He`s Rain-2-
*
ミンホはいつも変わらず優しかったが、彼が留学期間中に借りていた大学近くのアパートを、スヨンと一緒に訪れた時、電話をかけていた彼が珍しく声を荒げている場面に遭遇したことがある。
「クムジャ姉さん、お願いします。僕自身のことなんです。チョルスヒョンにいくら言っても聞いてくれない!」
電話の向こうからも、何を言っているのかは聞き取れないが、韓国語で男の厳しい声が漏れてきた。
「チョルスヒョン! だって、仕方ないでしょう。あなたが何も教えてくれないなら、姉さんに頼むしか……何か、僕に隠してることがあるんじゃないですか?!」
なおも強い口調でのやり取りを続けた後、ミンホは不意に低い声で呟いた。
「……シン・ハヌル」
それを合図のように、ミンホは電話に向かって吠えるようにまくし立てた。
「通称――ユン・ナビ。僕が追っていた重要参考人だと言ってましたよね! 彼……いや、彼女についてだけでも教えてください。気になるんです、なぜか分からないけど」
その時、電話の向こうの相手は、ミンホに断りなく突然電話を切ったようだった。
「ヒョンッ! チョルスヒョン!」
ミンホは叫び、手にした携帯を床に叩きつけた。
「……クソッ!」
頭を掻きむしり、そのまま床にうずくまる。
ミジュたちが訪れていることにも気付いていない様子だった。
隣にいたスヨンが、慌てて部屋に上がり、兄の元へ駆け寄る。
ミンホが落ち着くまで、スヨンは繰り返し彼の背中をさすってやった。
ミジュはそんな光景をただ黙って見つめることしか出来なかった。
ミンホの宿舎からの帰り道、ミジュは思いきってスヨンに聞いてみた。
捜査の時にあった事故で、一時期の記憶を失っていると聞いてはいたが、あんなミンホの姿を見てしまった以上、何か自分に力になれることはないかと思ったのだ。
失くした記憶の手がかりを、自分も一緒に探すことは出来ないかと。
ミジュの申し出に、スヨンは戸惑っているようだった。ミジュに言うべきか否か考えあぐねながらも、スヨンは自身がソウルで見てきたことを教えてくれた。
一人で暮らすには、広すぎるアパートの仮契約書。
部屋にひとつだけの大きなベッド
普段の兄からは考えられない、不可解な部屋の持ち物の数々。
そして、失くした彼の記憶のように、ぽっかりとそこを飾る筈のものを失った、ピアスの傷痕。
兄には、恋人がいたのではないか――
それが、スヨンの考えだった。
だが、本当にそんな存在がいたのなら、捜査中の事故で負傷した兄の元に寄り添わないのは不自然だし、自分たち親族やミンホの友人たちの間にも、それらしき人物からの接触は皆無だった。
まるで、ミンホの記憶の中だけに住む、正体不明の幽霊のようで、その存在事態に確信が持てなかったスヨンは、父から半ば強制的に持ちかけられたミジュとの婚約話にも、引っ掛かりを感じつつも、否を唱えることが出来なかった。
「……ごめんなさい。あなたにこんな話を。兄との結婚に、反対している訳じゃないの。兄にとっても、復職した後の後ろ楯は重要だし。こんないい話、ないと思ってるわ」
苦し気に言い募るスヨンに、ミジュは首を横に振った。
「教えて欲しいと言ったのは私だもの。言いにくいことを話してくれてありがとう」
あのミンホなら、恋人の一人や二人いたところで、何の不思議もない。
名乗り出て来ないのは、既に別れているからかもしれない。
ただでさえ、平凡な自分には高嶺の華であるミンホの妻の座を、図々しくも父のコネを使って得ようというのだから、過去にまで嫉妬していてはバチが当たるというものだ。
ミジュはそう思い、スヨンの告白を受け入れた。
たが、ミジュの心の片隅には、一抹の不安が残っていた。
失くした記憶を求めて苦しむ彼を見ていると、その記憶の片隅に眠る、誰だかわからない相手は、ミンホにとって、過去の甘い恋の相手とも違う、もっと切実で狂おしい存在に思えたからだった。
*
二人で映画を観に行った週末の帰り道、隣りを歩いていたミンホが、不意に足を止めた。
また、だ――
黙って空を見上げるミンホに、ミジュは思い切って声をかけた。
「オッパ? どうしたの?」
「……いや、ここはいつも晴れてるんだなと思って」
意外な答えに、ミジュは拍子抜けする。
「カリフォルニアは、一年を通して雨が降らないのよ」
学校の地理で習ったでしょう? と言ってミジュは笑った。
「いい気候でしょう? 私は、ここが大好き」
夏と冬の寒暖差が激しいソウルよりも、確かにミジュはこの西海岸特有の明るく爽やかな気候が気に入っていた。
「……雨が、降らない」
だがミンホは、先ほどのミジュの言葉を茫然と繰り返した。
どこまでも快晴の空を見上げ、その目はここでは決して見ることの出来ない、“何か”を探していた。
ミジュは急に堪らなくなって、咄嗟にミンホの袖を引いた。
「オッパ!」
予期せぬミジュの行動に、ミンホが我に返ってミジュを見る。
そんなミンホの胸に、ミジュは初めて自分から飛び込んだ。
「……そんなに苦しむなら、もう思い出さなくてもいいんじゃない?」
ミンホのシャツの胸を掴み、そう訴えても、彼の手が自分の背に回ることはなかった。
代わりに、詫びるようにサラリと癖のないミジュの髪を撫でる。
ミンホはそのまま黙ってミジュの肩に手を置くと、優しく引き離した。
「……ごめん。送っていくよ」
先に立って歩きだしたミンホの後を、ミジュは黙って着いて行くしかなかった。