスリを抜いてくのも、そろそろ限界だったから。辿っても追いつかないくらい、患者は増えてる。元を断たなきゃ、イタチごっこだ」
「だから、その大元がっ……」
苛立つばかりのチョルスに向かって、オーサーは長い指を突き出した。
「リストの名前の横を見てみな。シッポちゃんたちから集めた情報だ。色んな大学を迂回しながらも、どのルートも、最終的には一箇所に集まってる」
オーサーの言葉通り、チョルスとミンホはもう一度リストの上から下まで視線を走らせる。そこには、名前の横にいくつものイニシャルが刻まれていた。
エンピツで幾度もなぞり黒く汚れたそれらには、どの名前の横にも共通するある一つのイニシャルが書かれていた。
「……M.K?」
「ソウル市内の大学で、そのイニシャルがつく大学と言ったら?」
「明慶大学っ!」
思わず叫んだミンホに、オーサーがニッコリ笑って指を鳴らす。
「ご名答! ちなみに、俺の母校」
オーサーが肩を竦める。
「そして、『無かったこと』になってる、9年前のあの事件の舞台になった学校だ」
それは、名門の呼び声高い、ソウルでは知らぬ者のない名前だった。
***
「……やっかいなことを、掘り出してきてくれたな」
署長室のデスクの前で直立不動の形をとる長身の男二人を前に、警察署長は明らさまな溜息をついた。
「オーサー・リーは本当にクロじゃないのか? 奴が善意だけでヤク中患者のリハビリを買って出てるとは思えんが」
「食えない奴なのは確かですが、実際にヤツがクスリ抜きをしてる現場を押さえたので、確かです」
チョルスの言葉に、ミンホも強く頷く。
「……だが、明慶大学か。警察幹部の中にも出身者が多いからな。それに、この間の一斉摘発でも、明慶だけはシロだったじゃないか」
「何かカラクリがあるはずです! このまま見て見ぬフリしろって言うんですか?」
「そうは言ってないだろう」
すぐに熱くなるチョルスに、鬱陶しそうに署長が頭を掻く。
「大っぴらには、出来ないと言ったんだ。潜入捜査で確かな証拠を掴んだら、全く出来ない話じゃない」
「潜入捜査?!」
思わず、チョルスとミンホの声が重なる。
「俺に、今さら大学生になれと?!」
裏返った声で叫んだチョルスを、署長がバッサリと切り捨てる。
「薄汚いヒゲ生やした三十路男に、そんな無茶は言わん。マフィアへの潜入ならともかく、どう見たってお前に今更大学生は無理があるだろう。第一、そんなスレた目ぇした大学生がいるか」
「……自覚してますけど。面と向かって言われると、すごく腹立ちますね」
ブツブツと消え入りそうな声で文句を言うチョルスを尻目に、署長は真っ直ぐにミンホを見据えて言った。
「お前が行け」
「え? 僕ですか?」
突然の話に、ミンホが目を見開く。
「つい二年程前まで本物の学生だったんだ。わけないだろう?」
事も無げに署長は続ける。
「本当なら、もう一人署からあてがうべきだが、あまりこの件を大っぴらにしたくない。民間人を巻き込むのは得策じゃないが、仕方ないだろう」
「民間人って、署長、まさか?」
「その『ペニー・レイン』とか言う店の関係者を、捜査に協力させるんだ」
チョルスは開いた口が塞がらなかった。
「今のところは、中毒患者との唯一のラインだろ? まだ隠してることがあるかもしれない。潜入捜査への協力依頼できっと、自分たちへの疑いは晴れたと思い込む筈だ。捜査の途中でボロを出す可能性も大いにある。チャンは引き続き『ペニー・レイン』周辺も洗うんだ」
よくもそんな狡猾な手管を思いつくものだと、チョルスは舌打ちしたい気持ちになる。協力と言う名の下で信用させ手のひらを返す。それが自分の仕事では日常茶飯事であることはチョルスも充分承知していたが、何となく『ペニー・レイン』の彼らに対して、そういった手口は使いたくなかった。
「で? 誰かいないのか? 大学生に見えそうな奴が」
「いません」
即答したのはチョルスだった。
「オーサー・リーは? 腹の立つことに、場末の娼婦が夢中になるくらいのルックスだろう」
これまで幾度も重要事件の参考人になってきただけあって、オーサーの顔は警察署内には知れ渡っていた。署長もこれまで何度も、まるでブロマイドのようなオーサーの資料写真を目にしている。
「明慶大学のOBですよ。顔が割れてます」
「じゃあ、そのオーナーの男って言うのは?」
「ある意味、俺よりスレた目をしてます。それに、映画俳優みたいなツラしてますけど、ヤツだって俺と同い年、三十路男です」
「え?!」
真横から聞こえて来た正直すぎる驚愕の声に、チョルスはミンホを睨みつける。
なんだよ! 声に出さずに口の動きだけでそう言って、ミンホを威嚇する。
「他にはいないのか?」
チョルスとミンホは顔を見合わせた。
あと一人、残っていることは確かだが……。
「いるのか? いないのか?」
徐々に署長が苛立ち始めてきたのが分かる。
「いるには、いるんですが……」
ミンホが歯切れ悪くそう答えると、署長は手を差し出して資料を寄こすように催促する。今回の張り込みで、ミンホがまとめた報告資料だった。そこには、ジェビンやオーサーを始め、分かる範囲での『ペニー・レイン』関係者の情報が載っている。
「……ん? ユン・ナビ?」
予想通りの展開に、チョルスとミンホはますます青ざめて顔を見合わせる。
「これでいいじゃないか! 早速、交渉に行け」
二人の気持ちなど知る筈もなく、署長はミンホに資料を突き返しながら言った。
チョルスは眉間に皺を寄せて俯いたままだ。
ミンホは、一瞬目の前に、落ち着きなく店中を動き回りながら、トレードマークの金髪を揺らして、ハスキーな笑い声を響かせるナビの顔が浮かんできて、慌てて頭を振ると、それからギュッと目を閉じた。
だが脳内に入り込んだこの猫は、現実の彼と同じくらい無遠慮にミンホの脳内を駆け回り、ミンホを悩ませた。
「……先が思いやられるぜ」
ポツリと呟いたチョルスの一言が、ミンホの今の気持ちを代弁してくれていた。
第1章【ペニー・レイン】完