After the Rain-7-
*
「おい、ちょっとそこに入れよ」
巡回中の覆面パトカーの中で、長時間ハンドルを握り続けていたミンホに、助手席に座るチョルスが声をかけた。
チョルスの言葉を受けて、ミンホは支持されるまま、大型のコンビニエンスストアの駐車場に車を止めた。
「待ってろ」
そう言うと、チョルスは店の中に入り、二人分の缶コーヒーと軽食の入ったビニール袋を提げて戻って来た。
「ずっと働き詰めだろ。少し休もうぜ」
「……ありがとうございます」
チョルスから冷たい缶コーヒーを受け取って、ミンホは運転席で頭を下げた。
「どうだ? 少しは慣れたか?」
「はい、お陰さまで。三ヶ月とはいえ、みっちりしごいてもらった時間は、身体に刻まれてたみたいです」
「俺様に感謝しろよ」
「もちろん。チョルスヒョンに足を向けては寝られません」
ふざけたやりとりに、チョルスもミンホの額を小突きながら、自分の缶コーヒーの蓋を開ける。
「……本当に、兄貴には、感謝してもしきれないですよ」
不意に声を落としたミンホに、チョルスは口をつけていた缶コーヒーから顔を上げた。
「ナビヒョンから聞きました――服役中、チョルスヒョンが、ずっと陰からナビヒョンを支えてくれてたって」
帰国した日に、ナビを自分とすれ違わせてくれたのも、チョルスだった。
「謝らねぇぞ」
横を向いたミンホとチョルスの目が合う。
アメリカにいた時、何度食い下がっても、頑なにナビに繋がるような捜査資料も情報さえも、ミンホには渡してくれなかったチョルス。
記憶を失くしていた当時は、理不尽に思って腹を立てていたが、今なら彼の気持ちがよく分かる。
ナビのミンホへの想いを知った上で、それを尊重し、ナビの身の安全も守り抜いてくれたことは、ミンホにとってはやるせないが、やはり感謝するしかないものだった。
「“後ろ盾”付きの婚約者まで袖にしちまって、前途多難じゃねぇか」
「チョルスヒョンの口から、“後ろ盾”なんて言葉を聞くと思いませんでしたけど……」
ミンホが口の端を上げてニヤリと笑う。
「そんなものは必要ないって、どこかの先輩が教えてくれましたから」
チョルスは一瞬キョトンとした表情で、それから手を伸ばしてミンホの額を小突いた。
「言うようになったじゃねぇか! 親父さんもカンカンだろうに」
「障害は、大きい方が燃えますから」
「幸せそうなツラしやがってっ!」
言うなり、チョルスは運転席に座るミンホの頭を抱え、クシャクシャに掻き回してやった。
そんな攻防がひとしきり終わると、不意にチョルスは声を落として言った。
「俺は、ナビの三年間を知ってる……もう、離すなよ」
チョルスの拘束から逃れ体勢を立て直したミンホは、真っ直ぐにチョルスの目を見つめ返して、それに頷いた。
「命に代えても」
バシンッと力強く背中を叩かれ、さっき一口飲んだコーヒーを噴き出しそうになりながら、ミンホは自分の中での誓いを更に深くした。
*
「で、何で今日もいるのさ? 夜勤明けで寝てないでしょ」
明け方、もうすぐ店じまいを始めようかという『ペニー・レイン』のいつものカウンター席に、お約束のように陣取ったミンホに、ナビが呆れ顔で尋ねる。
「さすが、束縛彼氏」
“お約束”という意味では、ミンホより年期の入っているオーサーも、ミンホの隣の席からチャチャを入れる。
そんなもはや空気のような存在のオーサーは、ナビもミンホも本当に空気よろしく軽く無視して、会話を続ける。
「帰って寝なよ。本当に身体壊すよ」
心配げに眉を寄せるナビに、ミンホはきっぱりと言った。
「一人じゃ嫌だ」
「え?」
「お金を貯めて……あなたと一緒に帰れる家を、また探しましょう。あのアパートは、仮契約のまま手放してしまったから」
「おーい、保護者のお兄様! 今ここで、サラッと問題発言してる人がいますよー」
聞き捨てならないセリフに、オーサーは言いつけるようにジェビンを呼ぶ。
そんなオーサーを無視して、ミンホはナビに向かって続けた。
「三年も離れて過ごしたんだから、もう一生側にいてください」
「一生って……え?!」
「お兄様! どさくさ紛れにプロポーズしてる人がいますっ!」
悲鳴を上げるオーサーに、ミンホはようやく振り返る。
「あなたは、黙っててください!」
「プ……プロポーズって、ええっ?!」
目の前で無責任にどんどん繰り広げられる展開についていけないナビは、目を白黒させるばかりである。そんなナビの手を掴むと、ミンホはそのまま店の外にナビを連れ出した。
後ろから泣き声のようなオーサーの悲鳴が追いかけてくるが、パタンッと店のドアが閉まるのと同時に、その声も二人には届かなくなった。
雨は止み、東の空が朝焼けに染まり始めている。
「ちょっと! おい! どこ行くんだよ」
「二人になれる場所っ!」
ナビの手を掴んだまま、やみくもに走り出すミンホの頬は、朝焼けに照らされて、まるで少年のように輝き上気している。
「子どもかよ、もうっ!」
息を切らせながら抗議の声をあげるが、ナビはその生気に満ちた輝きに見惚れていた。
どこを目指しているかも分からない、無茶苦茶な疾走だったが、固く手を繋ぎ、朝焼けの空に向かっていく高揚感は、二人の胸を同じ幸福感で満たしていた。
「雨の時も、晴れの時も――」
「え?」
風の合間から切れ切れに聞こえてくるミンホの声に、ナビは耳をすます。
「愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
どこかで聞いたようなフレーズだが、思い出せない。
「誓います」
自分でかけた言葉に力強く自分で答えて、ミンホは軽くナビを振り返る。
その顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「あなたも、誓ってください。これからは、雨の日のあなただけじゃ、足りないからね」
意味が分からず、キョトンとした顔を向けるナビに構わず、笑みを深くしたミンホは、そのまま走りながら、ナビの小さな手を包む自分の手に力を込めた。
もう決してこの手を離さない――
そう、言葉にする代わりに。
番外編②【After the rain】完