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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第1章【ペニー・レイン】
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1-20


 そのまま考え込んでしまった二人の沈黙を破ったのは、ミンホだった。


「……あっ」


 助手席の窓から外を見ていたミンホがチョルスを振り返る。


「ヒョン! 見つけました」


 それは、最初にミンホたちが『ペニー・レイン』を訪れた時、開店場所に選ばれていた高架橋の下だった。車からはほとんど死角になっているので、最初の時には気付かずに素通りしていた場所だった。今回は、前回のことがあったので、ミンホは微かに漏れるテントの明かりを察知することが出来たのだった。


「同じ場所に戻るなんて、珍しいな」


 チョルスは急ハンドルを切って、路地の隙間に頭から突っ込む。

 ギュルギュルとタイヤの音をさせて、今来た道を逆戻りする。


「あ、ヒョン! あれ」


 そう言って、ミンホが指差した先には、橋の下に広げられた黒いテントの店の前で、細身のデニムのポケットに両手を突っ込んで、煙草を咥えながら所在なげに立ち尽くしているオーサーの姿があった。


「今日もあの野郎が先回りか。開店場所は企業秘密だなんて言ってるが、あのお医者さんは、場所を予め知っているとしか思えないな」

「誰か来ます」


 その時、ミンホの指差す方向に、一人の男がフラフラと歩いて来るのが見えた。傘も差さずにずぶぬれになりながら、男はオーサーの元まで辿りつくと、彼の胸に縋るようにして何かを訴えているようだった。

 当のオーサーは、めんどくさそうに煙草をふかし続け、やがて全部を吸い終わると、ゆっくりと雨の中にその吸殻を投げ捨てて、男に向き直った。

 オーサーのシャツを掴み、苦しげに何事かを訴える男の頬を、オーサーはいきなり何の前触れも無く思い切り張り倒した。

 男は足元の水溜りに派手な水飛沫を上げながら転がった。

 冷たく踵を返し、歩き出そうとするオーサーのジーンズの足元に、男は必死で取り縋る。


「……ミンホ」

「はい」


 チョルスが低く呟くと、二人同時に車のドアを開ける。

 車を置いて高架橋の下へ駆け下りると、距離を保ってオーサーと男の様子を見守った。

 オーサーは濡れた手で容赦なく掴まれた事によってどんどん水気を吸っていくジーンズに苛立っていたようだが、やがて地面に寝そべる男の腕を持ち、強引に立ち上がらせた。

 引きずるように男を連れて、雨の中を歩き出す。

 チョルスたちも、気付かれないように足音を忍ばせながら後を追う。

やがてオーサーと男は『ペニーレイン』から離れること数百メートルのところにある、朽ちかけた廃材置き場の影に消えた。


「チョルスヒョン」


 チョルスは無言でミンホに向かって頷いた。腰に下げた銃の在りかを確認すると、二人はチョルスと男が消えた廃材置き場の脇まで静かに忍び寄って行った。


「早く……早くくれ。お願いだ……先生」

「それが、人にモノを頼む態度?」


 材置き場の中からは、途切れ途切れに、男の切迫した掠れ声と、相変わらず人を食ったようなオーサーの声しか聞こえてこない。


「洋服、それに着替えて」

「……そんなことより、早く……」

「あれ? もう忘れちゃった? もう一度、ここに来るための条件。俺の言う事は、何でも聞くんじゃなかったの」


 ピシャリと言い放ったオーサーに、男は渋々言う通りにしたようだった。耳を澄ますと、衣擦れの音が微かに聞こえてくる。


「パンツも忘れないでね」


 オーサーは楽しげに、歌うように言った。男が軽く舌打ちしたのが分かった。


「……何を、してるんでしょうか?」

「さあな。黙って、聞いてろ」


 チョルスは廃材置き場の壁に耳をつけて、ジッと中の様子をうかがっている。


「着替えたら、そこの水飲んで。全部ね」

「おいっ!? いい加減に……」

「じゃあ止めようか? 俺は一向に構わないけど……」

「分かったっ! 分かったから……言うとおりにすればいいんだろ?!」


 そう言うと、男が喉を鳴らして水を飲み干す音が聞こえてきた。


「はい、よく出来ました」


 部屋の中で、オーサーがパチパチと拍手する渇いた音が響き渡った。


「じゃあ、準備完了だね。隣りの部屋に行って。ベッドで待っててね」

「ベッドォ?!」


 思わず素っ頓狂な声をあげそうになったミンホの口を、慌ててチョルスが塞いだ。


「バカッ! お前、大声出すなっ!」

「……だ……だって、チョルスヒョン……あの医者……クスリの見返りに……まさか……身体を?」

「お前の言うとおりだったら、『非合法堕胎』に『密売』に『買春』の三重の罪でしょっ引けるだろうけど、最後のはどうかな? 同意の上なら、個人の趣味にとやかく言えない」

「あれが、同意の上に見えるんですかっ?!」

「シッ! 声が大きいっ!」


 チョルスはミンホの口を押さえたまま、ズルズルと立ち上がって廃材置き場の中を覗き込んだ。二人は奥の部屋に消えたらしく、ここからは見えなかった。


「うわっ?! 何するんだよっ!」


 その時、奥の部屋で男の叫び声があがった。同時に、カチャカチャと、金属の擦れる音、それに続けて、ベッドが軋むような音が聞こえてきた。


「や……やめろ……っう……ぐぅぅぅ」


 最後の方の男の叫びは、猿轡でもかまされたのか、くぐもって声にならなかった。


「チョルスヒョンッ!」


 ミンホが自分の口を塞ぐチョルスの手を振り払って叫ぶ。


「買春なんてもんじゃない。あれじゃ、完璧に強……」


 もうこれ以上は傍観できないと、部屋の中に踏み込んでいく姿勢を見せるミンホに、さすがのチョルスもミンホの後に続いて乗り込もうと踏み出したその時、雨に霞んだ暗がりの向こうから、ユラユラとこちらに向かって近付いてくる明かりが見えた。



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