After the Rain-4-
明け方――閉店間際まで、結局ナビは忙しく働き詰めで、ミンホは何もせずに座っているのが申し訳なくなり、途中からカウンターの中に入り、皿洗いを手伝っていた。
ナビより手際がいいので、カウンターを覗いたジェビンは苦笑いしていた。
「お疲れさま。お前はもう、休んでいいよ」
最後の客のテーブルを片付けて戻ってきたナビは、カウンターの中にいるミンホに声をかけた。
「僕は大丈夫です。あなたこそ、ずっと働き詰めだったんだから、少し休んでください。そのお皿も貸してください。僕が洗います」
「なっ?! いいよ、お前もこのあと仕事だろ」
「もう洗剤も着けてるし、今さら一二枚増えたって変わりませんから。ほら、早く」
ミンホに促されて、ナビは渋々自分の持っていた皿を盆ごと差し出す。
腕まくりしたミンホは、どこか楽しげに、皿を洗っていく。
「ふーん、なるほどね」
その時、カウンターに戻って来たジンソルが、ナビと皿洗いに勤しむミンホを交互に見比べながら、笑みをこぼした。
ミンホの右の耳たぶには、皿を洗って動く度に揺れる、ナビと揃いのピアスが光っていた。
「……なに? 姉さん」
ジンソルの視線の先を見て、ナビが居心地悪そうに尋ねる。
「いや、なに。あんたが最初で最後の懲罰房行きになった理由が、今初めて分かったと思ってね」
その言葉に、ミンホが顔をあげる。
「さっき話しただろう。肝の座ったこの子は、見え透いた挑発になんか乗らなかった。でも、たった一度だけ、そのピアスに手をかけられて、飛びかかっていったことがあったんだ」
それ以上言ってくれるなと、ナビは真っ赤になってジンソルの腕を掴む。
「床に飯をぶちまけられても平然としていたこの子が、だよ。でも、この子にとっては、懲罰房に入ることなんて何でもないくらい、大切なものだったんだね」
そう言って、ナビの左耳のピアスに視線を落とす。
「あんたたちにとっては、指輪代わりみたいなものなんだろう」
恥ずかしさに、自分の腕を持つ力が強くなるナビの手を優しくほどくと、ジンソルはポンポンとナビの肩を叩いて言った。
「結婚式には呼んでおくれよ」
「姉さんっ!」
真っ赤になって叫ぶナビに笑いながら、ジンソルは店の奥に消えてしまった。
客のいなくなった店内には、ミンホとナビの二人だけが取り残された。
「またあなたは、無茶な真似を――」
気まずい空気に、ナビにつられて赤くなりながらも、ミンホがいつもの小言を口にする。
だがそれは、ナビも自分と同じように、このピアスの意味を理解し、大切に思ってくれていたことの証でもあり、叶うなら、今すぐカウンターを飛び越えて、愛しさのままに、ナビをこの腕に抱きしめたいと思った。
「あなたが言ってた“友達”って、彼女のことですか?」
ミンホの言葉に、俯いていたナビが顔をあげる。
「言っていたでしょう? 刑務所の中でも楽しかったって」
ナビはそう言われて、ようやく先日のミンホとの会話を思い出した。
「ああ! そうそう。ジンソル姉さんは本当に良くしてくれたんだよ。それに、僕より姉さんの方が2ヶ月早く出所したけど、姉さん繋がりで、他にもたくさん友達ができたから、最後まで楽しかった」
屈託のない笑顔を浮かべるナビに、ミンホも一緒に微笑んでやるが、その“友達”が出来るまで――先ほどジンソルから聞いた、刑務所暮らしを始めたばかりの頃の苦労や、好意的なばかりではないであろう塀の中の住人たちのことを考えると、やはり複雑な心境だった。
そんなミンホの心情を知る由もなく、ナビは無邪気に会話を続ける。
「出所してから、僕から姉さんに声をかけたんだ。うちはいつでも人手不足だし、姉さんも娘さんを引き取るために働く場所を探してたから」
「娘さんは、旦那さんのところに?」
暴力亭主を刺して、コレさ――
豪快に笑い飛ばしてみせた、先ほどのジンソルの顔を思い出しながら、ミンホは尋ねた。
