After the Rain-1-
雨上がりの、空に誓う……
「……お前、仕事は?」
『ペニー・レイン』のカウンター席に陣取り、先ほどから出されたつまみに手をつけることもなく、カウンターの中で働くナビを、穴が開くほど見つめ続けるミンホに、ナビは呆れ顔で尋ねる。
「ちゃんと終わってきましたよ。今日は日勤でしたから」
「なら、いいけど……そんなに毎日来なくても……」
何をするわけでもないのに、カウンター席から毎日熱視線を送られては、居心地が悪くて堪らない。
「……なんか、デジャブ」
そう言って、不意に二人の間に割り込んで来たのは、なぜかミンホの隣りの席に腰を下ろした、今日もお馴染み『ペニー・レイン』の常連客、オーサーだった。
「ナビがまだ子猫ちゃんだった時、センセーの家で同じ会話したような……」
「は?」
聞き捨てならないセリフを吐く軽薄な男に、ミンホの眉間に深い皺が刻まれる。
「うーうん、こっちの話ぃ。ねぇ、ヤだよねー、束縛彼氏」
そう言うと、オーサーは凄味の利いた視線から逃れて、カウンターの向こうにいるナビに向かって、ニッコリと微笑みながら言った。
「あんまり束縛すると、逃げられちゃうよぉ。猫は自由を愛する生き物だから」
「はぁ?! 元はと言えば、あなたが変なモノ作るから!」
身を乗りだし、面白いくらいオーサーの挑発に受けて立つ姿勢を見せたミンホに、横顔を向けていたオーサーの口角が上がる。
「ねぇ。三年も効果があると思わなかったよ。やっぱり俺って、天才なんだな」
クルリとミンホを振り返って笑うオーサーに、ミンホは堪らず声をあげた。
「よくもヌケヌケとっ!」
「その間に、婚約者まで作っちゃうとは思わなかったけどー」
痛いところを突かれて、ミンホがグッと言葉に詰まる。
「……それは、だって……」
「先生、もういい加減にしてよ」
これ以上見ていられないと、ナビが止めに入る。
いじめすぎたか――とペロッと舌を出したオーサーは、少しだけ声のトーンを優しく変えて言った。
「まあ、愛の力で思い出しちゃうあたり、君の執念を感じるけど、ね」
だが、その声は、ミンホの耳には届いていなかった。
「……三年も……僕のせいで」
カウンターに置かれたミンホの手は、微かに震えている。
「ミンホ……」
ナビがカウンターから手を伸ばし、その手をそっと握る。
「おい、お前ら」
その時、混雑し始めた店内で、一人忙しく働いていたジェビンが、遂に見かねて声をかけた。
「邪魔だから、表に出てろ」
ナビに手を引かれて店の外へ連れ出されたミンホは、逆にその手を強く引いて、ナビを腕の中に閉じ込めた。
まだ微かに震えが残る身体で、抱きしめる腕に力を込める。
「僕のせいで、三年も……」
「二年半だよ」
「同じことです! 一日だって、あなたをあんなところへ入れたくなんてなかった」
すべてを思い出した後、ナビが自分の身代わりになって服役したと知った時、ミンホのショックは計り知れなかった。
警官の座など、捨ててもいい――
いまさらだが、自首して、ナビの無実を証明する――
そう言って聞かないミンホを、ナビやジェビン、チョルス……みんなが総がかりで必死になって止めた。
結局「ナビの気持ちと、お前と離れていたこの三年間を無下にするな」というチョルスの一言で、ようやく気持ちを落ち着けたが、事あるごとに、ミンホはそれを思い出し、今のように激しく落ち込む日々だった。
「僕が勝手にやったことだよ。それに、友だちも出来たし、結構楽しかった」
「友だち?」
あっけらかんととんでもないことを口にするナビに、ミンホの脳裏には、かつて潜入捜査のために、一緒に明慶大学で過ごした日々がよぎる。
思えばあの時から、自分はナビのこうした天真爛漫さに、知らずに惹かれていたのだった。
「それに、チョルスヒョンが、陰から色々助けてくれてた」
「……そうですか」
アメリカにいる間、どんなに食い下がっても、チョルスがミンホに口を割ることはなかった。捜査資料を渡すことさえも。
チョルスはナビの想いも事の真相も知っていただけに、そうした行動を取ったのだと今なら分かる。
そのうえで、ナビのサポートに回っていたことも。
だが、いくら記憶を失くしていたとはいえ、自分だけ蚊帳の外に置かれ守られていたようで、ミンホはやり切れない。
あれだけ自分が守ると決意したナビに、こんな形で守られていたなんて。
ひとり、悔恨に浸っていたミンホは、知らずにナビを抱く腕に力がこもっていたようで、腕の中でナビが苦し気に身じろぎした。
「あ、ごめんなさい」
ミンホは慌てて腕の力を緩めた。
「……ミジュさんが、来たんだよ」
少しできた身体の隙間から、ナビがやっと息をついて告げる。
ミンホはようやくナビを離して、その目を見つめた。
「いつ?」
気まずそうにそう尋ねるミンホに、ナビは静かに答える。
「アメリカに帰る前の日。わざわざ会いに来てくれた」
「……そうですか」
ミンホはそう言うのが精いっぱいだった。
彼女が韓国を発つ前、最後に会った時、ミンホは誠心誠意、彼女に頭を下げた。
お互い、親に半場強制的に押し付けられた相手とは言え、アメリカで彼女と過ごした日々が消える訳ではない。
ずっと心ここにあらずの状態だった自分と、彼女はどんな思いで一緒に過ごしていたのか。
だが、記憶を取り戻した以上、彼女とともに生きる未来を選ぶことは出来なかった。
「……僕、聞いたんだよ。お前、ミジュさんのお父さんを怒らせて、仕事は大丈夫なの?」
そう尋ねるナビに、ミンホはきっぱりと言った。
「僕のことは心配要りません。もともと、後ろ楯なんてなくたって、僕は僕の実力で勝負しますから」
あまりにも毅然とした態度に、却ってナビの方が不安になる。
「あんないい話、断るなんて……」
「本気で言ってるの?」
ナビの一言に、ミンホの声に怒気がこもる。
「あなたにだけは、そんな風に言われたくないよ」
「……ごめん」
本気で怒るミンホに、ナビが弱々しく詫びる。
そんなナビをミンホは再び強く抱きしめた。
「もう、勝手に僕の前からいなくなったり、身を引こうなんて思わないで。二度と……そんなことしないって、約束してください。あなたが側にいてくれれば、僕は何でも出来るんだ」
ナビの肩に顔を埋め、懇願するようにそう呟くミンホの背に手を伸ばし、ナビは優しくさすってやる。
「あなたを忘れている間、ずっと心が死んでるみたいだった」
抱き締めた温もりに大きな身体を預けて、子どものようにすがりつくミンホを、ナビはそのまま、気が済むまで優しく甘やかしてやった。
番外編②【After the Rain】開始です。
2人の再会後の後日談――全7話になります。
よろしくお願いします!