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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
番外編②【After the Rain】
215/219

After the Rain-3-

 監獄生活も7年目に入り、すでにベテランの域に入っていた自分は、刑務所内で否応なしに発生する、いくつかある派閥のトップでもあった。

 看守にも顔が利き、それなりの力は持っていたが、それ故に、それに反発する派閥からの嫌がらせを受けるのも常だった。


 立場上、新入りの名前や罪状は自然と耳に入って来る。


 今度の新入りは、シン・ハヌル――虐待されていた養父を刺したこと、その養父に長年暴行を受けていたことも聞き及んでいた。


 刑務所内にいれば、その手の話はありふれたもので、その背景が特別なものとは思わなかった。だが、ジンソルにとっては、別れてきた娘のことが思い起こされて、その手の事件には、個人的に強い嫌悪感と胸の痛みを覚えていた。

 

 その新入りを一目見るまで、勝手に自分の娘を重ねて、か弱い少女のイメージを抱いていたジンソルは、まるで少年のような彼女と、その罪状がうまく噛み合わず、妙な気持ちになったことを覚えている。

 そんな理由もあって、初めて会った日から何となくシン・ハヌルが気になっていたジンソルは、刑務所内での彼女の様子を気にかけていた。作業場でも至って真面目に働くハヌルだったが、その容貌や、常にひとりでいることから、ジンソルたちが敵対する派閥からの恰好のターゲットになっていた。


 ある日、食堂でいつものようにハヌルがひとりで夕飯を食べようと席に着いた横を、いつも何かと彼女に絡んでくるグループに所属する女が通り過ぎた。

 その瞬間、ハヌルの夕飯を乗せた盆が床にぶちまけられた。

 女がわざとぶつかったのは明らかだった。


「ああ、悪いね。でも、あんた――通称“ナビ”なんだろう。床に這いつくばって食べるんだね」


 分かりやすすぎる挑発に、ジンソルは思わず腰を浮かせた。

 このままハヌルが挑発に乗って女に掴みかかりでもしたら、たちまち看守が駆けつけて、懲罰房行きになってしまう。長年の監獄生活でそれは身に染みて分かっていたし、女がそれを狙ってハヌルに仕掛けたのも明らかだった。


「どうしたんだい? 早く食べないと冷めちまうよ」


 俯くハヌルの表情は、最近伸びてきた前髪に隠れて読み取れない。

 だが、ハヌルは突然ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。

 女の唇が、底意地の悪い期待を込めた笑みの形に歪む。

 だがハヌルは、掴みかかるかと思われた女の脇を素通りし、床にぶちまけられた盆の側に屈み込むと、ひっくり返った盆を元に戻し、素手で散らばった夕飯の残骸を拾い集めて元の器に戻した。

 それから何食わぬ顔で盆を持つと、元いた自分の席に戻り、ガツガツとその残骸を食べ始めた。


「意地汚いガキだね。呆れるよ」


 自分が思い描いていたものとは異なる反応を見せたハヌルに、女は悔し紛れの暴言を吐く。


「食べ物を粗末にするなって、習わなかったの? 僕は、兄貴ヒョンに習ったよ。人として、大事なことだって」


 そう言って、目だけで女を見上げる。


「食べ物を粗末にしたら罰があたるよ、おばさん」

「おばさんっ?!」

「そこまでにしておきな」


 これまでのやり取りを黙って見ていたジンソルだったが、今にもハヌルに掴みかかりそうになっていた女の肩を押さえて、その背中を押した。


「あんたの負けだよ。向こうへ行きな」


 刑務所内の序列的にも叶わないジンソルが出てきたことで、女は悔し気に歯噛みしながら、一番遠くのテーブルへと消えた。


「見てたよ、坊や」


 女子刑務所にいるのだから、ハヌルが女性であることは分かっていたが、ジンソルの口からは自然にそんな言葉が出てきた。


「よく我慢したね。それに、こんな汚い床にぶちまけられた臭い飯、口に入れられるなんて、立派だよ」


 モグモグと口を動かしながら、ハヌルはジンソルを見つめる。

 ジンソルの配下の女が、ジンソルの盆を今までいたテーブルから持ってきて、ジンソルの前に置いた。

 その様子をジッと見ていたハヌルだったが、不意に、自分が手にした銀色のスプーンを突き出して、ジンソルのわかめスープの盆に突っ込んだ。


 突拍子もないハヌルの行動に、ジンソルは思わず動きを止める。


「おばさんは、食べない方がいいよ。それ」


 そう言って、スプーンをグリッと動かすと、黒い――刑務所の床を拘束で這いまわるあの憎い虫をスープの中から掬いあげた。


 ヒッ――と、周囲にいた女たちから悲鳴があがる。


 ハヌルは何食わぬ顔で、スプーンに乗ったその虫を床に投げ捨てた。


「さっき、あのおばさんが、あんたのお皿に入れるの見てたから」


 そして、そのスプーンを使って、また食事を再開し始めた。


 幼く見えるのに、随分と肝の据わった子だ――


 ジンソルは内心、舌を巻いた。


「私は、キム・ジンソル。大した坊やだよ、シン・ハヌル」


 テーブルの対面から手を差し出すジンソルを、口いっぱいにご飯を頬張ったまま、ハヌルは黒目がちの瞳で、ジッと見つめた。


「――ユン・ナビ」


 やや間があって、ハヌルはボソッと呟くように言った。


「え?」


 思わず聞き返したジンソルの肉厚の手を掴んで、ニコリと笑う。


「僕の名前。“ナビ”って呼んで――ジンソルさん」


 これが、ジンソルとナビの出会いだった。





「ジンソル姉さん! こっちもお願い」


 先ほどから、向こうの方で忙しく働いていたナビから声がかかる。


「ああ! すぐ行くよ」


 ジンソルはナビのSOSに答えて手を挙げる。


「邪魔したね。二年半の間に色々あったけど、あの子は私の自慢の娘――いや、息子――どっちでもいいけどさ、とにかくいい子じゃないか。あの子が惚れたっていう“王子様”に、私も一度でいいから会ってみたかったんだ」


 そう言って、カウンター席から立ち上がると、もう一度ミンホを真っ直ぐに見据えた。


「あの子を、よろしく頼むよ」


 言葉とともに、バンッと重量感を持つ一発を背中にお見舞いされた。

 思わずむせるミンホに笑いながら、ジンソルは客でごった返す店内を器用にすり抜けて、ナビの元へ向かった。


 ジンソルの大きな背中を見送りながら、ミンホは明慶大学に潜入していた時に知り合った、ヒョンスのことを思い出していた。


 あの時も感じたが、ナビには人好きのする天性の才能があるのだ。

 それゆえに、ミンホは要らぬ嫉妬で苦しむこともあるが、持って生まれた人を惹きつける太陽のようなその明るさは、雨とともに路地裏で生きるしかなかったかつてのジェビンや、このジンソルという女をも、救うものだったのかもしれない。そして、それが尊くありがたいことだと意識もせずに太陽の下を生きてきた自分にも、改めて、その明るさや温もりの大切さを教えてくれた。


 ナビの周囲が語るナビの姿は、ミンホに改めてそんな思いを呼び起こさせ、余計に唯一無二なナビの存在と、その愛おしさを自覚させられるのだった。




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