その問いに、ナビの顔がにわかに曇り、首を横に振る。
「……ううん。施設に入ってるって」
「施設に?」
ナビは言いにくそうに声を落として続けた。
「……娘さんは、姉さんの連れ子だったんだ……姉さんがあの事件を起こしたのも、本当は、娘さんを守るためだったんだよ……もうすぐ高校を卒業するから、そしたら一緒に暮らすんだって」
ナビの拙い説明にもかかわらず、勘の良いミンホは瞬時に全てを理解した。
酒乱で疑り深い夫に我慢ならなくなって刺したと笑っていたジンソル。
だが真相は――恐らく、夫が幼い自分の愛娘に手を出していたことを知っての犯行だったのだろう。
だから尚更、ナビの境遇に娘の姿を重ねて、目をかけていたのだと、ミンホはジンソルの気持ちを察した。
「さあ、終わりましたよ。戸締りしましょうか」
ミンホは勢いよく流していた水道の蛇口を止め、タオルで手を拭きながら言った。
「あ、うん! お疲れ様。ありがとう」
「どういたしまして」
珍しく素直に礼を言うナビに、ミンホも自然に微笑み返す。
パタパタと戸口に走り、『CLOSE』の札を下げて戻って来たナビは、各テーブルを回り、客の忘れ物がないかチェックしていく。
ミンホはそんなナビを視界の隅に収めながら、自分はカウンター内の清掃に取り掛かっていた。
しばらくそうして互いの仕事をこなしていると、先に仕事を終えたナビの方が、またパタパタとした足音を立てながら、カウンター席に戻って来た。
その音に顔を上げたミンホは、ナビの腕の中に抱えられたものを見て、首を傾げた。
「何ですか、それ……忘れ物?」
ナビの手の中には、数冊の参考書らしきものが抱えられていた。
どこかの学生が忘れていったのだろうか?
「ううん、これは僕の。店の合間にやろうと思ってたんだけど、今日は忙しすぎて出来なかった」
そう言うと、大切そうにそれらをカウンターに広げて見せる。
それは高校1年生の数学やら、韓国史やらの参考書だった。
「あなたの?」
ミンホが首を傾げると、ナビは少し恥ずかしそうに鼻の下を擦って言った。
「高卒認定試験を受けようと思って……」
「あなたが?」
驚きで、思わず続けざまに尋ねるミンホに、ナビの鼻の下を擦るスピードが速くなる。
「最近始めたばっかりだけどね! 先生に教えてもらって……ちょっとづつ」
ナビの言う“先生”が、あの食えないオーサー・リーであることをすぐに理解して、ミンホは思わず口を開く。
「何で、急に? それに、勉強なら僕だって教えてあげられるのに」
ミンホがそう言うと、ナビはブンブンと首を横に振った。
「い、嫌だよっ! お前に教えてもらうなんて」
「何でですか?! 僕だって、あなたの役に立ちたいのに」
ここにいないオーサーへの無意識の嫉妬もあり、ミンホがカウンターに身を乗り出しながら迫ると、ナビは逆にのけ反って、ミンホを押し戻すように手を伸ばした。
「お前のためにやろうって決めたのに、その本人に教えてもらう訳にいかないだろ!」
「……僕のため?」
ナビの言葉に、ミンホが動きを止める。
「どういうことですか?」
ミンホが静かに尋ねると、ナビはたちまち顔を赤くして俯いてしまった。
ゴニュゴニョと何か呟くナビに、ミンホが顔を寄せる。
「なに?」
「っだから! お前に並ぶのは無理でも、一緒にいて恥ずかしいと思われるのは悔しいだろっ!」
顔を真っ赤にしたまま、半ば自棄になったようにナビは一息に言った。
面食らったのは、ミンホの方だった。
「……そんなこと、考えてたんですか」
どんなナビだろうと、自分がナビを恥ずかしく思うことなど有り得ないのだが、ナビなりに、この先も自分と一緒にいる未来を考えてくれていたのは、素直に嬉しかった。
「それに、お前、スパルタそうで怖いし」
照れ隠しなのか、本気でそう思っているのか、後付けでゴニョゴニョと言うナビの言葉を軽く聞き流しながら、ミンホは、帰国してからの家族とのやり取りを思い出していた。