After the Rain-6-
*
「……ミンホ?」
清掃用のモップを手にしたまま物思いに耽っていたミンホは、ナビの呼ぶ声でようやく我に返った。
「大丈夫? まだ具合悪いの?」
「ああ、すみません――何でもありませんよ」
カウンター越しに心配そうに覗き込むナビにそう言って、ミンホは手にしていたモップを脇に置いた。
「無理するなよ。記憶が戻ったっていったって、まだ本調子じゃないんだから」
「大丈夫ですって」
言いかけて、ミンホはふと思いとどまった。
ナビがこんなに心配してくれるのは珍しい。
実際、仮にも警官を生業とし、連日ハードな勤務や訓練をこなしている自分には、たかだか一日二日の徹夜や、『ペニー・レイン』の店じまいを手伝うくらいの作業は何てこともないのだが、せっかくナビの心配してくれているのだから、それに甘えない手はないだろう。
ミンホは額に手を当てて、わざとらしくならない程度にいつもより弱めた声で、呟いた。
「……でも、やっぱりちょっと疲れたかも」
「ほら、やっぱり! いいから座って。お前こそ、ちょっと休んでよ」
ナビはカウンターの中に回り込んできて、ミンホの肩を抑えて半ば強引に椅子に腰かけさせた。
ミンホは逆に、肩にかけられたナビの手を掴み、そのまま自分の胸の前で交差させた。背後から抱き着く恰好になったナビはジタバタと抵抗するが、ミンホに両手首をがっちりガードされて身動きが取れなかった。
「ちょっとっ! 何するんだよ。疲れてるから、休んでって言ってるのに!」
「疲れてるから、あなたのパワーをもらいたいんですよ。エネルギーチャージです」
「僕は充電器かよっ!」
ナビらしい突っ込みに、ミンホが肩を震わせて笑っていると、ふいに足元にポトリと何かが落ちた。
「……なんですか、これ?」
ミンホがナビの腕を離し、落ちたそれを拾い上げる。
ミンホの拘束をようやく逃れたナビが、顔を真っ赤にしたまま、少し警戒しながらミンホの手の中を覗き込む。
「ああ、僕の本当の住民登録証」
「“本当の”?」
ミンホが思わず振り返ると、至近距離で目が合ってしまったことにますます顔を赤くしたナビが、照れ隠しに怒ったように顔を背けて言った。
「前のは、ジェビン兄貴の弟のものを、偽造してもらったものだったから」
まだ出会ったばかりの頃、ナビを未成年だと疑ったミンホに、自分の方が年上だと見せつけるように住民登録証を突き付けてきたあの日のことを思い出す。
「偽造って、誰がそんなこと……」
「先生が」
仮にも警官である自分を前にして、堂々と“偽造”などという犯罪行為を口にするナビだったが、その答えを聞いて、ミンホは脱力するとともに納得してしまった。
あの闇医者は、まったくどこまで万能なのか。
当時のナビが“ナビ”として生きるためには、それしか道がなかったことはミンホでも痛いほどよくわかっていた。
「……服役中にね、先生が紹介してくれた弁護士さんが、僕の戸籍を整理してくれたの。それで、“シン・ハヌル”か“ユン・ナビ”か、僕が選んでいいって」
そう言って、ナビは細い指で、住民登録証にしっかりと刻まれた“ユン・ナビ”の文字をなぞった。
“シン・ハヌル”ではなく、これからの未来も“ユン・ナビ”として生きていく――小さなカードには、そんなナビの確固たる意志が刻まれていた。
もう、パク・サンウの影と罪悪感に怯えて暮らす“シン・ハヌル”ではないのだと。そんなナビの思いが伝わって来て、ミンホは住民登録証をなぞるナビの手を自分の大きな手で優しく包んだ。
「本当のあなたの誕生日も……やっぱり、僕より年上なんですね」
カードに刻まれた6桁の番号は、やはりミンホのものよりひとつ若い番号が刻まれていた。
「なんだよ、疑ってたのかよ」
「いえ、そういうわけでは。でも、あなたに“オッパ”って一度でいいから呼ばれてみたいなと思っただけです」
「なっ?! 誰が呼ぶかよっ!」
「えー? 一度くらい、気分を変えて呼んでみたっていいじゃないですか」
「お前は年下! 僕は年上! 兄貴って呼べよ! タメ口きくなっ!」
「なんか、以前にもそんなセリフ聞きましたね」
呆れながらも、ナビと普通にこんなやり取りができる時間の全てが愛おしい。
「はいはい、呼び方なんて何でもいいですよ。あなたは、あなただから。僕のナビ兄貴」
憎らしいほど余裕を含んだ優しいミンホの声に、ナビは顔を真っ赤にしたまま俯くことでしか答えることが出来なかった。